ボーナスが懸った医者との約束ですからすぐに禁酒を実行に移しました。
アルコール依存症と診断が下されたのは46歳の誕生日を間近に控えた正月でした。その日から夕食時には必ず付物だったビールも焼酎のソーダ割りも我慢することにしました。
口寂しさは中国茶で紛らわせました。会社の近所の食堂で夕食をとることが日課になっていて、そこでアルバイトをしていた中国人の女医が内臓脂肪を洗い流すのに中国茶がよく、脂肪肝にはよく効くと勧めてくれたのです。何にでも油を使う中華料理の本場の医者が勧めるのですから素直に信用することにしました。専門は循環器だと言っていましたが・・・
中国茶というと半発酵のウーロン茶を連想しますが、彼女が勧めたのは龍井(ロンジン)茶という日本茶と同じ不発酵の緑茶で、中華食材専門店でしか扱っていません。彼女に店を教えてもらい買い求めました。緑茶といっても日本茶の黄緑色とは違い番茶のような褐色がかった色をしたお茶で、中華レストランのサービスで出て来るお茶です。中華風急須も買い求め、ビール代わりに始終飲みました。
禁酒して1~2週間はなかなか寝付かれず、眠りの浅い(不眠)日々が続いたことは覚えています。中途覚醒があったのかは覚えていません。多分あったと思います。寝汗もあったでしょうが不快で目覚めた覚えがありません。痺れた頭で寝不足の朝を迎えたのでしょうが、よくあることで記憶に残っていません。国道43号線の騒音で毎晩鍛えられていたこともあって、多分そ の内に馴れたのでしょう。変な夢も見たのでしょうが、悪夢に悩まされたなど特別嫌な記憶は全くありません。
のど飴が無性に欲しくなって始終口にしていた時期がありました。断酒後に特有の病的甘味欲求に当る症状なので、この時期のことかもしれません。とにかく断酒後に特有の症状については全般的にあまり記憶に残っていないのです。
表装の講習がない休日には散歩する距離と時間を長くするようにしました。
春になって陽気がよくなってからは、奈良の桜井~天理間16km余の “山の辺の道” を4~5回歩いたと思います。『日本書紀』にその名が残る古道で、由緒ある神社あり・万葉集歌碑あり・古墳あり・天理教本部ありの変化に富むハイキングコースとして人気です。程よい起伏のある長い距離を歩くと、途中から頭の中が真っ白になってゴールまでの残りの距離がどれだけかの問いしか浮かばなくなり、雑念が全く消えてしまうのが爽快でした。その内の1回は二男と一緒に歩きました。二男は中学3年になっており、会話が難しい年頃でしたが、ゴールに到着したときは二人とも達成感で一杯でした。
長男は一浪してやっと私立大学に入学できた年でもありました。仲が良く見えた両親が、いつの間にか険悪な間柄となって離婚騒動が勃発。母親に騙されて父親を別居に追い込む片棒担ぎもさせられ、挙句の果てに見知らぬ男と母親の見え透いた海外旅行にも付き合わされた。これで人間不信となったのでしょう。愚連(グレ)て落ちこぼれの高校生活を送り、案の定現役では大学入試に失敗していました。
別居してからこの間、私がきちんと説明せずに渡していた本宅用の生活費も自分一人で勝手気儘に使っていたようです。これが “お金は天から降ってくるもの” という誤った金銭感覚を身に着けさせてしまった元凶です。ずっと後になって、大学にはほとんど行くことなく中退していたことも知りました。3年間の授業料は全て無駄だったのです。
金遣いの荒さや頻繁なお金の無心に気付いたときは全てが後の祭りでした。別居工作のカラクリとその不始末を知らなかったとはいえ、一言いうべきことを言わなかったことは、悔やみきれない私の一生の不覚です。普段、諄(くど)いぐらいしつこく念を押す性格なのに、肝腎のときにその一言を忘れるのが私です。何事も詰めが甘いのです。何時もこの調子で後になって悔やんでばかりです。長男の金銭感覚は学生時代の私自身を彷彿させ、間違いなく私の血を継いでいると確信させられました。
手帳のメモによると、禁酒3ヵ月目の休日に長男が通う大学キャンパスを見学に行っています。その帰りにホッとした所為か思わず一度飲んでしまい、その1ヵ月足らず後に本格的な再飲酒・泥酔となっています。追加の治験実施を指示する調査会指示事項が出たことに大変なショックを受けた当日夜のことです。もう一息でいよいよ承認取得だと期待が大きかった分、その反動 ―― 心に空いた空洞も大きかったのです。なんともアッケナイ、無残な腰砕け状態でした。
