今は、15日の、夜七時ですが、やっと完成しました。途中で、吉原についての新しい記述…ソープランドの事・・・などを入れているので、さらに、読みごたえが増していると、思います。完成した印として、△印を、総タイトル横につけて置きます。尚、二日目と、三日目に入れたものは####罫線で始まる昨夜の文章の前に置き、副題のナンバリングをカタカナにしておきます。
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副題イ)、『なぜ、私が柄沢斉の名前を、ここで、頻繁に出してくるのか?』
これは、きわめて、政治的な、部分を分析している文章ですが、今のところ、それが、見えて居ないかもしれません。私自身は、したの####罫線以下の様な、人間の哲学的及び実存的分析と言うのが大好きです。このたった、実働16戸しかない地域で、しかも、奥様が、活発に動く家は、7戸しかありません。妻が居ない家が、三戸あって、その一つが、大原光孝家です。で、そこへもってきて、伊藤玄二郎と、まだ生きて居て、地下潜行をしている井上ひさしが、外から、種々様々な教唆を入れて、少ない人員を、攻撃用弾丸として使っています。もし、それが、無かったとしても、こういう環境では、お互いの真実は、指呼の距離で判る場所です。自分が頭が悪いからと言って、他の人も同じ程度に頭が悪いわけではありません。
むしろ、頭がいい人ほど、自分の言葉の影響力などを知っているので、無口になるものです。無口になるというか、金持ち喧嘩せずで、対応をしないものなのです。こういういい方は、嫌われることを承知で言えば、私は、いろいろ、考える方なので、相手が捨て台詞を放っても、ほとんど応じません。でも、放った方は、相手が黙って居れば、自分の方が勝ったと、思うらしいのです。捨て台詞を放って来たときのあいては、戦いを挑んできているわけですね。そして、挑発してみて、相手が黙って居れば、自分が勝ったと、思うらしいのです。でも、私に言わせると、それは、小学生並みの幼稚な精神となります。大原光孝と言う人間は、この16年間で、大きな捨て台詞を三度も発してきています。そして、そのいちいちのケースで、裏に、柄沢斉が居ます。だから、最近の文章で、頻繁に柄沢斉の名前が出てくることとなってしまいます。
大原光孝さんと、私は、平和な、雰囲気で、1984年から、1997年まで、仲良く、近所住まいの画家同士として、付き合ってきたのですよ。そして、その頃は奥様も、きちんと主婦であり、母親でありました。しかし、2003年ごろから、彼が、急に攻撃用弾丸として機能をし始めます。それは、私がライターとして、非常に力があると、CIAエージェントたちが認め始めたからです。
その一番最初の、部分であって、しかも眼に見える形で、攻撃をして来たのは、『ワインが割れて惜しかったねえ』と、言うセリフでした。それはね。激変と言うほどの、彼の態度の、急変でした。
その頃、この山への進入路の、うち、【しいち稲荷】への、参道部分は、かまくら砂岩でできて居る石段でしたが、石が弱いので、ぼろぼろに、砕けて居て、平ではありませんでした。今は、税金で、修復をされています。私は新橋の高速道路の下のハナマサで、赤と白の、ワインを買って帰る習慣が、その頃にはありました。ハナマサとは、業者向けスーパーなので値段が安いのが特色ですから、紙袋などには入れてくれず、レジ袋に入れて、持って帰る形式です。母の見舞いが、必要な時期で、夜遅く帰って来るので、疲れていたのです。で、ひょいと左手側のレジ袋を地面に置いたのです。しかし、ちょうど、石がかけたところに置いたらしくて、赤の方のワインの瓶が、ころころと転がって、割れました。非常に強いポリフェノールとアルコールの香りがあたりに立ち込め、かまくら砂岩は赤く染まって居ました。どういう風に洗おうかと、途方に暮れている時に、後ろから追い抜いて行った男性が居て、瞬間的に、「川崎さん、ワインが割れて惜しかったねえ」と言い放って、そのまま、助けもしないで、去って行きました。
