銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

マレ地区、フランスに於けるコネの実効性  高田賢三、渡辺豊重、一ノ瀬智恵乎、小林カツ代、菅原文太

2016-12-22 16:32:44 | 政治

 この文章は、最初の総タイトルを、『続、バスティーユ駅の火事 +、マレ地区、サンポール駅・至近距離の挿話』としておりました。しかし、午前11時に、上のものと変更しました。そして、文章としては、完璧に前の文章の続きです。それは、以下

バスティーユ駅の火事   2016-12-20 22:05:29 | 政治

です。こちらで、その続きを書きます。そして、24日(土)の午前10時から文末に加筆をして行きます。

副題5、『青いハーフコートの青年の、1998年秋の三か月を、思い出すと、フランスの大富豪の、底力の深さを思う。三か月間、まったく売る予定のない、リトグラフ(石を使った版画)を、毎日二枚だけ摺っていた青年だ。同じ模様(女性の上半身の裸体を背中側から描写したもの)を、少しずつ、変化させて、毎日、午前中に一枚だけ摺る。そのあとは、私は帰るので、午後は、午前中に決定した模様と、同じものを五枚程度するのかもしれない。それにしても、三か月間、素人目には、まったく同じに見える模様の版画を、150枚程度摺ったと仮定しても、それが、売れる筈はない。だって、ピカソほどのマスコミ有名人ではないからだ。彼は、ただ、ただ、『背面トルソとしては、どういう形が最も適切なのか?』という探求心のために、昼間のもっとも、良い時間帯を、充てているのだ。一般的な言葉で言うと、遊んでいるというのには、当たらない。誰とも、おしゃべりをしないし。だけど、・・・・・非常に高等な遊びの世界に生きている・・・・・・と、言っていいだろう。そして、帰宅時には、紺色のハーフコート(ウール製)を着ている。

 翻って、日本の事だ。今は、文明や文化を育て居る力を失っているとも言えるだろう。一つには富裕層が居ないからだが、かといって、貧乏人が減ったわけでもなく、貧乏人は、増えており、なんともやせ細った国と、この日本が、なってしまっている。それは、被植民地化の悲しさでもある。私がこの2年強、外人と一緒に一幕みを見たことをきっかけにして、歌舞伎にはまっているのも郁子なるかなだ。江戸時代は、こうではなかった。

 1946年の敗戦後、農地解放と、四民平等化政策と、華族制度廃止が、行われた。それ以前には、明治維新があったとしても、そういうものが残っており、庶民は、江戸時代の残渣の中で生きており、地方都市には、それなりの、富豪が存在した。大都会にも、さらに大規模な富豪が存在していた。そして、俳句(俳諧)などの文化が、庶民レベルで、発達したのだった。歌舞伎もその一つであり、私が、この二年間、それにはまったのも、数だったのだ。遺伝子上、残っているものが、内側からそうする様に、誘いかけてきたのだと、思い当たっている。

 私は、原発と言うもが無ければ、大富豪が、この世に存在することは、可だと、思っている。しかし、現代の大富豪とは、必ず、原発とかウラニウムと関係があるので、困り切るのだった。パリの大富豪レベルの息子らしいあの版画家が、どういう名前だったか、一度も会話を交わしたことが無いので、知らないが・・・・・彼もまた、フランスの原子力発電関係の会社社長の御曹司だったりして。アレバ社とその名前を、言ったかな?』

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副題6、『私は海外にいると、テレビは見ない。それと、海外には、宅配新聞制度がないみたいに見えるので、新聞も読まない。YOMIURI新聞が、ニューヨークでは、邦字新聞を出していたみたいだし、タブロイド判の、インディーズ系の【OCN ニュース】と言う邦字新聞も、NYには、在る事には、1999年から気が付いたが、それは、二回目の海外修業で、余裕が出たから気が付いたわけで、しかも、英語が自由だから、よけい余裕があったわけで、ニューヨークにおける邦人社会にも、少しだけ観察の目が向いた。

 日本人から見ると、ニューヨークには、外人だけで、形成する社会と、日本人なのだけれど、外人とだけ付き合う人々と、日本人であり、日本人だけと、付き合う人など、数種類の社会生活がある。だが、繰り返すが、パリでは、その種の観察をする余裕は全くなくて、ただ、ただ、毎日、版画制作に没頭をしていた。最後の最後に、バスティーユ・オペラ座でオペラ【リゴレット】を見たのが、唯一の娯楽だった。