結局、懸命に取り組んだつもりだったにもかかわらず、禁酒は4ヵ月足らずしか続けることができませんでした。それでも休日には一日中酒浸りになるのだけは避けようとしていました。再び飲酒する日々になっても “山の辺の道” ハイキングの快感が忘れられず、暑い日を避けて奈良詣でを続けていたと思います。月一回の通院は再飲酒を期に止めてしまいました。
妻との離婚届の件は、酒を断って素面になったこの時期に、会社の仕事仲間に立会人の署名をもらい正式に役所に提出しました。誕生日が過ぎ46歳になっていました。別居していた件は会社でも半ば公然の秘密で、こそこそ隠し立てせず生きる方がよいと考えたのです。人事部に離婚した旨を届けたとき、これで社内全部に知れ渡るのだと覚悟を決めました。踏ん切りをつけたことで気持ちが随分軽くなったことを覚えています。
酒を断っていたこの時期、こんなことも書き記していました。『にんげんだもの』が代表作として有名な書家で詩人の相田みつをの作品に嵌っていましたので、その影響もあったのだと思います。
悪行は他者の痛みを慮る心が無いことから始まる
豊かであることとは心のゆとり、決して経済力ではない
たまに遊びに来させていた二男に “他人の痛みの分かる人間になれ” というのが口癖でした。別居後一人になって自省し、阪神大震災の被災者の後姿を見て自分への戒めとしていました。はるか後年に、結婚披露宴の新郎挨拶で二男がこの言葉を父親からもらった戒めとすると聞いたとき、さすがに胸が熱くなりました。
“心のゆとり” については、当時は負け惜しみというのが本音だったと思います。今では、いつ・いかなる時でも “平常心を保つ” ―― 心の余裕のことと諒解しています。
***************************************************************
実は初めてアルコール依存症と診断されたのが45歳11ヵ月という早い時期だったとは全く記憶にありませんでした。自分史を書き始めて、朧げな記憶を整理しようと手帳をひっくり返し年表を作ってみて、初めてこの時期に診断されていたことに気が付きました。
診断されていた事実をここに書いてみて、最初の内は何故記憶になかったのか分かりませんでした。アルコール依存症ではないとひたすら自己暗示をかけていたのか、それとも振戦が他人にはっきりと見られた出来事がずっと後になってあったせいなのか、そのどちらかだろうと漠然と考えていました。
2週間ほど経って本当の理由にふと思い当ったのです。生活基盤の “稼ぎ” の確保、つまりは家族を守り抜くためでした。会社にアルコール依存症と知られたら、会社は絶対に黙っていることはありません。職を解かれ、入院加療を命じられることは火を見るより明らかでした。患者の命を預かる新医薬品を開発しているのですから、アルコール依存症患者を担当から外すのは当然です。その結果、ボーナスどころか昇給さえも以ての外となるのは必然となります。家族を路頭に迷わせたくなかったのです。診断された事実をひた隠しにしようと心に決めていたので、どうしても思い出せなかったわけです。
会社には脂肪肝であることを前面に出し、歓迎会や、仕事帰りに飲み仲間との一杯引っ掛けも脂肪肝を理由に控えることにしました。それでも、新Ca拮抗薬Pのチーム・スタッフだった課長補佐のA君の送別会に出ないわけにはいかず、ウーロン茶で必死に堪えたことを覚えています。
アルコール依存症とバレる恐れのある肝腎の振戦の方は、署名が必要なときには書類の紙を預かり、他人が見ていないところで署名するなど細心の注意を払いました。
他人に指摘された場合に備え、弁明のためにアルコール性離脱症状以外の振戦として原因不明な本態性振戦というものがあることさえ調べ上げていました。そんなことはすぐ嘘とバレるのが見え見えなのですが至って真剣でした。
アルコール依存症へ辿った道筋(その24)につづく
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アルコール依存症と診断が下されたのは46歳の誕生日を間近に控えた正月でした。その日から夕食時には必ず付物だったビールも焼酎のソーダ割りも我慢することにしました。
