「死の四重奏」を実感するのにさほど時間はかかりませんでした。
53歳の夏、何の前触れもなく突然不安定狭心症に見舞われました。朝の出勤時、歩き始めて2~3分もすると、胸焼けのようなジワーッとした灼熱感を胸から左肩にかけて連日感じたのです。左鎖骨の少し下、胸の奥から湧き出るような感覚でした。もしかしてと思って主治医に相談したところ、すぐに運動負荷心電図検査を受けることになりました。負荷半ばの運動量でしかないのに、心電図上に明らかな虚血性ST偏位が見られました。
豊富な治療実績を誇る循環器科ということで尼崎の県立病院を紹介され、初診のその日に急遽入院となりました。心臓カテーテルによる造影検査の結果、右冠動脈狭窄による不安定狭心症の診断が下されました。その後は一本道で、2日置いて心臓カテーテルによるPCI施術を受け、右冠動脈にステントを留置してもらいました。左冠動脈にも狭窄があったそうですが、75%未満の狭窄でしかないので治療(保険?)の適応外で経過観察となったのでした。
製薬業界ではあるジンクスが真しやかに語られています。臨床開発の担当責任者は決まって担当化合物の適応症の病気に罹るというものです。Ca拮抗薬Pは高血圧と狭心症を適応症としていましたから、まさにドンピシャリでした。執行猶予付き死刑宣告が現実味を帯び、いよいよ生きているのはただ余生を送っているのに過ぎないという心境になりました。
会社は残業など全くなしで定時に帰宅でき、週日には毎日立飲み屋に寄るのが唯一の楽しみとなりました。
糖尿病のため少しでもカロリーを消費しようと、会社から梅田まで片道30分の道程を歩いて往復していたのですが、帰り道の途中、梅田寄りの西天満で絶好の立飲み屋 “大安” を見つけたのです。マグロの赤身の刺身が値頃で、他にも肴を豊富に揃えていました。
以前通っていた居酒屋 “旬香” が潰れてしまい、居場所を失っていた私にとって恰好の居場所となりました。立ち寄る時刻も午後5時45分~6時と毎日一定で、店内での立ち位置も毎日同じ場所でした。アルコール依存症に特有の習慣的行動そのものです。
狭心症は、心臓に何時爆発してもおかしくない爆弾を抱えているようなものです。山道を登るのは自殺行為そのものです。山登りの多い西国三十三ヵ所観音巡礼は4巡目に入っていました。4番札所の槙尾寺から20番札所の善峰寺までは順番に寺から寺へ徒歩行で繋いでいましたが、狭心症の発症で巡礼を続けるのは無理と断念しました。休日にすることがなくなり、近くにある公園の東屋で一人朝からビールが始まりました。
立飲み屋通いと朝から飲酒。アルコール依存症の典型的な行動パターンの完成です。
50歳以降、私に起こった主な出来事を下表にお示ししました。まだまだ死んではダメと戒めてくれていた “つっかえ棒” が、一本また一本と外される心地でした。その都度、心に空洞の広がりを感じていました。次第に “生きていることが、もうどうでもよいこと” と思えるようにもなりました。そして完全退職した後は、もはや役目を終えて務めを果たした気分になりました。実のところ、半分以上人生を投げ出した気分だったのです。
それでも今もちゃんと生きています。よくぞ生き残らせてもらえたものだと我ながら不思議に思えて仕方ありません。
***********************************************************************************
50歳 ○ Ca拮抗薬Pの指示事項回答提出
家庭血圧による評価結果です。
52歳 ○ Ca拮抗薬Pの承認申請取下げ
かつて臨床開発責任者として心血を注いだ分、子供を亡くした気分。
○ 次長を任命される。
昇進の望みが絶えました。制度変更で52歳から昇給額半額と決定。
○ Ca拮抗薬Pの特許期間満了
商品化の可能性が完全に断たれました。
53歳 ○ 不安定狭心症発症
病変は左右冠動脈にあり。右冠動脈にはPCIでステント留置し、左冠動脈に
ついては病変残るも治療の適応外のため経過観察となりました。
同意書に署名時、振戦。
54歳 ○ 臨床開発部門の教育担当へ異動
体のよい窓際族で、完全に臨床開発の戦力外となりました。
55歳 ○ 制度変更で55歳が昇給停止年齢と決定
58歳 ○ 役職退任
この頃から早寝・早起きが習慣化し、歩行速度が極端に低下。読書が苦痛で
