「健康な心って?」改まってこう問われたら戸惑ってしまうのが普通だと思います。これは、幸せとは何かという問いかけと同じむずかしい問題です。
当たり前と思っていたことが実は幸せそのものだった、と失ってみて初めて気づくのと同じように、健康な心も、一度は失って狂気から回復しなければわからないと思うからです。幸い(?)なことに、私はこのどちらも経験しています。
先日の自助会AAのミーティングでは、この “健康な心” がテーマでした。この類いのテーマの場合、真逆の意味の反意語から取りかかるのがよさそうです。AAの言う “健康な心” とは sanity (正気、気の確かなこと、分別)のことで、その反意語は狂った心・狂気です。
かつて私が経験した狂気とは次のようなものでした。逃げ場がなくなるほど精神的に追い詰められたとき、決まって性欲に火が付いて最後は妄想にまで膨れ上がったものです。何とか生き残らねばという本能の悪足掻きだったのでしょうか?
そんなときは、何とか気を紛らわそうとしての深酒が定番でした。しかもその深酒は1日だけで治まるわけがありません。これが連日続いたら最後、性的衝動でもうどうにもならなくなる寸前まで行きました。アルコールが自制を取り払い、歪んだ性欲(妄想)を増幅させて狂気の域まで狂わせてしまったようです。
今思えば、衝動に駆られて刑事事件を起こさなかったことが不思議なくらいです。一旦取り憑いた妄想は、自分では異常とわかっていても自力で消すことはできません。
そんな狂気に対して、では反意語の正気・健康な心とは? 狂気の兆しを察知したときに、自分を含めた周りの状況をありのまま(客観的)に受け止めて冷静な価値判断を下せること、これが今の私の理解です。もちろんこれは、妄想を増幅させるアルコールを断っていることが大前提です。
価値判断や感情を司っているのは大脳辺縁系にある扁桃体と言われています。この器官は、記憶を司る海馬の直ぐ隣りにあります。このことから、価値判断は記憶のネットワークと密接に繋がっていると考えられています。確かに、良い悪いの価値判断は経験の有無に左右されます。そうであれば、記憶のネットワークを健全に維持しておくことが即ち、健康な心を保つこと、となるのではないでしょうか? これが二番目に得られた私の理解です。
ところで、つい最近知り合った K 氏と市役所の食堂で昼食中、時事問題が話題となったことがありました。このとき自分でも吃驚したのは、何があったのかは思い出せても、誰が(人名?)、何時(西暦年数?)については記憶が飛んで一向に出て来ないことでした。自分では十分過ぎるぐらい正確に覚えていたつもりでもこのザマだったのです。
記憶のネットワークに刺激を与えるためには、酒害体験以外の様々な話題の場にも参加することが欠かせないようです。自助会以外の他流試合も記憶力の修練には必要だとつくづく思い知らされました。
* * * * *
このところ狂気に駆られた殺傷事件が立て続けに起こっていますが、その度に聞こえてくるのが「誰でもよかった。むしゃくしゃして」という犯人の決まり文句です。いかにも得体の知れないモヤモヤした衝動に駆られての犯行だったのかがわかります。“気違いに刃物” ですから、正義感からそんな輩に丸腰で立ち向かうなど以ての外です。
現状では狂気への対策は立てようがないのでは? 不条理とは思いますが、ついついそう思ってしまいます。人の心の中は見えませんが、目は心の窓と言います。精々用心すべきは、目ヂカラのない人、変な目つきの人には決して近づかないこと、これしかないのでは?
繰り返しになりますが、
一旦取り憑いた妄想は、自分では異常とわかっていても自力で消すことはできません、念のため。
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当たり前と思っていたことが実は幸せそのものだった、と失ってみて初めて気づくのと同じように、健康な心も、一度は失って狂気から回復しなければわからないと思うからです。幸い(?)なことに、私はこのどちらも経験しています。
先日の自助会AAのミーティングでは、この “健康な心” がテーマでした。この類いのテーマの場合、真逆の意味の反意語から取りかかるのがよさそうです。AAの言う “健康な心” とは sanity (正気、気の確かなこと、分別)のことで、その反意語は狂った心・狂気です。
かつて私が経験した狂気とは次のようなものでした。逃げ場がなくなるほど精神的に追い詰められたとき、決まって性欲に火が付いて最後は妄想にまで膨れ上がったものです。何とか生き残らねばという本能の悪足掻きだったのでしょうか?
そんなときは、何とか気を紛らわそうとしての深酒が定番でした。しかもその深酒は1日だけで治まるわけがありません。これが連日続いたら最後、性的衝動でもうどうにもならなくなる寸前まで行きました。アルコールが自制を取り払い、歪んだ性欲(妄想)を増幅させて狂気の域まで狂わせてしまったようです。
今思えば、衝動に駆られて刑事事件を起こさなかったことが不思議なくらいです。一旦取り憑いた妄想は、自分では異常とわかっていても自力で消すことはできません。
そんな狂気に対して、では反意語の正気・健康な心とは? 狂気の兆しを察知したときに、自分を含めた周りの状況をありのまま(客観的)に受け止めて冷静な価値判断を下せること、これが今の私の理解です。もちろんこれは、妄想を増幅させるアルコールを断っていることが大前提です。
価値判断や感情を司っているのは大脳辺縁系にある扁桃体と言われています。この器官は、記憶を司る海馬の直ぐ隣りにあります。このことから、価値判断は記憶のネットワークと密接に繋がっていると考えられています。確かに、良い悪いの価値判断は経験の有無に左右されます。そうであれば、記憶のネットワークを健全に維持しておくことが即ち、健康な心を保つこと、となるのではないでしょうか? これが二番目に得られた私の理解です。
ところで、つい最近知り合った K 氏と市役所の食堂で昼食中、時事問題が話題となったことがありました。このとき自分でも吃驚したのは、何があったのかは思い出せても、誰が(人名?)、何時(西暦年数?)については記憶が飛んで一向に出て来ないことでした。自分では十分過ぎるぐらい正確に覚えていたつもりでもこのザマだったのです。
記憶のネットワークに刺激を与えるためには、酒害体験以外の様々な話題の場にも参加することが欠かせないようです。自助会以外の他流試合も記憶力の修練には必要だとつくづく思い知らされました。
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このところ狂気に駆られた殺傷事件が立て続けに起こっていますが、その度に聞こえてくるのが「誰でもよかった。むしゃくしゃして」という犯人の決まり文句です。いかにも得体の知れないモヤモヤした衝動に駆られての犯行だったのかがわかります。“気違いに刃物” ですから、正義感からそんな輩に丸腰で立ち向かうなど以ての外です。
現状では狂気への対策は立てようがないのでは? 不条理とは思いますが、ついついそう思ってしまいます。人の心の中は見えませんが、目は心の窓と言います。精々用心すべきは、目ヂカラのない人、変な目つきの人には決して近づかないこと、これしかないのでは?
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