 だから隣に住む、42歳ぐらいのベージュ色の杉綾織りのウールのロングコートを着ていた男性が、パリ社会の中で、どういう位置を占めていたのかは、まったくわからない。相当な文化人だと思うが、サルトル氏や、オランド大統領などの、生活ぶりとは、はるかに違う生活を送っている男性だ』

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副題7、『たまたま、日経新聞で今連載中の、高田賢三篇を、昨日だか、本日だかの分を読んだ。すると、カール・ラガーフェルドと、イヴ・サンローランとの、交流の記述があった。

 高田賢三とその二人の有名デザイナー、そのそれぞれのマネージャーは、毎晩、パリのあるクラブと、・・・・・・いや、ここで、念のために、日経新聞を再度チェックしてみた。20回目(=すると私が間違ったところがあった。それは、業界用語でいうと、クラブではなくて、ディスコだったことだ。・・・・・こういう間違いをしてしまうのは、私がいかに水商売の世界を知らないかを語っている。別に気取っていて、言うのではない。実際に知らないのだった。あ、は、は。それについては、非常に面白いエピソードがあるが、本日余裕が有ったら、その詳細を、最後尾の蛇足と言う章で語りたいが・・・・・どうなる事か?

 元に戻る。高田賢三たちは、毎晩、パリ・オペラ座の近くにあった【セット】というディスコで遊んだと、言う。恋も仕事もそこで、得られたそうだ。ここなのだが、私も、そのパリ滞在時の、7年後の、2005年ごろには、それに気が付き始める。無論パリではなくて、日本で、それに気が付き始める。

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副題8、『芸術は文化の分野に携わる人間にとって、ただ、一生懸命仕事をするという事で、成功が、導入されるわけでもないという事に  、私は気がついて来る。

 芸術家の成功には、ただ、良い作品を作るという事の他に、どうも、何か、別の秘密がありそうだという事に気がついて来る。それは、良いコネを、プロデュースする立場の人間との間に作るということにありそうだった。1960年代までなら、【新宿で飲む】という事。それ以降は、【六本木で飲む】という事。そして、それ以降は、【表参道か、青山で飲む】という事が、大切なのだ。

 それも、18歳以降なら、可だが、ともかく、若い時にそれをやらないと、浮上できないのだった。そして店を選ぶことも大切だった。高田賢三が言う。パリ・オペラ座近くのディスコ【セット】でないとだめなのだった。
 まあ、そこはパリにおけるデザイナーのたまり場だったと仮定して、文筆家のたまり場というのは、別にあるのかもしれない。

 ところで、ニューヨークに戻ろう。私の工房があった近辺に、昼間は、大きなシャッターが下りているお店があった。だが、夜のは、そのシャッターはあけられており、黒い服の青年たち(ただし、やくざではないと、思われる。メディア関係みたいな感じである)が、集まって、ワイングラス片手に、風に当たっていた。そのビルの二階とか、地下に、秘密の娯楽施設、(パリにおけるディスコ【セット】みたいな、一見のお客を断る、お店)があるのだろうと、私はいつも感じていた。

 日本に戻ろう。山口洋子さんが、銀座で、【姫】と言うクラブを経営していて、そこに有名人が集まることが有名だった。しかし、成功をする為の、要諦は、もっと、若い人が出入りする場所で、作家も若いし、プロデューサー側も若いし、編集者側も若い、そういう人々が集う場所を、探し当て、そこに出入りすることなのだった。そして、それは、容易には入り込めない世界である。情報は新聞にもテレビにも出ていない。嗅覚を鋭くして、突き止めないと、見つからない。高田賢三だって、ディスコ【セット】とは、一見の客は入れない場所だったと、書いているではないか。ところで、私は、パリには、たった三か月いただけだったが、版画工房に所属する日本人アーチストやら、その他から、得た情報だけどパリとは、コネ社会なのであるそうだ。

 それは、1998年に聞いた話だったから、日本は、コネが無くても、学歴によって、門戸が開く感じが、まだあった。で、『パリって、ずいぶんと古い社会なのですね。階級も大きく残っているみたいだし。フランス革命が、起きた地だから、階級差なんて、無いのかと、思っていたのに』

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副題9、『ニューヨークの事だが、私の版画工房は、24stという東西に、走る、横丁に存在していた。100平米ぐらいの同じビル内の、下の方に、プロのカメラマンのスタジオがあたが、そこら辺りから、まっすぐ西へ向かうと、杉本博司氏の、広壮な(ドアが8つもある。一つのドア内が、100平米ぐらい)アトリエがある、元、印刷工場だったという、天井の高い、かつ窓が、北向きにできている大きなビルがある。

