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●沖縄と報道カメラマン・石川文洋さん

2013年01月26日 00時00分05秒 | Weblog


魚住昭さんの『魚の目』(http://uonome.jp/)に出ていた記事(http://uonome.jp/article/uozumi-wakimichi/2630)。

 沖縄出身の「伝説の」報道カメラマン・石川文洋さんについての、魚住昭さんによる記事。衆院選でもほとんど話題にならず、争点にならない沖縄。米国侵略によるベトナム戦争取材で著名な石川さん、今も続く米軍基地問題、どう感じておられるのだろう? いまに始まったことではないが、米兵の犯罪やオスプレイヘリパッド問題・・・・・・。

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http://uonome.jp/article/uozumi-wakimichi/2630

わき道をゆくその7 県民大会行きのバス
2012 年 11 月 28 日 
魚住 昭

 石川文洋さん(七十四歳)は伝説の報道カメラマンである。
 1964年4月、二十六歳で世界一周無銭旅行を計画して沖縄からオランダ船にタダで乗せてもらい、香港に渡った。所持金は27ドルしかなかったが、以前、勤めた「毎日映画社」で覚えたムービーカメラの撮影技術を買われ、香港の写真スタジオに雇われた。
 その年8月、トンキン湾事件で米軍が北ベトナムを爆撃した。その反響を取材するためドイツテレビの仕事でサイゴンへ。これをきっかけにベトナムに4年も滞在することになる。彼がベトナムやカンボジアの激戦地などを駆けめぐって撮った写真の数々は、戦争の悲惨さと生命の躍動感を私たちの心に深く刻み込んだ。
 その石川さんが沖縄北部のやんばるにやってきた。 “オスプレイパッド”(着陸帯)建設阻止の座り込み現場を取材するためだ。
 小柄で銀髪。一刀彫の円空仏を思わせる、切れ長の大きな目。そして赤く日焼けした顔。首からオートフォーカスのカメラ(「キャノンの一番安いやつ」で4万円台だそうだ)をぶら下げている。
「今は長野に住んでるけど、私も沖縄出身だから」と言いながら、座り込みテントの空気に溶け込んでいく。迷惑をかけぬよう絶えず気配りしながら質問し、メモを取り、カメラのシャッターを切る。
 誰とでも親しくなって雰囲気を和ませ、取材を終えると「じゃ、これで失礼します」と言って飄々と去っていく。

 翌朝、思わぬところでまた石川さんに会った。那覇のバスターミナルだ。この日「オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会」が海浜公園(宜野湾市)で開かれる。彼は会場行きの無料乗車券を手にしていた。2日前の琉球新報や沖縄タイムスに掲載されたものだ。それを切り取って運転手に見せると、バス代がタダになる。
「無料券を持ってるんですか。いいなあ。僕は手に入らなくて」
 私が言うと、傍らの中年女性が、
「あら、その切符1枚で2人まで乗れるんですよ」
 と、親切に教えてくれた。私は石川さんの無料券のお世話になることにした。伝説のカメラマンと県民大会へ向かう、そんな機会に巡り会えたことに感謝しながら。
 車内はほぼ満席。私は最後部窓際の石川さんの隣りに 座った。
「沖縄のどちらのお生まれなんですか?」
 発車して間もなく彼に尋ねた。
「(那覇の)首里なんです。でも、五歳の時の1942年に大阪に出て、間もなく東京に移りました」
「それは、お父さんの仕事の関係か何かで?」
「父は沖縄の歴史小説や沖縄芝居の脚本を書いていましてね。それで(本土で)一旗揚げようとしたんですが、揚げられなかった」
 1942年と言えば、県民の5分の1以上にあたる12万2千人余が亡くなった沖縄戦の3年前だ。
「そうですか。でも、おかげで命拾いされましたね」
 私は当然「はい」という返事を予想していた。だが、彼は一瞬間を置いてぽつりと言った。 
「沖縄戦のときに(沖縄に)いなかったという引け目をずっと、今も持っ てるんです」
 ドキッとした。不用意に彼の心の深い襞に触れてしまったと思ったからだ。そこでごめんなさいと謝ればいいのに、私はまた軽はずみな言葉を口にした。
「ああ!その引け目が石川さんを戦場取材に駆り立てたんですか」
 彼はその問いにはたしかイエスともノーとも答えなかったと思う。私の記憶に残っているのは次のような彼の言葉である。
「沖縄から遠く離れれば離れるほど、沖縄を思う気持ちが強くなるんです。だから沖縄に帰ってきたら、こうやってバスに乗るのが好き。だって乗客はみんなウチナーンチュでしょう。そのなかにいると、何だかホッとするんです」
 石川さんは私の軽薄な言動を責めるでもなく、無視するでもなく、穏やかな言い方で大事なことを教えてく れた。それは、人の痛みをわがことのように感じる「肝苦(ちむぐり)さ」の感情と、それによって作られる沖縄の人々の強烈な一体感である。
 この一体感は琉球王朝の昔から培われてきたものだ。薩摩藩による琉球侵攻、明治12年の琉球処分、沖縄戦後の米軍占領支配を経ても、それは変わらなかった。
「祖国復帰」から40年たった今も、沖縄は在日米軍基地の74%を押しつけられたまま空飛ぶ恥オスプレイを強行配備されようとしている。そんな不平等で危うい状況が沖縄の「肝苦さ」を極限に追いつめ、日米両国への不信感となって噴出しつつある。

 バスは約30分で会場に着いた。運転手は無料券をろくに確認しようとせず、ゾロゾロと降りていく客たちにニコニコ顔で「いってらっ しゃい」と声をかける。その光景がいかにも沖縄らしい。
 石川さんは「聞きました?運転手さんが『いってらっしゃい』だって。ふふ」と仄かに笑う。
 広大な海浜公園は、炎天下にかかわらず10万1千人(主催者発表)の人波で埋め尽くされた。
 石川さんと別れてあちこち歩いていたら、東京新聞の半田滋記者(五十七歳)に出くわした。防衛省詰め二十年、おそらく日本で一番軍事に詳しい記者だろう。
「これだけ多くの人が反対しても欠陥機を配備するのか」
 と、聞いたら、彼が言った。
「ウン。岩国の試験飛行で安全性を見せつけてから普天間に飛んでくる。それは(米海兵隊の存亡がかかった)賭けだよね。でもサイコロ賭博で絶対に出ない目なんてないじゃない。必ずいつかオスプレイは事故を起こす
 海浜公園に近い普天間周辺の住宅地にオスプレイが墜ちる不吉な映像が頭をよぎる。2日前に会った琉球新報の若い記者は「僕らはオスプレイで死の危険に曝される。だから毎日必死で(反対の)記事を書いている」と言っていた。
 編集局幹部は「このままだと米軍基地全体が敵意に囲まれ不安定化する。基地への電気・水道の供給を止めようという話も聞くが、敵意がどんな形で噴き出すか予測できない」と真顔で憂いていた。
 沖縄はこれからどこへ向かうのだろうか。会場から見上げる青い空には、人々の肝苦さが満ちているような気がした。(了)

(編集者注・これは週刊現代連載「わき道をゆく」の再録です)
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