27.12.21 疎 開 NO.1014
先の戦時中、学童や女子(主婦など)の身の安全を図るために、戦禍の及ばない地方都市に学童
等を避難させる「疎開」というものがありました。 田舎に親戚や縁故があれば、それを頼って行くの
が「縁故疎開」で、そういうツテがない学童(だけ)を集団で非難させたのが「集団疎開」でした。
私たちは母の郷里の滋賀県に縁故疎開をしましたが、母の郷里と言ってもその親の代に米相場で
失敗して食いはぐれて大阪に流れてきた、親族の末裔の私たちに良い待遇をしてくれるワケがあり
ません。
隣の御膳で銀シャリ(白米飯)を食べていても、こちらは顔が映るほどに薄いしゃぶしゃぶの芋粥が当
たり前で、生きて来れただけでも感謝しなければならない境遇でした。
弟が体が弱くてよく熱をだしたので、母はリヤカーを借りてきてそれに乗せて診療所までの長い距離
を引っ張って行ったものでした。 女は弱し・されど母は強しを実感しました。
それでも集団疎開の児童と比べれば余程マシだったようで、集団の児童たちは半切れのサツマイモ
のために血を見る戦闘をやったと言います。
でも、彼らは間違いなくたくましい生活力というか、生命力をつけて帰って来たことは間違いありません。
ニートとか引きこもりなんって言っていられませんでした。
人生にとって何が幸いするかどうかは死ぬまでわかりません。