ブログ仙岩

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親鸞完結編「自然に還る」2を読んで

2014-07-25 09:02:15 | 日記
第358回、五木寛之の完結編がいよいよ今月末で終わる。「私は長く生きてきた。これまでにいくつかの文章を書き、人にも念仏のことを語ってきた。・・・煩悩絶ちがたき凡夫なのだ。だからこそただ一筋に他力をたのむしかない道はない。仏でも菩薩の生まれ変わりでもないのだよ。ただ、一人の人間として,まもなくこの世をさるであろう。そこをまちがえてはいけない」連位は小さくうなずきながら・・・

親鸞に私のことをどう思うかと聞かれた覚信は「親鸞さまにとって念仏する方々は家族や近親者と同様みな家族で、恵信や善鸞様に冷たい方と思っていましたが、そうではなく観音菩薩の生まれかわりで大慈悲がすべての人々にそそがれていると感じます」・・・と、少し長いので意訳しましたが、

五木寛之「歎異抄の謎」で、親鸞は、本当は何を言いたかったのかの問いに、前文に見える。しかし、五木さんは「善人なおもて往生すいわんや悪人にをや」の悪人正機と言えば親鸞、そして「歎異抄」と誰しも思うのですが私はそこに重点をおいて歎異抄を読んだことはないと。それよりも人間とはなんと不安定なものだろうと。

あとがきでは、不思議な歎異抄は大きな思想を抱え込んだ書物で私はほかに知らない。その意味で歎異抄に触れたのでなく、噛まれたと言っていいだろうと。学生時代に「ドストエフスキーに噛まれた」と仲間が表現していたことを思い出したからで、今私たちは大きな時代の変わり目に立っている。これから来るであろうヒューマニズムの終わりに歎異抄は見えだされるものと思う。