ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

感謝の気持ちの反対は?

2017-01-13 05:42:10 | 自分史
 『ひこばえ倶楽部』という読者投書欄が産経新聞にあります。
25歳以下の年齢制限があり、主に高校生以下の子供たちが投稿しています。真っ当で素直な考えの投稿が多いので、いつも読むのを楽しみにしています。

 だいぶ前のことになりますが、その欄に中学生の投稿がありました。『感謝の反対は当たり前』という見出しで、日常の心がけを書いた投稿だったと思います。母親からそのように教わったそうです。この言葉には目から鱗の思いをしました。

 中学生といったら最も難しい年頃です。テーマの捉え方もさることながら、母親の諫めを素直に語る姿勢にいたく感心したものです。同時に、どんなきっかけで母親がそのように教えたのかにも興味津々でした。相も変わらず余計なお世話の私の癖です。ところがしばらくして、次のようなことを考えてしまいました。

 思えば、結婚生活の破綻は相方を “空気” のように感じたことから始まったようです。やってもらうのが “当たり前” と見做し、感謝の気持ちを忘れたままでいたのが危険信号だったのです。私たち二人の破綻はこれが始まりでした。 

 世の例に漏れず、私も仕事にかまけてばかりで妻を “空気” のようにしか感じていませんでした。しかもそれが “当たり前” の夫婦の姿だと思っていました。異変に気づいたときは既に遅く、事態は取り返しのつかないことになっていました。6年間の別居生活を経て、一応元の鞘に収まってはいますが、それから16年経っても、一旦割れてしまった茶碗を元に戻す作業が続いています。

 『感謝の反対は当たり前』は立派な警句です。人にやってもらえることが “当たり前” なのは、実は一対一の関係にしか当てはまりません。しかもそう思えるのは、二人が幸せの安定期にある時だけに限ります。幸せとは幸せだと気づいていないこと。何とも皮肉なことです。

 幸せを鈍感にさせるのは油断や慢心です。“当たり前” ではなくなった時が二人の仲に相当ヒビが入ったときなのです。油断や慢心とは “当たり前” と見做す心のことなのですね。

 普段、やってもらって “当たり前” と見做していることに手抜きが感じられたら、超多忙のせいか、意図的な意地悪か、いずれにせよ異変だと察知すべきです。そして、相方へ率直に語りかけ尋ねるべきです。“当たり前” と見做せること自体が、実に有り難い貴重なことなのです。少なくともこの自覚さえあれば必ず態度に出るハズです。そんな自覚さえもないとしたら、ひどいしっぺ返しを喰っても、それこそ “当たり前” なのです。

 以上は、感謝の気持ちを言葉で口にすれば済むだけの話です。感謝の気持ちを口にするなんて恥ずかしいなどと、暢気に言っていられる場合ではありません。感情のこじれを放置していた頃の自分を改めて振り返り、ついこんなエラそうな屁理屈を捏ねてしまいました。

“親しき仲にも礼儀あり” 
偏屈でひねくれ者の私としては、精々こんなところで手を打ちたいというのが本音です。投稿した中学生のような素直な感性は、遠の昔に錆び付いてしまったようなのです。

 最後に例のごとく余計な一言を。
やってあげていることが自分で “当たり前” と思えているなら、何ら問題ありません。心おきなくご随意にお続けください。



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コメント (7)
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