この山の住民は、みんな海外での、滞在の、経験があって、マナーは、洗練をされていますので、女性が、荷物を持っているときは、助けてくれます。男性は、女性の代わりに、持って、山の上の方へ、あげてくれます。中谷家の長男(=東大教授)にも助けてもらった記憶があります。無論、大原光孝さんにも持ってもらったことがあります。
大原光孝と言う人物は、帽子が好きで、何か、一朝、事あるときは、必ず帽子をかぶっていますが、この時もかぶって居て、その上、ジャケット姿でも、ありました。これは、彼にしてみれば、最高級のおしゃれです。私はすぐ、『東京でか、鎌倉でか、どちらでかは、知らないが、伊藤玄二郎と、柄沢斉と、一緒に呑んだな』と、判りました。これが、その15年後の、今般、4月7日の土曜日の午前中にも見られたおしゃれ具合なので、大原光孝の、今般の攻撃の影に、柄沢斉が関与していることが分かったのです。そして、この組み合わせで、過去にもひどい事をされていますし、最近でもパソコンが三台も壊れるというひどい被害があるので、急きょ、・・・・・もし、ブログを書けなくなったら、それは、柄沢斉のせいですよ(後注2)・・・・・と、書きました。この4月10日の夜は、旅先だったので、非常に簡単に匂わせる程度でしたが。説明とか、傍証づけはまだ、していませんが。(後注2へ)
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副題ロ、『大原光孝について、最初の分析をした時に、彼は、私をなめきっていたのだった。それは、マスコミで、有名人を持ち上げることに、毒され切って居て、・・・・・マスコミ有名人ではない人間は、たいした事はないのだ・・・・・という観点を持っているからであろう。同じ事は、ギャルリーユマニテの、金成悠子さんにも当てはまる』
で、今般も、、柄沢斉の動きを説明するためにまず、大原光孝について、書きました。今までの15年間で、三つの文章を書いていますが、その最初の時も、相当に詳しい文章を書いて、メルマガで読者様、300人(当時は、そのぐらいの数だった。以降500人以上にまで、増えているが、ブログに、集中しているうちに、メルマガが、送信できなくなってしまっていて、今は、メルマガの方は、休止状態になっている。AOLは、アメリカの会社なので、いろいろ、破壊行為を受けやすい場所となっている。また、それは、ADOBEについても同じ)送りました。
ただし、重い内容なので、発信をする前に、大原光孝自身に、問い合わせをしています。電話で、「大原さん、あなたが、昨夜なさったことは、文章で、書き表すと、ひどい事となるのですが・・・・・」と、言ったのです。すると、間髪を入れず、「書いていいですよ。ただし、実名で無ければ」と言いました。驚きました。私が電話を掛けたのは、許す為でした。アガペーとしての行為でした。しかし、彼は、そういう種類の愛を知らないのです。
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副題ハ、『大原光孝は、父が吉原で、医者をしていましたと、道端の、立ち話で、語るので、私は、面食らったが、それを、聞いた当時は、私は、まだ、ニューヨークでの体験を経て居なかったので、硬いところがあって、ぶっちゃけた話として、彼に、・・・・・そういうことは外部へ出すものではない・・・・・と、は、注意はしなかった』
養父母が、叔父、叔母なら、まだしも、全くの他人だとすると、養子に出されたことは、実際には、実の親に捨てられたということです。そこで、もう、愛を信じられない人間へと、変化しているでしょうし。で、せっかくの助け舟を電話で出した時ですが、すでに、人間の善意から出て来る深い愛情というものを信じられない種類の人間と化しているので、相手の喜捨の心の受け取りを、断ってきたのでした。『ああ、もう、畜生そのものに、変化しているのだわ。例の鎌倉エージェントと、付き合うと、そうなりますね。みんな」と、内心で思いました。その上、きれいな養母さんですが、二人の間に、真実の愛情の交流があるとも、見えません。