口寂しさは中国茶で紛らわせました。会社の近所の食堂で夕食をとることが日課になっていて、そこでアルバイトをしていた中国人の女医が内臓脂肪を洗い流すのに中国茶がよく、脂肪肝にはよく効くと勧めてくれたのです。何にでも油を使う中華料理の本場の医者が勧めるのですから素直に信用することにしました。専門は循環器だと言っていましたが・・・
中国茶というと半発酵のウーロン茶を連想しますが、彼女が勧めたのは龍井(ロンジン)茶という日本茶と同じ不発酵の緑茶で、中華食材専門店でしか扱っていません。彼女に店を教えてもらい買い求めました。緑茶といっても日本茶の黄緑色とは違い番茶のような褐色がかった色をしたお茶で、中華レストランのサービスで出て来るお茶です。中華風急須も買い求め、ビール代わりに始終飲みました。
禁酒して1~2週間はなかなか寝付かれず、眠りの浅い(不眠)日々が続いたことは覚えています。中途覚醒があったのかは覚えていません。多分あったと思います。寝汗もあったでしょうが不快で目覚めた覚えがありません。痺れた頭で寝不足の朝を迎えたのでしょうが、よくあることで記憶に残っていません。国道43号線の騒音で毎晩鍛えられていたこともあって、多分そ の内に馴れたのでしょう。変な夢も見たのでしょうが、悪夢に悩まされたなど特別嫌な記憶は全くありません。
のど飴が無性に欲しくなって始終口にしていた時期がありました。断酒後に特有の病的甘味欲求に当る症状なので、この時期のことかもしれません。とにかく断酒後に特有の症状については全般的にあまり記憶に残っていないのです。
表装の講習がない休日には散歩する距離と時間を長くするようにしました。
春になって陽気がよくなってからは、奈良の桜井~天理間16km余の “山の辺の道” を4~5回歩いたと思います。『日本書紀』にその名が残る古道で、由緒ある神社あり・万葉集歌碑あり・古墳あり・天理教本部ありの変化に富むハイキングコースとして人気です。程よい起伏のある長い距離を歩くと、途中から頭の中が真っ白になってゴールまでの残りの距離がどれだけかの問いしか浮かばなくなり、雑念が全く消えてしまうのが爽快でした。その内の1回は二男と一緒に歩きました。二男は中学3年になっており、会話が難しい年頃でしたが、ゴールに到着したときは二人とも達成感で一杯でした。
長男は一浪してやっと私立大学に入学できた年でもありました。仲が良く見えた両親が、いつの間にか険悪な間柄となって離婚騒動が勃発。母親に騙されて父親を別居に追い込む片棒担ぎもさせられ、挙句の果てに見知らぬ男と母親の見え透いた海外旅行にも付き合わされた。これで人間不信となったのでしょう。愚連(グレ)て落ちこぼれの高校生活を送り、案の定現役では大学入試に失敗していました。
別居してからこの間、私がきちんと説明せずに渡していた本宅用の生活費も自分一人で勝手気儘に使っていたようです。これが “お金は天から降ってくるもの” という誤った金銭感覚を身に着けさせてしまった元凶です。ずっと後になって、大学にはほとんど行くことなく中退していたことも知りました。3年間の授業料は全て無駄だったのです。
金遣いの荒さや頻繁なお金の無心に気付いたときは全てが後の祭りでした。別居工作のカラクリとその不始末を知らなかったとはいえ、一言いうべきことを言わなかったことは、悔やみきれない私の一生の不覚です。普段、諄(くど)いぐらいしつこく念を押す性格なのに、肝腎のときにその一言を忘れるのが私です。何事も詰めが甘いのです。何時もこの調子で後になって悔やんでばかりです。長男の金銭感覚は学生時代の私自身を彷彿させ、間違いなく私の血を継いでいると確信させられました。
手帳のメモによると、禁酒3ヵ月目の休日に長男が通う大学キャンパスを見学に行っています。その帰りにホッとした所為か思わず一度飲んでしまい、その1ヵ月足らず後に本格的な再飲酒・泥酔となっています。追加の治験実施を指示する調査会指示事項が出たことに大変なショックを受けた当日夜のことです。もう一息でいよいよ承認取得だと期待が大きかった分、その反動 ―― 心に空いた空洞も大きかったのです。なんともアッケナイ、無残な腰砕け状態でした。
結局、懸命に取り組んだつもりだったにもかかわらず、禁酒は4ヵ月足らずしか続けることができませんでした。それでも休日には一日中酒浸りになるのだけは避けようとしていました。再び飲酒する日々になっても “山の辺の道” ハイキングの快感が忘れられず、暑い日を避けて奈良詣でを続けていたと思います。月一回の通院は再飲酒を期に止めてしまいました。
