銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

私は大連で生まれた。が・・・『鬼が来た』解析―1

2009-02-01 12:48:54 | Weblog
 映画『鬼が来た』は、非常に複雑な筋の映画です。単なる反戦映画でもないし、プロパガンダ映画でもありません。のちほど、この映画の中国側スタッフについて、詳しく述べるはずですが、中国で、上映禁止の期間があったとも聞いています。海外で評価が高くなったので、中国でも解禁をされたのでしょう。

 ところで、制作側ではなくて、鑑賞者側にも、受け入れる素地があるかどうかで、また、変ってくると思うのです。私は、この映画を渋谷のユーロスペース(?)だったか、小さな映画館(インディ系文芸映画を上映する映画館)まで、わざわざ出かけていってみました。それほど、入れ込んだのには、私の方に、生涯にわたる、中国との心理的な関連があるのが原因だと思います。

 私は生涯にわたって、アメリカと、中国との連携と言うか、リンクを捨て去る事ができず、心の端にいつも、その両国が引っかかっている人間です。

 と言うのも、私は満鉄の社員の子として、往時の大連病院で生まれたのです。清岡卓之の『アカシアの大連』に描かれたように、「大変美しい街であったし、その病院の近代的なことは、ちょっと、当時の、日本では見当たらないほどの施設だったよ」と、父はいつも、大連を懐かしがっておりました。
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 しかし、私は長らく、大連生まれであることを伏せておりました。満州からの引揚者に対する、差別感情が、日本国内にあることを、微妙なまでに、察知していたからです。それは、極く、小さい頃からの自分ひとりのうちに秘めた知識でした。

 中国残留孤児の問題がテレビニュースとして大きく取り上げられました。それもこの感覚を大きく、強めました。それは、1959年に終わりを迎えたと、日本政府は決め込んだ模様です。しかし、実際には気の毒な、残留孤児が中国に残されていたのでした。
 
 それを、山本慈昭という僧侶の方が、尽力をして、救い出したのです。しかし、中国には、今でも見られる、身分差別があり、その最も低い位置を示す烙印として、かれらには『出自は日本人である』が生涯ついて回ったために、よい教育を受けたり、よい企業に就業をする事が出来ず、見かけ上も、大変にやつれた存在として・・・・・にほんの、テレビ画面に大きく写ったのです。

 一方で、日本は右肩上がりの経済成長を遂げ、お金がある事が大変高い価値を持つようになりました。ブランド品の大量消費、・・・・・私にとって、その種の傾向を表すものとして、一番印象に残っているテレビ番組は、ある奥様のジュエリーのご披露番組です。彼女は例の巨塔六本木ヒルズに、居住用の部屋を一室確保しているそうですが、それは、実際に住むためではなくて、一種の金庫として、利用をしているそうなのです。セキュリティが万全な場所として・・・・・そこにテレビ・クルーがお邪魔をして、彼女の宝石コレクションを見せてもらうという番組でした。

 ちょっと、話は飛びますが、こういう番組にでた、大金持ちを誇る女医さんのお嬢様が誘拐されるということが起こって、やっと、出演者側に、こういう番組に出ることのばからしさが認識をされてきたのか、こういう番組が減ってきました。私は対税務署の関係から考えても、普通に真面目に納税をしていたら、あれだけの、宝石をコレクションできるはずが無いので、『この奥さんは、本当の馬鹿だなあ』と、思っておりました。が、ともかく、そういう流れが、やや収まったところに、この経済ショックが訪れ、やっと、ああいう風にお金持ちであることを誇る番組が減ったようで、それは、日本人として、祝福をしたい流れです。日本人の基本的な性向として、こういう見せびらかしは、昔は無かったはずなのです。

 それから、母は中国語を習っていて、満州で中国人たちとも付き合っていて、それから、父が絵を描くのが好きだったので、北京を始め中国国内を、旅行をたくさんしていますが中国人だって、1945年以前は絶対に、自分が金持ちであることを誇示しなかったそうですよ。たとえば、お店に入ると、ほとんど、価値の無いものしかおいていない。だけど、こちらが相当な目利きであり、お金を持っていることを知ると、奥に隠してあったもっと、高級なものを持ってきて勧めるのだそうです。母は、「戦乱が長かった中国らしい発想だわね。日本にはああいう発想はないわ。いいものを店先におきます」と言っていました。

でも、元に戻れば、日本の大衆の好む、トレンド(特に精神的な流れ)が、急に『金持ち最高なのだ』、と言う方向に進めば、引揚者と言う、貧乏がついて回るイメージは、外に出したくないものでした。特に1995年にNHKで、七十周年記念番組として、『大地の子』が放映されたことも大きいのです。

そこには、映像として、満州における惨めな日本人の姿が写されておりました。ちょっと、打ちのめされる感じがありましたね。私はこういうテーマで小説を起こした山崎豊子さんは、見事な大人物だと思っております。しかし、マクロな文化とミクロな文化は時に対立します。それで、私は、自分が大連生まれであることを長らく、公にしませんでした。

そして、そこから始まって、愛憎あざなう縄のごとき、対中国感情が私に生まれるのです。では、今日はひとまず、ここで、終わりましょう。これは、延々と続くはずです。

2009年2月1日       川崎 千恵子(筆名 雨宮 舜)
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