ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

ありのままの事実を ありのままに・・・

2016-07-22 18:56:59 | 病状
 毎度おなじみ、“路上のゴミ拾い” の話です。今回は “ゴミ拾い” で拾った貴重な教訓の話をします。

 私がやっているゴミ拾いの場は、もちろん公道の歩道と公園です。その中でも手を抜けないのが人のよく集まる場所です。公園、ショッピングセンターやコンビニ周辺、信号機のある交差点、バス停、この順に集中力を按分していますが、ランキング上位の場所では期待(?)を裏切られることはまずありません。

 ランキングトップの公園については、利用者の行儀(マナー)の良し悪しがゴミの散らかり具合の決め手のようです。私は、広さが中規模以下の普通の公園だけを守備範囲としていますが、行儀の悪さで札付きの公園もあれば、あまり散らかっていない公園もあります。普通の規模の公園であれば、広さや利用者数とゴミの散らかり具合とはあまり相関しないというのが私の経験則です。


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 7月の最初の土日は、梅雨が明けたと思えるぐらいの暑い日でした。初日の土曜日には、ゴミ拾いで7時間も頑張ってしまい、さすがにバテて家に戻るなりバタンキュウとなってしまいました。妻からもキツイお咎めがあり、自分でもやり過ぎたと反省しきりでした。

 翌日の日曜日は、前日に作業を済ませていた札付きの公園を除外し、午前中だけで終えるつもりでした。午前7時半に始めた前半の行程は、2週間ぶりに巡回したコースにもかかわらず、想定内で終えることができました。この調子でいくと、後半も無難に作業が終了できそうでした。獲らぬ狸の何とやらで、思惑通りにはいかないのが成り行きというものです。そう思い知らされました。

 あと1時間もすれば、予定していた全行程が終えられると見積もった矢先、出くわしたのが人糞です。久々とは言え、5回目ともなれば馴れたもので、息を止めたまま難なく始末してのけました。「まだ何かあるかもしれない。」過去4回の経験では、なにがしかの出来事が付きものだったのです。運不運は別にして、やはり “うん” は付いて来るようです。

 その後はしばらく無難に過ぎ、この日の最後の山場、バス通りに面した公園に差し掛かりました。以前はひどい状態でしたが、最近はほぼ毎日立ち寄ることにしているので、かなり行儀がよくなった公園です。

 公園の出入り口近くにトイレがあり、そのトイレの周辺を起点に作業を始めるのが私の手順になっています。取り掛かって直ぐに、いつもと違うことに気付かされました。最近はめったにない菓子袋のようなクズが、そこここに散らかっていたのです。そして、トイレの陰の方、広場の方角からは、「キャー、ハッハッハー」と黄色い歓声が聞こえて来ました。

 広場を見ると、10人ほどの若い男女が輪になって遊んでいました。どうやら風船ボンボン(水ヨーヨー)をボールに見立てて、キャッチボールをやっているようなのです。まるで浜辺でビーチボール遊びをやっているようなノリでした。

 ソフトボールのように下手から緩く放っているのですが、うまいことキャッチし損ねると、水の入った風船が割れて、服がビショ濡れになります。案の定、太腿の辺りをビショ濡れにしている娘(こ)もいました。ある意味、ロシアンルーレットの引き金(?)のような緊張感があるのでしょうか。その緊張感が堪えられないらしく、「上から投げるのにしよぅよ~!下からじゃなくてぇ~!」という黄色い声も聞こえてきました。より一層のスリルを求めた “おねだり” みたいに聞こえました。

 問題は彼らの足元とその周辺にありました。空のペットボトルやら、ビールの空き缶やら、おつまみ袋のクズやらがそこら中に転がっているのです。吸い殻とおぼしき白いモノも点々としていました。彼らは、そんなことを気にするふうでもなく、そのど真ん中で遊んでいました。目を覆いたくなるほどの惨状です。さすがに腹に据えかねましたが、それでもチラチラ横目で彼らを見ながら、広場の縁の方から周囲を巡るように、黙って作業を進めることにしました。