拷問と思うようになりました。
○ 住宅ローン完済
48歳時から低金利ローンへ組み替えて繰上げ返済を実行した結果です。
○ 二男結婚
59歳 ○ 墓地取得
60歳 ○ 定年退職
エルダー社員と称する日給月給の契約社員として会社に残留。
61歳 ○ 不安定狭心症再発
左冠動脈にPCIでステント留置、同意書に署名時に振戦。
○ 完全退職
朝から連続飲酒始まる。
***********************************************************************************
私の半生を語るキー・ワードは上昇志向と依存性向だと思っています。これらは共に御しがたい動力エンジンで、片(かた)や空回り、此方(こなた)暴走をしばしば引き起こしたものでした。上昇志向が空回りして、嫉妬先をお門違いの先輩社員へ向けたこともありました。
さらに追加すると、慢心と “おもしろくない” という気持ちでしょうか。普段、慢心は隠れているのですが、順風漫歩のときに限って顔を出し足を引っ張るのが常でした。“おもしろくない” についてはお察しいただけると思います。自分の思い通りにならなくなると、大体お酒が定番となりました。
私は元来プライドだけが高く、臆病で物臭(ものぐさ)の男です。そんな男が上昇志向に背中を押され、柄にもなく活発に動き回ったのです。その結果、様々な問題を呼び込むことになり、否応なしにそれらに向き合うハメとになりました。
自分の思い通りにならないと “おもしろくなく” なり、それを紛らわそうとした飲酒が視野を狭め、一層思い込みを強くしたのだと思います。強い依存性向が習慣的飲酒となり、それが問題の複雑化や、仕事上の重大な判断ミスといった悪循環を招いたのです。
新薬開発にとって用法設定は生命線の一つですが、思い込みからその用法設定の試験デザインを設計ミスしたことが先ず挙げられます。さらに旧GCP査察対策でもいくつかの重大ミスが重なりました。認識不足の上に集中力を欠いて時間配分を間違ったこと、それが原因で時間切れから心電図の点検ができなかったことなどです。
試験デザインの設計ミスが申請取下げに至った根本原因ですし、認識不足による時間配分ミスが審査をほぼ1年間遅らせたのです。
これらがアルコールの所為だったことは明らかです。挙句の果てに味わったのが筆舌しがたい艱難辛苦の連続で、さすがにこれで燃え尽きてしまったのだと思います。
現役当時は、思い通りにコトが進まず、ツイテナイとばかり嘆いていました。 が、素面になって振り返ってみると、決して不運のせいばかりではなかったのです。その責めの大半はアルコールに溺れた自分にあった、今ではこのように考えられるようになりました。
この連載シリーズ『アルコール依存症へ辿った道筋』は “なぜ?” を介した当時の私自身との対話です。第二の人生を送るためには、“酒が一番” のそれまでの生き方を一旦断ち切ることが不可欠で、そのためには “底着き” と断酒を経ることが避けられなかったのだと思います。この過程を経て初めて再生(reset)に踏み出すことができ、再び生きる意欲を取り戻すことができたのです。これが過去との対話によって得られた実に大きな大きな収穫でした。
数少ないささやかな成功体験と、その何十倍もの艱難辛苦。成功体験は物質的財産となって私の第二の人生を支えてくれ、艱難辛苦は精神的な知恵となって現在の私を支えてくれています。これが今の私の実感です。
振り返ってみると、この連載シリーズで綴った事柄は私の記憶に鮮明に残っているものばかりです。私の半生に起こった重大事件ばかりと言い換えてもよさそうです。一般的には、青春時代が人生で最も劇的で変化に富んだ時代とするようです。私にとって「波瀾万丈」という言葉がピッタリの時代は、大学受験前後の一時期と、30歳代半ばから50歳代初めまでの時期だったと思えてなりません。まさしく生き残りを賭けた真剣勝負の時代でした。それだけに私の最も輝いていた時代だったのです。
「アルコール依存症へ辿った道筋」シリーズはこれでお終いです。長い間連載にお付き合いくださいまして、ありがとうございました。今後は思いつくままに、随筆を続けます。引き続きお付き合いください。
ランキングに参加中。クリックして順位アップに応援お願いします!