 その中間に、ホテルチェルシーという文化遺産級のホテルがある。そして、その目の前に、インディーズ系の映画を表彰するチェルシー映画祭が、催される、平屋建ての映画館がある。ただし、道路名は、23stとなり、24stとは、違って、幅の広い大通りに面するという事となる。ニューヨークでは、ここらあたりが美術系の文化人が芽を出し、人に見いだされる、コネを作りうる場所なのだろう。ただし、・・・・・ニューヨークでは、コネは、パリ程には、有効ではないだろう・・・・・と、推察している。より競争原理が生きていて、より、近代化されているだろう。パリは以外にも古いシステムで、運営をされて居た。

 53st当たりのレストランで、フロアーがひときわ高くなっている場所があり、昼間は、そこは、オープンしないという事だった。それは、夜になっても、同じことだろうと思う。
一見の客は入れない場所であり、そこで、舞台関係者と、メディア関係者が、食事をしたりする場所だろう。そのあとで、ダンス(ディスコ)へ、移動するのか、それとも、俳優たちには、次の舞台がある識者たちには、批評を書く仕事があるので、食事だけで、散会するのかもしれない。想像しているだけだが、分野が違うと、コネを作る場所も違うという事だ。それは、日本にも当てはまるだろう。

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副題10、『私自身は、平凡であるのか、非凡であるのかの、質問をここで設定をしておきたい』

 今の私の外見と、生活時価の在り方は、まったく平凡な主婦のそれです。かろうじて、ブログという形で、社会的な、存在たりえているが、母であり、妻である、人間の生活スタイル、そのものです。

 しかし、1998年から、2002年までは、自分は、世界に通用するアーチストになる筈で、かつ成れると、信じておりました。その為に大変な無理をして、海外修業を、散会も重ねたわけで、そこで、見聞した作品群を見たうえで、自分の作品は優れていると、確信をしましたし。

 しかし、2002年に、頚椎内神経損傷で、一日、24時間にわたる、信じがたい痛みに、捕らえられて、それを、主人が治してくれたのです。主人は、57歳の時に、日産自動車の、研究職を辞め、一念発起して勉強しなおし、鍼灸医に、転職をしていました。その加療で治癒したので、『うーむ。これは、天啓かもしれない』と、思って、主人の妻であり、この母親である生活に戻ったのでした。ただ、ここで、注意したいことは、東洋医学の加療とは、非常に緩やかな効果を上げるものです。私も、週に三階は、通って、三か月後に、治癒したと、言う形で、時間はかかります。

 しかし、その経験によって、ひそかに、抱いた、・・・・・世界に通用する有名アーチストになりたいし、成れるはずだ・・・・・と、言う思いはなかなか捨てきれず、従って、そのポイントからも、世の中を観察しているので、いろいろな、事が見えてくるのです。

 だから、こネによって、引き揚げられるという事が、この世の中にはあり、かつ、そのためには、若い日に遊ぶ、特に、そういう業界固有の、ポイントがあり、そこに、若いうちに出入りする必要があるのだと、判ってきたのです。

 しかし、それは、すでに、その時に、60歳に達していた私にとっては、とても、無理だった過去の話でした。そういう事をすべき20代に、私は、まず、東大に勤めていました。その後、結婚をして両立ができず、専業主婦となり、横浜市や、横須賀市内で、地域に密着して、子育てをしていたからです。

 しかし、それならね、結婚をしなければよかったではないですか? と、言われるだろうと、思います。その通りです。もし、自分の才能に、若い日から気が付いていればです。しかし、才能があるとは、気が付いていませんでしたが、自分が非凡であるという事には気が付いており、両親もどことなく気が付いており、その兼ね合いを取る形で、医者に成る様に、勧めてきました。しかし、医者が自分には向いていないことは、はっきりとわかっており、それを拒否したので、私の高校時代は、なかなか、大変でした。受験勉強は一切せず、ただ、ただ、当時の、国際基督教大学の入試が、英語を用いた、知能テストみたいなものだったのでです。引っかかっただけです。特に上位入学者として、奨学金まで出るはずの、好成績で、入学試験を突破しています。頭は悪くない方でしょう。ただし、そのテストは、当時の東大新聞が東大に、入学するよりも、ICUに入学する方が難しいと、書いたほどのレベルだったらしいのですが、私には、前夜が、寝不足でも、楽な突破で済むものでした。