 広場の隣にはブランコや、滑り台、砂場など幼児向けの区画があり、広場との境に低い石垣に囲まれてクスノキの大木が何本か立っています。普段は、木々の立っている広場の境にゴミが散らかっていることなどめったにありません。その木々の地面にも、そこかしこ空容器と吸い殻が散らかっていて、広場と同じ惨状でした。悪ふざけにも限度があるはずです。もう黙っておれなくなりました。

 若い女連れの若い男たちというのは、男同士お互い妙に虚勢を張りたがるところがあります。傍から下手に注意でもしようものなら、イイところを見せようと、食って掛かる手合いが必ず現れます。そうなると集団心理に火が着き、自分の本意とは裏腹に、打って変わって手に負えなくなる恐れがあるのです。すでにアルコールが入っているのなら尚更です。だからこそ、クレームをつける際は話の切り出し方がとりわけ大事で、念には念を入れて慎重にならざるを得ません。

 「ちょっとぉ~、あんたらなぁ・・・、か?
  いや、待てよ。ちょっとぉ~、君たちぃ・・・か?
  いや、おいっ、・・・かなぁ?
  まさか、すみませーん・・・、はないよなぁ?!」 どう声を掛けたものか、迷いに迷ってしまいました。

 その時です。「待てよ、彼らが散らかしたという証拠はあるのか? 行為そのものの現場を見たのか?」自問自答から引き出した答えはノーでした。状況証拠はあり余るほどあるのに、決定的な場面を目撃していなかったのです。冷静になってみれば、彼らに「証拠があるのか」と開き直られたら、グーの音も出ない状況だったのです。危ういところで踏み止まることができました。

 私は黙々と作業を続け、ジワリジワリ彼らの領域に近づいていきました。するとどうでしょう、彼らは幼児向けの区画の方へ静かに移動して行ったのです。一緒にゴミを拾ってはくれなかったものの、彼らも十分自責の念を持っていて、少なくとも私の邪魔にならないよう配慮したことが分かりました。私はそのまま作業を続け、小ざっぱりしたいつもの公園の姿に戻すことができました。

 結局、拾い集めたゴミは、空のペットボトルと空のアルミ缶だけに限ってみても、30本を下らなかったと思います。ペットボトルのラベルを剥がすのに手間取り、この公園での作業に小一時間ほど要しました。私が公園を立ち去る際、彼らは元の場所に戻ってきて、タバコを一服したり、同じ風船ボンボン(水ヨーヨー)遊びを続けていたりしていました。帰り道、昼食をとってから自宅に戻ったのですが、時計は午後1時半を回っていました。

 彼らは歳の頃20歳ぐらいでしょうか。犯人と決め付けるわけではありませんが、公共意識の乏しさには怒りを越えて哀れみさえ覚えてしまいました。状況証拠でしかないと気付くまでは、「注意もできない臆病者の意気地なし!」と自分の不甲斐なさを責めてもいましたが、ありのままの事実を踏まえた実証的な状況判断が大切なのだと再認識できました。今では、黙々と作業を続けたことで、彼らに公共意識とは何か、そのお手本を実地で見せられたと自負しています。よく自制できた自分に少しばかり誇りも感じています。

 翌日、いつものように件の公園に立ち寄ってみました。もしや元の木阿弥になってやしないかと不安があったのですが、目にしたのは普段通りに秩序が保たれた状態でした。どうやら収穫もそれなりに大きい日だったようです。


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 もしも、ブツブツ文句や悪態を呟きながら、あなたの足元を掃除する人がいたら、・・・? これじゃ誰でも不愉快になるに決まっています。“ゴミ拾いの鉄則は黙ってやること” これが私の流儀です。その日は、私の流儀が間違っていなかったと再確認できた日でもありました。


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