オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

演歌な人生

2009-08-20 | Weblog

8/20(木) 今日の弁当、オニギリかハンバガーにするか迷う。結局オニギリニ落ち着き、ハンバーガーは明日のメニューとした。

焼き鮭・タラコ、おかか、シラス、昨夜の鳥唐揚げを刻み味付けをした変わりダネ。包み込んだり、まぶしたりと合計18個のオニギリを作る。

こんなに誰が喰うんだ~と、我ながら貧乏性に呆れるが、幸に小僧が持って行くと云う。お菜は、卵焼きのみ。

家人、次女、小僧と私、それにK君。Kには8個を渡し、半分冷凍にさす。逃げるKの写真を携帯で撮る。最近、髭を生やし始めた。むさ苦しいので剃れと言うと、少し短くした。

今日のオニギリ     照れているK君

早めに弁当の用意が終り、一人机に向かいCDをボンヤリと聴く。

時々聴く、千秋なおみの歌「悲しみを拾って」「流浪歌(たびうた)」「かもめの街」・・・。

つくづく思うに、俺の人生も「演歌」だな~と。

義理と人情の世界に暮らしながら、不義理ばかりを重ねてきた。積み重なった不義理の一つひとつを、演歌を聴きながら噛み締める。今更どうすることもできないことばかりだが・・・。ふっと、昔お世話になった一人の方が浮んだ。

木村翁助先生、八紘流柔術出身で整体術家。三十年程前となるが、伊豆大川に弟子たちと暮らして居られた。

私の大先輩、若山先生の友人であることから、若山先生と伊豆の子浦に旅した帰えり、伊豆大川に立ち寄ったことからご厚誼を頂くようになった。

当時、木村先生は大川の借家に住まい。知人から一万坪余りの山林を使用することを許されていた。サラリーマン生活に飽き飽きしていた私は、先生の裏手の空き地を借り小屋を建てようと後輩を誘い出かけるようになった。山から木を運び屋根を作り、床を張る段で力尽き頓挫した。

一人でもよく出かけ、先生の弟子たちとも食事を共にしたりとお世話になった。

先生達は、その後、大川を離れ山形、小笠原と移り最後に東京で暮らしていたそうだが、転居される中で音信が途絶えた。その間に奥様を亡くされたと聞いた。

何年か経った夏の夜だった。

弟子の一人から突然の電話が入り、先生の逝去を知らされた。夜も更けた頃、遺体が安置された葬儀場で亡き骸となった先生との久し振りの対面となった。

夜も更けて、弟子の一人から聞かされた事「先生は私がスピンアウトするんじゃないか」と心配されていたと・・・。いろんな処で、いろんな人たちに見守られていた。

何とか、32年に渡りサラリーマン生活を過してきたが、若い頃から今に至るまで人の世話になるばかり、迷惑の掛け通し。不義理が重なるばかり。

演歌を聴くと、重ねた不義理の重さが身に染む。その重さを感じながら、何とか生きようと思う。何時か、少しだけでも義理を返すために。

 

 昨日、会社のベランダの朝顔が一日花を咲かせていた。季節はもう秋の訪れか・・・。

 

コメント
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