実は、「僕の父は、吉原で、開業をしていましてね」と、道端の立ち話でいうので、びっくりしたことがあるのです。吉原と言うと、江戸時代は、高級な文化の里ですが、明治以降はさびれて来ていて、大原さんの、父親が開業していた頃は、ソープランドの町として、有名だったでしょう。ソープランドと言う語彙が、、今は、無くなってしまいましたが、石鹸を使った全身エステを表向きの商売としているが、実際には、男性側に、性的欲求を果たさせる場所です。ですから、女性たちは、苦界に身を置いているという形で、性病とか、その他の病にかかりやすい場所です。そういう地域で、医者をするという事は、赤ひげ医者と、見做すことができます。ですから、養父は、とてもいい人だったと、考えられます。でもね、大原光孝さん自身は、お嬢さんを育てている最中です。べたべたに、過保護にして育てている最中です。そのお嬢さんの祖父に当たる人が、吉原で、開業をしていたとなると、イメージがすごく悪いです。たとえ内情は赤ひげ医者であったとしても、一般人は、短い言葉で、それを聞くとすぐ、性病を連想しますので。
::::::::::ここで、スピンオフへ入りますが、人生で、二回ほど、相手が話したことに驚いて、口があんぐり開いてしまったことがあるのです。が、そのうちで、古い方は、1965年の、ICU内で、アメリカ人大学生ベーカーさんが、たった4人だけの会合の中で「僕は三鷹警察署の所長と親しいから、その、S君が三鷹駅前で、配りたいというビラの配布の許可を、取って置いてあげるよ」と言った時でした。そして、あまりにびっくりしたので、眼を見開いてしまいました。すると『あ、しまった。彼女は頭がいいので、僕がCIAスパイであることを悟ってしまったなあ』と、考えたらしいベーカーさんが、その後、旧中島飛行機の、滑走路(ICU建学後は、大学への、道となっている)で、後ろから、首を絞めて、私を殺そうとしたのです。それが、今、私が、日本の警察の特殊部隊から、いじめられているすべての、現象の、出発点でもあると、思っているので、怒り心頭です。ですから、白井小野寺夫妻であれ、誰で、あれ、私に対して、害毒をもたらす人間は、すべて、実名で、その行動を記載します。だから、金成悠子さんは、私の文章は、隅々まで、読んで、オーナーの十束さんに、報告をして置かないといけなかったのですよ。正義は、私の側に在り、私の悪口を言う人間は、悪人側であり、日本人から搾取をし苦しめている側でありますので、それが、日本社会では、どんなに、偉い人でも、上手にあしらって置かないと行けなかったからです。そのバランスを取るのは、非常に難しいとは、認めますが、そのバランスはとりながら、生きないといけないのですよ。現代日本とは、そういう種類の社会なのです。::::::::という挿入を入れて元へ戻ります。
大原光孝さんが、道端で、「僕の父は、吉原で、開業をしていました」と、言うので、口があんぐり開いてしまったというところに戻ります。私と大原光孝さんとの関係は、戸数が20戸しかないこの地域で、しかも、昼間、活発に動いている人は、10人程度しかいないこの雪ノ下二丁目の山の中で、二人とも画家であるという、一点だけなのですよ。そんな相手に対して、自分の娘に取って、マイナスになる可能性のある事を、平気で、しかも、道端で、語るので、本当にびっくりしたのです。私が何度も、・・・・・彼は、私に甘えている。そして、そうなるのは、家庭内が、空疎で、家族と言うメンバー同士では、愛情の交流がないからだ・・・・・というのは、この時の体験も大きく関与しています。
のちに、冨澤夫人が、同じく道端で、唐突と言ってもよい形で、「大原さんって、養子なのよ」と言うので、これまた、びっくりしたのですが、それは、・・・・・冨澤夫人が、すでに、彼ら、鎌倉エージェント側に、使役をされている存在になっている・・・・と判断をする、よすがになりました。彼らに使役をされて、大原光孝に味方したという事なのでしょう。それが高枝切の前哨戦になっています。
養父を大切に思っているかいないかは、私が引っ越してきた当時には、すでに、養父が亡くなっている後だったので、判断が、不可能ですが、養母に対しては、どうでしょう。美しくて、非常に上品な感じの養母さんですが、光孝さんとの間に、心底から、通じるものは、まだ、育っていないと、私は、おもっております。それに対する傍証付けは、また、別の章で語ります。
お嫁さんですが、もし、私の想像通り、四国で、大病院を経営して、法人化している、一族のメンバーだと、仮定をすると、養母さんとは、金銭感覚だけをもってしても合わないです。もし、夫婦間に、緊密な愛情の交流があったとしたら、養母さんに、一人暮らしを強いて、自分たち二人は、外へ出て独立をすると、思います。しかし、光孝さんの、方は、養母の、遺族年金と、そこから出る食費代などが、唯一の収入であろう人だから、養母から離れることができなかったと、推察しています。
安野家と、双璧をなす、形だけが、優雅なご家庭です。
二つ目の判断先として、お嬢さんについての態度で判る事があるのです。過剰に、接触をしています。中学生になっているのに、塾の帰途を駅まで、お迎えに行きます。それが、「夜の九時です」とか、「10時です」と言うのなら、まだわかるのですが、まだ、日が差していてあたりが、明るい時間帯でも、そうします。お嬢さんが一点集中主義で、家族の結束を担っています。三人の大人が、お嬢さん一人を過剰にかわいがることで、家庭内に漂う空疎さと、種々の矛盾をカモフラージュしています。でね、お嬢さんが、お嫁に行ってしまったら、夫婦の間は、切れ切れになりました。養母とは、仲良しみたいですが、それは、養母がもらっている遺族年金が目当てだという趣旨も否めないと思いますよ。若い時にサラリーマンをしていないので厚生年金が入らない人は、年金の額は、非常に少ないはずです。
東京圏の高級住宅街で、小さいころから育った人間だと、他人をなめきるとか、他人を馬鹿にするとかいう事は、決してしてはならないというマナーが身について居ます。自分が損をするという事が、しっかりとわかって居ます。しかし、彼のネット社会における冠は、「高知出身の画家」となっていますので、最近そのキーワードを盛んに私が使う、・田・舎・の・人・だった・の・でした。都会で、生きる人間に、必要なマナーを知らない人間なのでした。
電話を掛けた朝に戻ります。私としては、びっくりしました。こういう返事を予想していましたので。「あ、川崎さん、昨夜は、失礼をいたしました。僕、酔って居たんですよ。ごめんなさい」と。それが・愛・の・ス・ト・ロ・ー・ク・という物です。でも、返事が、反省のひとかけらもないものだったので、長い文章をたった4時間で書き上げて、300人のメルマガ読者に配信をしました。無論、その時点では、本名は書いて居ません。
その後、この石段が、鎌倉市のお金で、修復をされました。伊藤玄二郎達、CIAエージェントは、税金を自由自在に使います。そして、その結果、大原光孝は、一切を反省せず、自分側が勝利者側であると、思い込んでいるみたいです。しかし、その内容は、彼の想像をはるかに超えるものだったでしょうね。12歳ごろに「神奈川県一頭が良い」と言われた私は、今、75歳になっても、日本で、最高レベルの頭脳の持ち主の一人であろうと、自認をしています。大原光孝ごときに、私の脳内に、在ることなど、想像すらできないでしょう。
しかし、『ワインが割れて』と言うエッセイは、発進をされ、すぐ、鎌倉エージェントが内容を把握し、大原光孝に、プリントアウトを渡したらしいです。で、それ以来、彼は、確信犯としての、復讐者になったみたいです。