にほんブログ村 アルコール依存症
↓ ↓
53歳の夏、何の前触れもなく突然不安定狭心症に見舞われました。朝の出勤時、歩き始めて2~3分もすると、胸焼けのようなジワーッとした灼熱感を胸から左肩にかけて連日感じたのです。左鎖骨の少し下、胸の奥から湧き出るような感覚でした。もしかしてと思って主治医に相談したところ、すぐに運動負荷心電図検査を受けることになりました。負荷半ばの運動量でしかないのに、心電図上に明らかな虚血性ST偏位が見られました。
豊富な治療実績を誇る循環器科ということで尼崎の県立病院を紹介され、初診のその日に急遽入院となりました。心臓カテーテルによる造影検査の結果、右冠動脈狭窄による不安定狭心症の診断が下されました。その後は一本道で、2日置いて心臓カテーテルによるPCI施術を受け、右冠動脈にステントを留置してもらいました。左冠動脈にも狭窄があったそうですが、75%未満の狭窄でしかないので治療(保険?)の適応外で経過観察となったのでした。
製薬業界ではあるジンクスが真しやかに語られています。臨床開発の担当責任者は決まって担当化合物の適応症の病気に罹るというものです。Ca拮抗薬Pは高血圧と狭心症を適応症としていましたから、まさにドンピシャリでした。執行猶予付き死刑宣告が現実味を帯び、いよいよ生きているのはただ余生を送っているのに過ぎないという心境になりました。
会社は残業など全くなしで定時に帰宅でき、週日には毎日立飲み屋に寄るのが唯一の楽しみとなりました。
糖尿病のため少しでもカロリーを消費しようと、会社から梅田まで片道30分の道程を歩いて往復していたのですが、帰り道の途中、梅田寄りの西天満で絶好の立飲み屋 “大安” を見つけたのです。マグロの赤身の刺身が値頃で、他にも肴を豊富に揃えていました。
以前通っていた居酒屋 “旬香” が潰れてしまい、居場所を失っていた私にとって恰好の居場所となりました。立ち寄る時刻も午後5時45分~6時と毎日一定で、店内での立ち位置も毎日同じ場所でした。アルコール依存症に特有の習慣的行動そのものです。
狭心症は、心臓に何時爆発してもおかしくない爆弾を抱えているようなものです。山道を登るのは自殺行為そのものです。山登りの多い西国三十三ヵ所観音巡礼は4巡目に入っていました。4番札所の槙尾寺から20番札所の善峰寺までは順番に寺から寺へ徒歩行で繋いでいましたが、狭心症の発症で巡礼を続けるのは無理と断念しました。休日にすることがなくなり、近くにある公園の東屋で一人朝からビールが始まりました。
立飲み屋通いと朝から飲酒。アルコール依存症の典型的な行動パターンの完成です。
50歳以降、私に起こった主な出来事を下表にお示ししました。まだまだ死んではダメと戒めてくれていた “つっかえ棒” が、一本また一本と外される心地でした。その都度、心に空洞の広がりを感じていました。次第に “生きていることが、もうどうでもよいこと” と思えるようにもなりました。そして完全退職した後は、もはや役目を終えて務めを果たした気分になりました。実のところ、半分以上人生を投げ出した気分だったのです。
それでも今もちゃんと生きています。よくぞ生き残らせてもらえたものだと我ながら不思議に思えて仕方ありません。
***********************************************************************************
50歳 ○ Ca拮抗薬Pの指示事項回答提出
家庭血圧による評価結果です。
52歳 ○ Ca拮抗薬Pの承認申請取下げ
かつて臨床開発責任者として心血を注いだ分、子供を亡くした気分。
○ 次長を任命される。
昇進の望みが絶えました。制度変更で52歳から昇給額半額と決定。
○ Ca拮抗薬Pの特許期間満了
商品化の可能性が完全に断たれました。
53歳 ○ 不安定狭心症発症
病変は左右冠動脈にあり。右冠動脈にはPCIでステント留置し、左冠動脈に
ついては病変残るも治療の適応外のため経過観察となりました。
同意書に署名時、振戦。
54歳 ○ 臨床開発部門の教育担当へ異動
体のよい窓際族で、完全に臨床開発の戦力外となりました。
55歳 ○ 制度変更で55歳が昇給停止年齢と決定
58歳 ○ 役職退任
この頃から早寝・早起きが習慣化し、歩行速度が極端に低下。読書が苦痛で
拷問と思うようになりました。
○ 住宅ローン完済