妻との離婚届の件は、酒を断って素面になったこの時期に、会社の仕事仲間に立会人の署名をもらい正式に役所に提出しました。誕生日が過ぎ46歳になっていました。別居していた件は会社でも半ば公然の秘密で、こそこそ隠し立てせず生きる方がよいと考えたのです。人事部に離婚した旨を届けたとき、これで社内全部に知れ渡るのだと覚悟を決めました。踏ん切りをつけたことで気持ちが随分軽くなったことを覚えています。
酒を断っていたこの時期、こんなことも書き記していました。『にんげんだもの』が代表作として有名な書家で詩人の相田みつをの作品に嵌っていましたので、その影響もあったのだと思います。
悪行は他者の痛みを慮る心が無いことから始まる
豊かであることとは心のゆとり、決して経済力ではない
たまに遊びに来させていた二男に “他人の痛みの分かる人間になれ” というのが口癖でした。別居後一人になって自省し、阪神大震災の被災者の後姿を見て自分への戒めとしていました。はるか後年に、結婚披露宴の新郎挨拶で二男がこの言葉を父親からもらった戒めとすると聞いたとき、さすがに胸が熱くなりました。
“心のゆとり” については、当時は負け惜しみというのが本音だったと思います。今では、いつ・いかなる時でも “平常心を保つ” ―― 心の余裕のことと諒解しています。
***************************************************************
実は初めてアルコール依存症と診断されたのが45歳11ヵ月という早い時期だったとは全く記憶にありませんでした。自分史を書き始めて、朧げな記憶を整理しようと手帳をひっくり返し年表を作ってみて、初めてこの時期に診断されていたことに気が付きました。
診断されていた事実をここに書いてみて、最初の内は何故記憶になかったのか分かりませんでした。アルコール依存症ではないとひたすら自己暗示をかけていたのか、それとも振戦が他人にはっきりと見られた出来事がずっと後になってあったせいなのか、そのどちらかだろうと漠然と考えていました。
2週間ほど経って本当の理由にふと思い当ったのです。生活基盤の “稼ぎ” の確保、つまりは家族を守り抜くためでした。会社にアルコール依存症と知られたら、会社は絶対に黙っていることはありません。職を解かれ、入院加療を命じられることは火を見るより明らかでした。患者の命を預かる新医薬品を開発しているのですから、アルコール依存症患者を担当から外すのは当然です。その結果、ボーナスどころか昇給さえも以ての外となるのは必然となります。家族を路頭に迷わせたくなかったのです。診断された事実をひた隠しにしようと心に決めていたので、どうしても思い出せなかったわけです。
会社には脂肪肝であることを前面に出し、歓迎会や、仕事帰りに飲み仲間との一杯引っ掛けも脂肪肝を理由に控えることにしました。それでも、新Ca拮抗薬Pのチーム・スタッフだった課長補佐のA君の送別会に出ないわけにはいかず、ウーロン茶で必死に堪えたことを覚えています。
アルコール依存症とバレる恐れのある肝腎の振戦の方は、署名が必要なときには書類の紙を預かり、他人が見ていないところで署名するなど細心の注意を払いました。
他人に指摘された場合に備え、弁明のためにアルコール性離脱症状以外の振戦として原因不明な本態性振戦というものがあることさえ調べ上げていました。そんなことはすぐ嘘とバレるのが見え見えなのですが至って真剣でした。
アルコール依存症へ辿った道筋(その24)につづく
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今頃になって禁酒と断酒の違いに気付くことができました。
・禁酒:他人(医者)に命じられて飲酒できないこと
・断酒:自分の意志で酒を断つこと
断酒の強い響きには確固たる自分の意志が込められているのだと悟りました。
ありがとうございました。
この投稿の後になって思い当りました。会社に知られることを極度に恐れ、隠し通すことを固く心に決めていたのです。職を解かれ、入院加療を命じられることを避けるためでした。
アルコール依存症の恐ろしさがよく分かっていなかったのですね。それでも当時の判断が間違っているとは思っていません。