ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

“生き残る” ― この言葉に想うこと(隠居の雑感)

2016-04-01 17:57:32 | 自分史
 “生き残る” という言葉は、年頭の挨拶でもよく出て来ました。どんな文脈だったのか忘れましたが、「生き残りを賭けて・・・」とか「生き残るために・・・」とかです。いずれも社員の士気を鼓舞するだけが目的だったように思います。状況説明をサラッと流すだけで、なぜ奮起して欲しいのかがほとんどないに等しかったように覚えています。

 檄を飛ばすなら、それなりの理由と具体的な目標があってしかるべきだと思っていました。だから、単なるスローガンか・・・とただ呆れるばかりで、大抵の人も「またか・・・」という白けた気持ちで聞いていたと思います。年頭恒例の呪文のようで、後味の悪さだけが記憶に残っています。

 “生き残る” という言葉は本来、追い詰められた際の悲壮感に溢れた言葉で、本気の覚悟と気迫がこめられるべき重い言葉のはずです。それなりの根拠と具体的な目標があってこそ説得力と迫力とが伝わってきます。要の部分が抜けていたので言葉に重みが感じられず、ええかっこしいの薄っぺらなものとしか聞こえませんでした。本気度がないと見られたら、使い方によっては「勝手にしたら・・・」とか「余計なお世話」としか受け取られかねません。

 先日の朝、目覚めの一服をしていたとき、ふと「イキノコ(生き残)・・・」という言葉が浮かんできました。「生き残りを賭けて」だったのか「生き残るため」だったのかも分かりません。結構こんなことがよくあります。どちらにせよ “生き残る” 以外の言葉はないはずなので、なぜこんな言葉が浮かんで来たのかとても不思議でした。

 現在の私は悲壮な覚悟が要る心境ではありません。完全退職後でも何とか暮らせる年金があり、生活費を何とかしなければと稼ぐことに汲々しているわけではありません。「断酒を続けなきゃ・・・」とか「再飲酒したらどうしよう・・・」とかいうアルコールに囚われた強迫感も薄れ、ごく自然に飲まないで過ごす日々が順調に続いています。ですから “生き残る” という言葉に違和感を覚えたのです。そこで思い出したのが昔会社であったエピソードで、“生き残る” がよく使われていた上述の場面だったのです。

 よくよく考えてみると、よくぞここまで生き残れたものだと思うばかりです。幼児期には、よく高熱を出し、波がうねるように天井が歪んで見えたりしたものでした。高校1年生の時には、扁桃腺摘出術後の出血が止まらず、医者が対処に慌てたほどでした。壮年期の狭心症発作では、冷や汗まで出る強い狭心痛で一歩も動き出せなかったこともありました。アルコール依存症の末期には、ブラックアウトの繰り返しと失神発作でさすがに死を意識しました。命にかかわるような、身体に起きた病的異変だけでもこれぐらいあります。

 事故や災害でも肝を冷やしたことがありました。御巣鷹山に墜落した日航機に運よく乗り合わせていなかったこと、阪神大震災の地震当日に倒れて来た洋服箪笥の下敷きになったこと、自転車で走っていた最中に前輪が外れて投げ出されたこと、甲子園球場の観覧席最上段から足を踏み外して転げ落ちたこと・・・などです。

 そんな死の瀬戸際を経験したにもかかわらず、思い通りにいかないことに悲観し、身勝手にもいっそ死んでしまいたいと思ったこともありました。ですから、「生き残った」というよりも、むしろ「生き残らせてもらっている」と表現した方が、今の私の正直な胸の内なのです。

 思えば楽しみで飲んでいた酒が、いつしか美味くもないのに飲まざるを得なくなったのも、“生き残り” を賭けた仕事の重みに耐えかねたからではなかったか・・・そう思えてなりません。

 サラリーマンの勲章は高い給料を得ることです。高給を得るには昇進しなければなりません。昇進するには仕事に成功しなければなりません。無理してでも成功しなければ・・・私のプライドはそれらを求めて止まなかったのです。自分の器がどれだけのものか、薄々気付いていながら顧みようとしませんでした。

 アルコール依存症となって死の縁まで経験し、断酒を経てやっと、素面の頭でサラリーマン人生から完全に引退したのだと悟りました。もう競争すべき舞台はありません。上を目指して頑張る必要もありません。せっかくの命です。与えられた寿命が尽きるまで、もはや粗末になどするつもりはありません。粗末になどしようものならバチがあたります。

 夢の中でこんな想い出が巡っていたのでしょう。それで起きがけの頭に「イキノコ(生き残)・・・」という言葉だけが残っていたのだと思います。朝の清々しさが透き通った内省を授けてくれました。

 “生き残る” などむやみに使う言葉ではないと自戒していたつもりでしたが、二男の結婚披露宴でつい使ってしまいました。かれこれ7年前の話です。「結婚生活とはsurvival game、生き残りを賭けた戦いだと思っています。・・・」

 ともすると、若い時には恋愛と称し、実のところ性欲に駆られて結婚まで一気に突き進んでしまいがちです。元々他人同士が一緒に暮らして行くうちに、生活の流儀・作法の違いで両人の間に軋轢や葛藤が生じることはままあり得ます。それが恋愛結婚の現実です。こんなハズではなかった・・・というのが定番で、かくして性格の不一致・・・に至る話がわんさかあるわけです。

 その一方、仲人を介した見合い結婚では、両人の生まれ育った生活レベルや生活環境やを加味して仲介するのが常道です。だからこそ、生活を一緒にして生じる軋轢や葛藤を高確率でうまく避けられるだろう、というのが大方の見る見合い結婚なのです。

 二男は恋愛結婚です。お目出度い披露宴の席なのに、両家を代表してこんな白けることを諄々述べる人はいません。人生は山あり谷あり、油断のならないものです。油断したらすぐ足元を掬われるのが世の常です。

 私の思いは、若い二人と彼らの仲間にただ一言伝えたかっただけです。「結婚生活は文字通り生き残りを賭けた戦いだ」と。わざとらしく重みのある言葉を使う、ええかっこしいの会社のお偉いさんとは一味違う言葉のつもりでした。

 それでも酔っ払いの戯言だと白けた人もいたとは思うのです。が、それも世の常、仕方ありません。何とか生き残って来た自負があったればこそ話した言葉のつもりでしたが、その重みと迫力は結局のところ受け手だけが感じ取れるものだから・・・です。



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