48歳時から低金利ローンへ組み替えて繰上げ返済を実行した結果です。
○ 二男結婚
59歳 ○ 墓地取得
60歳 ○ 定年退職
エルダー社員と称する日給月給の契約社員として会社に残留。
61歳 ○ 不安定狭心症再発
左冠動脈にPCIでステント留置、同意書に署名時に振戦。
○ 完全退職
朝から連続飲酒始まる。
***********************************************************************************
私の半生を語るキー・ワードは上昇志向と依存性向だと思っています。これらは共に御しがたい動力エンジンで、片(かた)や空回り、此方(こなた)暴走をしばしば引き起こしたものでした。上昇志向が空回りして、嫉妬先をお門違いの先輩社員へ向けたこともありました。
さらに追加すると、慢心と “おもしろくない” という気持ちでしょうか。普段、慢心は隠れているのですが、順風漫歩のときに限って顔を出し足を引っ張るのが常でした。“おもしろくない” についてはお察しいただけると思います。自分の思い通りにならなくなると、大体お酒が定番となりました。
私は元来プライドだけが高く、臆病で物臭(ものぐさ)の男です。そんな男が上昇志向に背中を押され、柄にもなく活発に動き回ったのです。その結果、様々な問題を呼び込むことになり、否応なしにそれらに向き合うハメとになりました。
自分の思い通りにならないと “おもしろくなく” なり、それを紛らわそうとした飲酒が視野を狭め、一層思い込みを強くしたのだと思います。強い依存性向が習慣的飲酒となり、それが問題の複雑化や、仕事上の重大な判断ミスといった悪循環を招いたのです。
新薬開発にとって用法設定は生命線の一つですが、思い込みからその用法設定の試験デザインを設計ミスしたことが先ず挙げられます。さらに旧GCP査察対策でもいくつかの重大ミスが重なりました。認識不足の上に集中力を欠いて時間配分を間違ったこと、それが原因で時間切れから心電図の点検ができなかったことなどです。
試験デザインの設計ミスが申請取下げに至った根本原因ですし、認識不足による時間配分ミスが審査をほぼ1年間遅らせたのです。
これらがアルコールの所為だったことは明らかです。挙句の果てに味わったのが筆舌しがたい艱難辛苦の連続で、さすがにこれで燃え尽きてしまったのだと思います。
現役当時は、思い通りにコトが進まず、ツイテナイとばかり嘆いていました。 が、素面になって振り返ってみると、決して不運のせいばかりではなかったのです。その責めの大半はアルコールに溺れた自分にあった、今ではこのように考えられるようになりました。
この連載シリーズ『アルコール依存症へ辿った道筋』は “なぜ?” を介した当時の私自身との対話です。第二の人生を送るためには、“酒が一番” のそれまでの生き方を一旦断ち切ることが不可欠で、そのためには “底着き” と断酒を経ることが避けられなかったのだと思います。この過程を経て初めて再生(reset)に踏み出すことができ、再び生きる意欲を取り戻すことができたのです。これが過去との対話によって得られた実に大きな大きな収穫でした。
数少ないささやかな成功体験と、その何十倍もの艱難辛苦。成功体験は物質的財産となって私の第二の人生を支えてくれ、艱難辛苦は精神的な知恵となって現在の私を支えてくれています。これが今の私の実感です。
振り返ってみると、この連載シリーズで綴った事柄は私の記憶に鮮明に残っているものばかりです。私の半生に起こった重大事件ばかりと言い換えてもよさそうです。一般的には、青春時代が人生で最も劇的で変化に富んだ時代とするようです。私にとって「波瀾万丈」という言葉がピッタリの時代は、大学受験前後の一時期と、30歳代半ばから50歳代初めまでの時期だったと思えてなりません。まさしく生き残りを賭けた真剣勝負の時代でした。それだけに私の最も輝いていた時代だったのです。
「アルコール依存症へ辿った道筋」シリーズはこれでお終いです。長い間連載にお付き合いくださいまして、ありがとうございました。今後は思いつくままに、随筆を続けます。引き続きお付き合いください。
ランキングに参加中。クリックして順位アップに応援お願いします!
にほんブログ村 アルコール依存症
↓ ↓
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます