世に潜む偽善を喝破した山本夏彦の随筆が好きです。飄々とした氏の毒舌をダシに常日頃考えているところを書いてみました。
山本夏彦(1915~2002)は、江戸趣味の風流が残る旧き良き東京の常識と西欧的な良識を体現していた人物で、辛口の随筆家として戦後日本の世相の風刺と真の常識を説いた人です。かつて雑誌『室内』の発行人兼編集者でもありました。
アルコール問題から私が家族と別居生活を強いられた40代前半に、たまたま作品を手にして出会えた人物です。旧き良き東京弁を想わせる文体が小気味よく、独居中の侘しさを紛らわしてくれました。思惑違いとなった人生に、ともすれば落ち込みがちの気持ちをも励ましてくれたものです。
舌鋒鋭い辛口で世相を笑い飛ばすのが山本夏彦の神髄です。その批評の小気味よさに、いつも “わが意を得たり” と膝を叩いては溜飲を下げていました。
読者から「どの作品を読んでも、同じことが書いてあるだけ・・・」と言われたことに苦笑いしていた人だけに、批評する目はブレることなく首尾一貫していました。世相にザックリ鉈(なた)を打ち込み、問題の本質が虚偽と偽善にあると笑い飛ばす警句の数々をご堪能ください。もちろん虚偽・偽善とは嫉妬を後ろ盾としているもののことです。いずれの言葉も読んだとき「これだ!」と私の琴線にふれたものばかりです。
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私たちは偽善が大好きで、偽善なしではいられない。
この世は偽善に満ちたところで、偽善は必要なもの・・・
言葉はいつわるためにある。
私はこの世は、ウソでかためたところだと思っている。
そしてそれでいいと思っている。
ウソはどこまで必要か、人はどこまで虚偽を欲するか、
私はそれを知りたいと思っている。
正義と嫉妬とは必ず結びつく。
この世はやきもちから成っている。
私が正義をほとんど憎むのは、自分のことを棚に上げて
初めて正義だからである。
正義は言うものにあって、言わぬものにない。しかもウムを言わせない。
持てるものから奪い、もたざるものに公平に分配するのは正義だ
というのは社会主義の正義で、その根底にあるのは嫉妬である。
嫉妬は常に正義に変装してあらわれる。
大衆というものは、常に手前勝手なものである。
ケチでヨクばりで、ウソつきのくせに
正直者だと思いこんでいるものである。
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言葉というものは、使う方も受け取る方もそれぞれ手前勝手に解釈していいもののようです。耳触りのいい言葉ほど使い勝手がよく、多くはキレイ言です。そんな言葉の裏には偽善が潜んでいます。偽善が装うキレイ言には正面切って抗うことができません。決まって、現実から目を逸らさせるのに一役買っているものです。
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」「人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会」前者は日本国憲法の前文に、後者は日本共産党の綱領中にある言葉です。どうみてもこれらは私たちが大好きな偽善そのものです。
国境は、元々仲がよくない国同士だから引いているのです。国境を接する近隣の国々とは、捏造した虚偽の歴史を盾に日本への誹謗中傷に明け暮れする国、隙あらば日本の領土を掠め取ろうとする国、日本の領土を不法に占拠している国、日本人拉致という国家犯罪を犯したばかりか弾道ミサイルの標準を日本に合わせている国、このような油断ならない強面の面々です。どう見ても敵意剥き出しで、とても “公正と信義” など期待できそうもありません。
日本共産党の綱領にある “平等で自由” と聞くと、誰しも富の平等な分配など結果平等のことだと都合よく解釈すると思います。よくよく考えてみると、誰でも平等に持てるのは “権利” と “義務” と “死” の三つだけに限られます。“人間は皆平等” などはキレイ言の偽善です。よほど強権的な社会主義社会でない限り結果平等など実現できません。せいぜい機会均等な社会を目指して、その実現に励むのが現実的だと思います。
若い頃、私も一時左翼思想に傾いた時期がありました。山本夏彦に出会った私の40代前半といえば、冷戦が終わったばかりの時代でした。世界情勢の劇的変化に興奮したものですが、「社会主義には正義がある、資本主義にはない。若者は正義に魅せられる。(山本夏彦)」という言葉にもいたく納得させられました。偽善はいつかバレルものです。これらの例のように、世の中は嫉妬と偽善が渦巻くものと看破した山本夏彦の言葉は、当時のうつうつとした私の胸の内をも明るく照らしてくれたものでした。
普通、“民主” という言葉を聞けば、私たちは多数決を意味する民主主義のことと、勝手なイメージに囚われます。ところが、共産党の民主集中制とは上意下達のことだそうですし、民主党の民主は各人が勝手に自分の意見を述べていいという意味だったようです。
かくも言葉は便利かつ適当(テキトー?)なもので、自分たちに都合よく変身させてもいいものなのです。解釈するのは人の勝手で、意味を確認しなかった方が悪いのです。キレイ言を鵜呑みにしてしまい、無邪気に惑わされてしまうのは、言った者の思う壺です。
偽善は凶器にもなりえます。自分を棚に上げ、異なる意見を葬るには最適の武器です。最近のことですが、大阪の市立中学校の校長が全校集会で「女性にとって最も大切なのは子どもを2人以上産むことで、仕事でキャリアを積む以上に価値がある」などと述べたことが問題になりました。地元の教育委員会に、女性の “人権” を貶めるものと抗議の声が寄せられ、校長の進退問題になったそうです。私などは、人としてあるべき道理をありのままに説いたもので、校長の見識は至極真っ当なものと考えています。女性の “人権” 擁護などと、見た目に抗いがたいキレイ言の主張には裏に偽善が潜んでいます。
誰もが反対しにくい言葉にはイカガワシさがあります。耳触りのいいキレイ言で固めた偽善を前に、その虚偽を突き、反論するには勇気とド根性が要ります。巧妙なキレイ言だけあって、正面切っては抗いがたいのです。こんな言論の自由など不自由そのもので窮屈です。“ウソも方便” は潤滑剤として使うべきで、謀略などに使う輩にはバチが当ってほしいものです。
山本夏彦は一方で、 “生とは意識そのものである” と、こんなやるせない胸の内をも覗かせています。
人には本来年齢がない。女は永遠に十七である証拠だ。・・・
まことに歳月は勝手に来て勝手に去る。私たちの内部は永遠に年を
とらないのに、外部だけとるのは納得できないことである。
(山本夏彦)
私にはなぜかこの言葉がストンと腑に落ちました。そしてまさしく、「若いときの感性のままに、ブレない生き様こそが人の信用で、モノを言うのは結局ブレない生き様だけなのだ」と思えたものでした。・・・が、その後の生き様は、ややもすれば変なプライドだけがブレないままで、とんでもない無様な生き様に身をやつしていたと思えてなりません。
出典をメモしていなかったので引用元を挙げていませんが、どの作品を読んでも類似の警句に出会えること請合います。
こちらの記事もご参照ください。
「『人間は平等』は正しいですか?」
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山本夏彦(1915~2002)は、江戸趣味の風流が残る旧き良き東京の常識と西欧的な良識を体現していた人物で、辛口の随筆家として戦後日本の世相の風刺と真の常識を説いた人です。かつて雑誌『室内』の発行人兼編集者でもありました。
アルコール問題から私が家族と別居生活を強いられた40代前半に、たまたま作品を手にして出会えた人物です。旧き良き東京弁を想わせる文体が小気味よく、独居中の侘しさを紛らわしてくれました。思惑違いとなった人生に、ともすれば落ち込みがちの気持ちをも励ましてくれたものです。
舌鋒鋭い辛口で世相を笑い飛ばすのが山本夏彦の神髄です。その批評の小気味よさに、いつも “わが意を得たり” と膝を叩いては溜飲を下げていました。
読者から「どの作品を読んでも、同じことが書いてあるだけ・・・」と言われたことに苦笑いしていた人だけに、批評する目はブレることなく首尾一貫していました。世相にザックリ鉈(なた)を打ち込み、問題の本質が虚偽と偽善にあると笑い飛ばす警句の数々をご堪能ください。もちろん虚偽・偽善とは嫉妬を後ろ盾としているもののことです。いずれの言葉も読んだとき「これだ!」と私の琴線にふれたものばかりです。
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私たちは偽善が大好きで、偽善なしではいられない。
この世は偽善に満ちたところで、偽善は必要なもの・・・
言葉はいつわるためにある。
私はこの世は、ウソでかためたところだと思っている。
そしてそれでいいと思っている。
ウソはどこまで必要か、人はどこまで虚偽を欲するか、
私はそれを知りたいと思っている。
正義と嫉妬とは必ず結びつく。
この世はやきもちから成っている。
私が正義をほとんど憎むのは、自分のことを棚に上げて
初めて正義だからである。
正義は言うものにあって、言わぬものにない。しかもウムを言わせない。
持てるものから奪い、もたざるものに公平に分配するのは正義だ
というのは社会主義の正義で、その根底にあるのは嫉妬である。
嫉妬は常に正義に変装してあらわれる。
大衆というものは、常に手前勝手なものである。
ケチでヨクばりで、ウソつきのくせに
正直者だと思いこんでいるものである。