 しかし、本当のことを言うと、学部を選ぶ時点で、本当は、間違っていると潜在意識の中では感じていました。私は、文学部とか、芸術学部とか、美術学部へ、進学するべき人間でした。しかし、戦争を、経験した父は、自分が石油の開発技術者として、どれほどに、優遇をされたかを、引き合いに出して、「絶対にその種の学部へ進んではだめだ」と、言ったのです。その次に、「この子は別にノーベル賞級の学者にもなれそうにもないなあ」と、思ったらしい両親は25歳までの、結婚を強く勧めました。父親の言葉ですが、「お前には、イットがない。だから、若さだけが取り柄だ」と言われて、結婚を、強く要請をされました。「おまえには、性的魅力がない。だから、処女性だけが売り物なのだ」という事を、換言して上の様に、言っているわけです。

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 ここですが、後年、日大芸術学部出身で、元、YMOのマネージャーにして、現在は、手相観として、有名人とか文化人を相手として活躍している日傘雅水さんから、「あなたには、金星帯が、くっきりと出ています。あなたは、芸術家でよかった。これが、普通の専業主婦だけやって居たら、事件を起こす主婦となって居たでしょう」と言われました。驚きました。私は、瀬戸内寂聴さん級の、・お・ん・な・だったのですよ。まったく、自分ではそれを知りませんでしたけれどね。:::::::::

 さて、挿入から元へ戻ります。不思議な事ですが、42歳ごろ、父が死に、5千万円の遺産を残してくれました。今から30年前なので、現在の貨幣価値に直すと、二億円ぐらいの、価値がある金額でした。

 ここですが、ちょっと間違えております。相続税が、1300万円だったので、実際には、3000万円強であり、現在の貨幣価値に治すと、一億円程度になるというのが正しい数字でしょう。

 遺言書分割であって、法的なパーセンテージで分配したわけではなくて、遺産の総額が、大きかったので、相続税のパーセンテージも大きかっので、その年度の、鎌倉市内の高額所得者、18位になったものの、それを、自分のために、使う事は無くて、さらに、12年間雌伏を続けたのです。

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副題11、『渡辺豊重さんと、一ノ瀬智恵乎さんは、日本に於ける、コネを利用して特典を得ている人達のうちの一人である』 

 その後、10年間は、子育てに専念をしていたので、そのお金は、家の増築に使ったぐらいで、眠っていたのです。こここそ、私が、一ノ瀬智恵子さんを、批判するポイントに当たります。『渡辺豊重さんの、援助役として、葉山まで、美術展を見に来ている場合ではないのに!?!?!』と、おもっていました。子供って、中学や高校時代が、もっとも、大変なのです。その時期こそ、親は、注意深く、待ち構えていて、観察を鋭くして、大切な方向へ進むように、援護射撃をする必要があります。衣類の世話、掃除、選択、食事の用意には、すでに、楽々となって居る時期ですが、心理的な側面で、重要な時期であり、親は、余裕たっぷりの心理状態に、自分を置いておかないといけません。無駄な事、やってもやらなくてもいいことに時間を使っていてはいけません。
 生活費を稼ぐ必要があって、母親が家にいないのは、かまわないのですが、そういう仕事ではなくて、自分を生かすための現代アートの世界の事で、特に社交的なレベルで、飛び回っていて、お嬢さんに対する観察不足であった一ノ瀬智恵乎さんは、『後で、泣くことになるだろう。そして、それが起きてから、泣いても、無駄な事だ』と、思い到ります。すでに、2003年に、そう思っておりました。

 子供が本当にかわいかったら、もっと、気付きを深くしないといけません。事件(リヴェンジポルので、一躍有名になってしまった三鷹ストーカー殺人事件)の経過を見ると、母親としての義務が、ボロボロに、抜けています。ここまで批判をするのも、事件の、10年前に、横須賀線車中で、驚くほどのいじめの現象(=渡辺豊重さんが、原初だが、それを批判をしないで、にこにこしていたのが、彼女だった。それには、『あれ、この人って、母親のくせに、こういう態度を取るのですか?』と、本当に驚いた)を彼女の顔に見たからです。『駄目だわ。この人って。将来必ず、子供のことで、苦労をする事となるでしょう(後注1)』と、2003年にすでに感じ取り、その通りに展開しました。

