細田暁の日々の思い

土木工学の研究者・大学教員のブログです。

高信頼

2013-03-01 07:26:01 | 人生論

以下の議論,詳しくは社会心理学の山岸俊夫先生の著書をご参照ください。ですが,山岸先生の本に書いてある内容よりも深いと思います。自分の経験に基づいた内容ですので。

私はいわゆる「高信頼」の人間です。私と同じような考え方を持っている人にとっては,私ほど信頼できる人はいないであろうし,逆に私も相手を本当に信頼できることを私自身が心から納得すれば,最大級の信頼を注ぎます。その信頼関係から生み出せる結果は,想像を絶するほどクリエイティブなことになります。

私が信頼されていることは,独りよがりのたわ言ではなく、学生たちが私に対して全幅の信頼を置くことからも明らかです。学生たちの論文での謝辞に書いてあります。

では,最初からそのように信頼しているのでしょうか。 違います。

高信頼の人間は,非常に感性鋭く,人のことを見ています。それこそ一挙手一投足,すべての発言に感性を澄ませて感じています。そして,最初は相手に違和感を覚えても,自らの発言や問答、共同の作業などを通して信頼関係を構築していきます。少しずつ違和感をほぐしていって,最終的にはこれ以上ない信頼関係を構築します。それが高信頼,ということです。

日常も大切だし,一緒にお酒を飲むことも大事だし,だから私は日々の生活のすべてが大切だ,と常に言っているのであり,ブログにも書いています。私の教育とはそういうものです。

例えば,山口県の二宮さんとの関係はたった4年弱(実質はもっと短い,3年半ほど)ですが,今やお互いの信頼のレベルは信じられないほどです。その信頼関係を築く過程を私はすべて覚えているし,例えていうなれば将棋の棋譜のようなものです。

だから,二宮さんは私にすべての情報を提供してくれるし,「こいつに託しておけば大丈夫」という感覚をお持ちなのだと思います。私が,自分のためだけに行動する人間でないことを,心の底から思っておられるからでしょう。私も二宮さんのことは100%信頼しています。

ですが,その二宮さんとの間にも,当初は私は違和感は感じていました。その違和感を何となく説明はできますが,今はすでに解消しているので,言う必要がありません。

そのようにして高信頼の人間同士が依存し合って,連携し,協働で仕事をしていくことで,今後の世の中は変わっていきます。山岸先生もそのように言われています。私もそう思います。

さて,昨夜の「事件」は,高信頼を築く過程で,信頼が崩壊する,というものでした。

その関係においては、私はまだほんの少し違和感を感じている状況で(つまり信頼ゲームの手探り状態であり),「どうして,こういう技術的判断をするんだろう?」とか,「どうして,こういう発言になるんだろう?」という,数え上げればほんの数例ではあるのですが,私の中でわずかな違和感はありました。もちろん、信頼ゲームはすでにかなり進行しており、かなり高い信頼レベルにまで来ていました。上記のような違和感は決して悪いことでなく,それを本音で語り合いながら,またはお互いの行動で見せ合い,教え合いながら,解消していけばよいのです。これまでもそうしてきました。

ですが,その過程で壊れた。

高信頼の人間は,あまりにも感性が鋭いので,他の人では感じないことを感じてしまいます。

私が「大ざっぱで,いいかげんで,ずけずけものを言って,自分勝手で,人の気持ちを踏みにじる」ような人間だと思いますか?そんな私が,羽田冨美江さんの看取りの話に号泣すると思いますか?23日のあの空間で,涙をこぼしているのは,見渡す限り,私一人でした。私はあの空間のすべての空気を感じ取り,観察し,一人ひとりとの関係を深める努力を,本能的に行っていたのです。だから,あの空間の後の,私の話や行動があり,23日の鞆の浦で皆がつながったのです。長岡高専の井林先生が感激されて、戻られてから私に二つの素晴らしいメールを送っていただいたことも、そういうことです。山口の話と、鞆の浦の話が、二つ別々で進んでいるようで、最後に見事に一つになった。以下、井林先生からの二通目のメールの一部を引用いたします。(しかも、井林先生は、ドラマチックな映画の本当に最後まで見ておらず、途中で帰られたにもかかわらず、真の結末まで見えておられました。)

「細田「先生」が,2日間の合宿授業で「生徒たち」に意図してわからせようとしたのであればすごい意図ですし,もし意図していないとしても,知らないうちに伏線が張られていて,到達点が決まっていたのではないか?と思うほどでした.(全く別に進んでいる2つのストーリーが,最後の最後で結びつく,ドラマチックな 映画を見ている感覚でした)」

だそうです。半分意図的であるし、本能的とも言えます。そのようになると薄々は分かっていましたが、私も映画の主人公の一人なので、その現場で感覚的に方向性を察知し、「監督」しました。

みんなが高信頼である必要はありません。

私のことを嫌いな人はたくさんいるだろうし,近寄ってこないでしょう。

また,信頼のレベルが私より少し低くて,私に近寄りがたいけど,何となく近くにいたい,という人もいるでしょう。そういう方々とは,もちろん一緒にやっていきたいし,そのようにいつも行動しています。

一方で,私は100%信頼できる相手かどうか,常に値踏みしているし,発言や行動でdealしています。そして,100%でない,と分かったら,「見切り」ます。

一度見切った相手でも,その後,その方が変化すれば(人間は日々成長,変化するので),また信頼ゲームを始め,信頼レベルを上げていきます。

もちろん,見切った相手でも,表面上は普通に接するし,連携するし,一緒に仕事します。

以上,かなり踏み込んだ内容ですが,私の頭の中を公開しました。

そのように生きたいので,なるべく多くの方々と信頼を築けるよう,死ぬまで必死で勉強します。 

山岸先生の本は何冊も読んだことがあり、それなりには理解していましたが、昨夜の「事件」を通して、私の中のすべてがつながりました。つながったので、まとめておきました。 また、「書く」ということは戦いであり、池田尚治先生もケインズの「雇用、利子および貨幣の一般理論」は戦いである、と言われていました。私も海外出張中に読もうと思いますが、一番最後の単語が「devil」だそうです。まさに戦いですね。そして、藤井聡先生もまさに世の中の何かと戦うために書かれているとしか思いません。一番大切なものを守るために、書くわけです。

この一週間の私のメールや、ブログ、facebookは戦う次元に完全に突入したことを感覚的に感じますので、今朝、感じたことをしっかりと記録しておきました。これが世の中のためになると思うからだし,壊れた信頼の修復にも役立つと考えるからです。