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言葉というものは、使う方も受け取る方もそれぞれ手前勝手に解釈していいもののようです。耳触りのいい言葉ほど使い勝手がよく、多くはキレイ言です。そんな言葉の裏には偽善が潜んでいます。偽善が装うキレイ言には正面切って抗うことができません。決まって、現実から目を逸らさせるのに一役買っているものです。
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」「人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会」前者は日本国憲法の前文に、後者は日本共産党の綱領中にある言葉です。どうみてもこれらは私たちが大好きな偽善そのものです。
国境は、元々仲がよくない国同士だから引いているのです。国境を接する近隣の国々とは、捏造した虚偽の歴史を盾に日本への誹謗中傷に明け暮れする国、隙あらば日本の領土を掠め取ろうとする国、日本の領土を不法に占拠している国、日本人拉致という国家犯罪を犯したばかりか弾道ミサイルの標準を日本に合わせている国、このような油断ならない強面の面々です。どう見ても敵意剥き出しで、とても “公正と信義” など期待できそうもありません。
日本共産党の綱領にある “平等で自由” と聞くと、誰しも富の平等な分配など結果平等のことだと都合よく解釈すると思います。よくよく考えてみると、誰でも平等に持てるのは “権利” と “義務” と “死” の三つだけに限られます。“人間は皆平等” などはキレイ言の偽善です。よほど強権的な社会主義社会でない限り結果平等など実現できません。せいぜい機会均等な社会を目指して、その実現に励むのが現実的だと思います。
若い頃、私も一時左翼思想に傾いた時期がありました。山本夏彦に出会った私の40代前半といえば、冷戦が終わったばかりの時代でした。世界情勢の劇的変化に興奮したものですが、「社会主義には正義がある、資本主義にはない。若者は正義に魅せられる。(山本夏彦)」という言葉にもいたく納得させられました。偽善はいつかバレルものです。これらの例のように、世の中は嫉妬と偽善が渦巻くものと看破した山本夏彦の言葉は、当時のうつうつとした私の胸の内をも明るく照らしてくれたものでした。
普通、“民主” という言葉を聞けば、私たちは多数決を意味する民主主義のことと、勝手なイメージに囚われます。ところが、共産党の民主集中制とは上意下達のことだそうですし、民主党の民主は各人が勝手に自分の意見を述べていいという意味だったようです。
かくも言葉は便利かつ適当(テキトー?)なもので、自分たちに都合よく変身させてもいいものなのです。解釈するのは人の勝手で、意味を確認しなかった方が悪いのです。キレイ言を鵜呑みにしてしまい、無邪気に惑わされてしまうのは、言った者の思う壺です。
偽善は凶器にもなりえます。自分を棚に上げ、異なる意見を葬るには最適の武器です。最近のことですが、大阪の市立中学校の校長が全校集会で「女性にとって最も大切なのは子どもを2人以上産むことで、仕事でキャリアを積む以上に価値がある」などと述べたことが問題になりました。地元の教育委員会に、女性の “人権” を貶めるものと抗議の声が寄せられ、校長の進退問題になったそうです。私などは、人としてあるべき道理をありのままに説いたもので、校長の見識は至極真っ当なものと考えています。女性の “人権” 擁護などと、見た目に抗いがたいキレイ言の主張には裏に偽善が潜んでいます。
誰もが反対しにくい言葉にはイカガワシさがあります。耳触りのいいキレイ言で固めた偽善を前に、その虚偽を突き、反論するには勇気とド根性が要ります。巧妙なキレイ言だけあって、正面切っては抗いがたいのです。こんな言論の自由など不自由そのもので窮屈です。“ウソも方便” は潤滑剤として使うべきで、謀略などに使う輩にはバチが当ってほしいものです。
山本夏彦は一方で、 “生とは意識そのものである” と、こんなやるせない胸の内をも覗かせています。
人には本来年齢がない。女は永遠に十七である証拠だ。・・・
まことに歳月は勝手に来て勝手に去る。私たちの内部は永遠に年を
とらないのに、外部だけとるのは納得できないことである。
(山本夏彦)
私にはなぜかこの言葉がストンと腑に落ちました。そしてまさしく、「若いときの感性のままに、ブレない生き様こそが人の信用で、モノを言うのは結局ブレない生き様だけなのだ」と思えたものでした。・・・が、その後の生き様は、ややもすれば変なプライドだけがブレないままで、とんでもない無様な生き様に身をやつしていたと思えてなりません。
出典をメモしていなかったので引用元を挙げていませんが、どの作品を読んでも類似の警句に出会えること請合います。
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