 ところで、その原初のいじめをやって来て、一ノ瀬智恵子さんが、それを批判しなかった渡辺豊重さんが、あのリヴェンジポルノ事件により、何故、いじめ始める様になったかが、判ったのです。渡辺豊重とは、【美術9条の会】に、25人の委員のひとりとして、所属をしていたのでした。事件が異様なものだったので、大量の情報がネットでも、開示されたからです。『なるほどねえ。渡辺豊重さんに、理不尽な形で、いじめられたことの原因がやっとわかったは。その虐める態度を含めて、無駄なことは、この世には、何もないのだなあ』と、改めて、思います。

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副題12、『美術9条の会と、小林カツ代と、マガジン9条の会と、神楽坂女声合唱団』

 ここでの、ポイントは、コネの問題です。そして、コネの場所が、居酒屋だけではないと、申しあげたいです。コネとは、ここでは、一応ですが、見かけだけは、公的な形を取ります。井上ひさしは、反戦の文化人団体として、【9条の会】を作りました。そして、それが、増殖をする様に、大きく働きかけました。それで、【マガジン9条の会】という下部組織が作られて、そのトップが、料理研究家の、小林カツ代さんです。小林カツ代さんの、子息のケンタロウは、私の息子がコマーシャルに使って、世の中に、引き揚げてあげました。その親に当たる、小林カツ代さんを、井上ひさしは、自分側に取り込んだのです。私の周辺に、私の見方をする人間をできるだけ少ない数にしようとしてです。(後注2)

 ただ、ケンタローもバイク事故で意識を失い、植物人間になったとか。ここにも井上ひさし側につくと、大変なことが起きるという証明がなされてきます。一之瀬智恵乎さんに、引き続いて、私が知った不幸の出来(しゅったい)と言う事実でした。小林カツ代さんも、見かけによらず、離婚をしていて、差したる、主婦業もやっていなかった模様ですね。かの女は、神楽坂女声合唱団と言うのを作り上げ、そこに雑多なフィールドの女性有名人を集めました。

 その中に一人、私が、是から接触をしようと思っていた、紹介を受けている女性編集者が居ました。で、紹介の方は、電話でなされているので、『なるほど、あの電話を盗聴されているので、彼女に接触しても、もうすでに、色よい返事は、もらえないでしょうね。それが、サインとして現れているのが、この、マガジン9条の会でしょう』と、私は、判断をしたものです。

 ところで、小林カツ代さんは、赤旗に寄稿をしていて、そこから有名人へと、這いあがって行ったそうです。それで、小林カツ代さんが、NHKで料理番組を持つようになった時点では、すでに、共産党が、CIA側に支配されていて、共産党員であることが、勝ち組の証明であると、既に、成っていたと、推察されます。
 しかし、表面上は、共産党はあくまでも野党であり、安倍さんを批判する政党です。でも、何の実効性もないので、安倍さんは、やりたい放題の独裁政治を行っています。もっとも雇うらしい野党が、鎌倉エージェントを通じて、ツウツウのお仲間なのですから、安倍さんは、やりたい放題なのです。

 安倍さんに対しては、まだ、まだ、大きく批判をしたいところがありますが、本章は、パリから始まっていて、しかもコネによる成功という問題に入っているので、安倍さんについては、ここまでとしておきます。

 ところで、小林カツ代さんが、死んだときに、NHKは、特番を組みました。ところで、同じころに、菅原文太が、死んだのに、一切の特番を組みませんでした。どうしてか? 井上ひさしが、まだ、生きているからでしょう。そして、NHKサイドに対して、それを行わない様に、指示をしたからだと、推察をしております。どうして、井上ひさしが、菅原文太の特集番組をNHKに対して、行わせなかったかというと、いくつもの理由がありますが、一つには、同じ仙台出身の有名人として、井上ひさしの方が、菅原文太に対して、激しい嫉妬心を持っているからだと、推察をしています。

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副題14、『美術9条の会、および、マガジン9条の会、および、鎌倉雪ノ下の、連中の手法は、すべて、共通している。飲食の会を利用して、出席者を洗脳していき、自分たちが弾圧をしたい人間を潰して行こうとする仕組みである。それは、鎌倉駅のトイレで、栗田玲子さんと夜の、10時過ぎに出くわした時に、確証を得た』

 すみませんが、ここから先は、後ほど書きます。でかけないといけません。恐れ入りますが・・・・・

一方で、誰がトップだったのかを、私は知りませんが、美術9条の会というのもできました。

後注1、

 後注2、小林カツ代さんて、もろ、現代政治の悪のパペットです+神楽坂女声合唱団・ケンタロウ△ 2014-02-02 00:43:38 | 政治

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