そして、警察から、(ただし、実際に手渡された相手は、だれか別の人間であったかもしれませんが、)合いかぎをもらっていて、たびたび、我が家に侵入して額を斜めにするなどの、嫌がらせ行為をしています。それを、やるのも、『気持ちいいなあ。僕、復讐してやったぜ」と、思っている筈です。それが、恐ろしい事であり、創形時代の、恩師である柏健さんと、結び付けて語ったら、柏さんの恥に成るということなどを、思い浮かべることもないでしょう。
そして、伊藤玄二郎たちは、私を嬲り殺すことが最終目標ですから、私がブログで、そういう案件を書くたびに、「大原さん、偉い、偉い。効果あったよ。もっとやって頂戴」と、ほめそやしていると、思います。
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副題ニ、『シロタ画廊との関係を、お前、どうするつもりなのだ。と、伊藤玄二郎とか酒井忠康氏は、思っているだろう。特に、13日の金曜日に、北久里浜へ行ったのを、「逃げだ」と、判断をされて、西隣の白井小野寺邸から、また、二階の、天井灯を、意味ありげに点滅するという攻撃を、午前、1時過ぎに行われてしまった。そして、鎌倉駅では、イッコーのガードマンが、右にも左にも居たのだった』
ここですが、本当は何も書きたくないのですよ。と言うのも何かを書いてしまうと、それを利用して、先回りして、手はずを整えられてしまうからです。ただ、是だけは、言っておきたいですね。金曜日に新しいブログを書かなかったのは、岡田美術館についての文章について、自信があったからです。数十篇に、ひとつ、生まれる、傑作の類だと、思っています。三日かけてようやく、完成していますが。
それで、引き続き、読者の皆様に、それ(後注3)を読んで、いただきたかったと、言う理由だけで、更新をしませんでした。
ところで、敵さんたちは、逃げている。だから、猛攻撃をしてやれ、そうすれば、こちらが困る事を、書かないで、いるだろうと、誤解をしたらしいのです。それが、鎌倉駅で、イッコーのガードマンが二人も待って居たという事へ繋がります。
しかし、読者の皆様に向けてではなくて、鎌倉エージェントの面々に、向かって、本心を述べれば、逃げたわけではなくて、非常に満足をしていたので、北久里浜へ、行ってあれこれをしたわけであり、かつ、そこで、充分に時間を取って、農作業と、パソコンのメインテナンスと、テレビニュースの点検と、お茶や、食事もとって居て、遅くなったと、言うだけなのです。遅くなると、鎌倉駅で、バスが、無くなります。そういう場合は、JR久里浜駅も、逗子駅も利用しないで、横浜駅を利用して、京急から、横須賀線へ乗り換えます。JR久里浜駅で、必ず、イッコーのガードマンが待って居て、脅かしてきますが、それを避けたというわけでもないのです。横浜駅経由の方が、電車賃は、余計にかかるし、鎌倉についてからの、タクシー代もかかるのですが、他の経路と、ほぼ、所要時間が同じなうえに、乗り換えのために、歩く距離が短いのです。しかも、京急内でも、座われますし、横須賀線内でも座われるので、合計一時間ほど、座る事が出来ます。すると農作業後の、肉体的疲労が、回復をされています。で、帰宅して後に、家事をやったり、ブログを書く余裕が生まれます。だから、京急久里浜駅とか、京急金沢八景駅を使わなかったのですよ。これを言って置かないと、トカゲの脳味噌連中は、自分達が成功したと、誤解をして、西隣の白井・小野寺夫妻に、更に攻撃せよと、命令するので、言っておきましょう。
そして、上で、言っている通り、彼等の誤解を、訂正をして置かないといけないポイントは、もう一つあります。彼らは、こう考えているでしょう。・・・・・彼女は、シロタ画廊と、自分とのこれからの関係に悩んでいて、次の、文章を書けなかったのだろう・・・・・と、言う風に。
この部分ですが、書きにくいし、書きたくない部分なのです。私が「もう、。シロタには、行かないつもりだ。だから、柄沢斉については、はっきりと、真実を書いた」と、告白したら、伊藤玄二郎は、全画廊に向けて、栗田玲子さんとか、油井一人さんを使って、「川崎千恵子とは、画家の、作品の値段を下げてしまう、美術界にとっては、大迷惑の人物だから、不親切にしてください。まともには取り合わない様にね」と言う号令を出すはずです。
しかし、この種の予測も書かない方がいいのです。何も、書かないで、現場に行って判断をする。それがベストなのです。私は、自分が損をしたり、傷つく事には慣れています。その上、神様の庇護が、ビンビンと、降り注いでいるので、どこかで、逆転ができます。そして、挽回ができます。
しかし、それでも、シロタ画廊と、私のこれからの関係を、わざと、書いたのは、ある別の目的があるからです。
それは、伊藤玄二郎、および、酒井忠康氏などの、敵陣営に立っている人々が、考えている私の人物像と、実際の私は違う・・・・・という事を、まだ、実際には生きて居て、地下潜行をしている井上ひさしなどに、知らせたいからでした。 私が金曜日に北久里浜へ、行ってしまい、ブログを書かなかったのは、逃げているのではないのですよ。その前の文章(後注3)の出来がいいと、知っていたからです。『出来がいい文章ができたから、ライターとしては、ここで、ちょっと、休みましょうね』と、考えたわけです。
16日は、歌舞伎の予約券を持っているので、どっちみち、画廊巡りはできないかもしれないのです。でもね、これから先も行くのか、行かないのかについて、私の方が、何も表明しなくても、
彼らは、彼らなりに、防衛上の、準備はするでしょう。
シロタ画廊の、応接セットには、数年間の間、私の目の前には、姿を見せなかった、ミスター・オーナーが座っていて、そのそばには、過去に、私をいじめた事のある美術界の面々のうちの誰かが座って居て、オーナーに代わって、「あんた、どの面下げて、ここに顔を出すんだよ」と、すごむ可能性があるのです。というのも、鎌倉エージェントに属すると、彼らは、平気ですごんだり、どなったり、捨て台詞を放ったりする様に成るのですから。
最高の例が、山口千里さんです。彼女は聖心女子大の卒業生で、歯医者さんの奥様であり、千代田区のマンションに住んで居る、富豪の一人です。そして、私が、1991年から、2002年まで、国展に、出品していた期間では、もっとも、仲の良い国画会出品者の一人でした。ところが、私の方が、国展への、出品を止めて後、数年後(=2008年から、2009年に掛けての間だったと、記憶をしているが)ギャラリー山口内で、とんでもないやり方で、すごんできたのですよ。委細は、こうです。
私がオーナーの、みつ子さんと、楽しげに語らって居たら、道路の方から、西側の入り口を使って、千里さんが、野見山暁次さんと、一緒に入って来て、私から、五メートルも離れた位置で、「何を、ぎゃあぎゃあ、わめいているのよ」と、怒鳴ったからです。私の声は、大勢の、音楽関係者から、特に芸大卒の方から、「天与の美声だ」と、言われています。山口みつ子さんの方も、美声の持ち主です。だから、二人の会話が、わめく、などと言う種類のものではないのは、確かです。反対にその時の千里さんのだみ声と言ったら、・・・・・この世で、他に聞いたことがない・・・・・というほどの、ひどい声でした。私は瞬間的に、『千里さんて、実家が、石炭積み出し、または、鉄鋼運び出しの、港湾関係の、土木・運送・業者ではないかしら? ほぼ、やくざに近いかな?』と、思ったほどです。それほど、ひどい・すごみ・様でした。
そして、その時に、そばについて居た野見山さんが、あの小さな目をまんまるくして、しかも、怯えた様な、眼で、私を見つめたのですよ。それが、本当の理由の、ひとつにもなって居て、山口みつ子さんは他殺であると、確信をしています。
私は、そのすごまれた碑には、千里さんの前では、何も反論をしないで、帰りました。千里さん側から見たら、・す・ご・す・ご・と言う風に見えたと、思います。しかし、どうして、どうして、それ以降、山口みつ子さんが他殺だと、言う、論理を繰り返し、発信をしています。野見山さんに責任の一端があるという事も繰り返し、書いています。
だから、私の方にとっては、脅かされたり、すごまれたという、悪い事が、一概に悪い事とはならないのですよ。大原光孝にとっては、自分の叫ぶ声、「川崎さんは、暴力をふるった。振るった」が、私をやっつけたと、思っているでしょう。また、石春産業に話しかけているのに石春が答えないので、彼が、答えるまで、待って居る私に対して、主人が早く家に帰りなさいと、呼びかけているのを指して、「ほら、ご主人が心配していますよ。あんなに、いいご主人なのに、川崎さん、どうしたんですか? (そんなにとげとげしく、突っ張って居て)」というようなセリフを出したのですが、それらが、復讐として相当に、効果が高かったと、思い込んでいると、思います。
しかし、彼が、そういう捨て台詞をはいたからこそ、######罫線以下の文章を書けるわけですから、「あら、ありがとうあんした」というぐらいのものですよ。
というわけで、シロタに、行くか行かないかは、その時の自分の、気分次第で、決めますと、ここでは、言っておきましょう。これからも、顔を出したり出さなかったりするでしょう。そして、そこで、どういう風に扱われても、それを、ブログを書くのに、生かすと思いますよ。
しかし、もし、そのすごむために、準備をされている人物が、本多隆彦さんか、水沢勉さんだと、単純な捨て台詞とは、成らないでしょうね。センテンスが、より複雑で、より丁寧になると、思いますよ。(苦笑)
ここまでの、添え文を二日目と、さらに、三日目に入れて、初日の文章に戻ります。これ以降の推敲は、日曜日の、夜6時から行います。
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副題1、『主婦が家出をして、一人暮らしをする際に、ちゃんとした目的があるかどうかは、大切だ』
私は前報で、不思議な形で、経済的豊かさを他者に示す、画廊のオーナーについて、・・・・・画廊の命名【ジアース】から考えると、実家が、大きく、パチンコチェーンを展開して居るはずだ。彼女は、その役員になって居て、その名目で、50万円から、100万円の、現金収入が毎月あるのではないか・・・・・・と、言っています。さて、私が、今、論考をしないといけない、ご近所住まいの画家、大原光孝さんの、奥さんも、同じ形態で、収入が、毎月保証をされているのではないかと、おもっております。で、その収入があるので、奥様は、家出をしている最中です。まあ、別居と言うのかな?
光孝さんの、奥様は、実家が、医者です。光孝さん自身の、実の親も、私は、医者かもしれないと、思っていますが、彼は、養子に行き、その養父が医者です。
以前、ブックオフで、新書版の、【日本の富裕層】について書いたものを買って、読んでみました。私としては、銀座で、何でも自由に買える奥様の亭主は、税金を自由自在に動かせる、上級公務員であろうと、思っていたのですが、それは、間違いであって、各地域で、評判の高い、数百床の、病院を経営している一族が、一番お金持ちだそうです。もし、光孝さんの奥様、〇子さんが、そういう医療法人を経営している、一族のお嬢様だったら、両親が亡くなっても、兄弟や従兄弟が、その病院を安全に経営していると、推察され、彼女が、理事などの、役員をしていると仮定すれば、50万円から、100万円の、収入がキャッシュフローとして、毎月保証をされているという事となります。
で、彼女は、別居状態に入って居ます。私も、二年半別居状態を、経験しています。私の場合は、画家として、または、ライターとして、大きく飛躍するために、逗子の古いマンションを借りて、アトリエを、開いて居ました。特にプレスと言う、版画を作る機械が、鎌倉の自宅には上がらないと言われていて、それもあって、逗子を作ったのです。それは、合計にして、6年間はキープしていたと、覚えております。が、パリへ、文化庁の、在外研修生で、行ってから、自分には、海外で、暮らすことの方が向いていて、しかも、充分に、美術系作家として、世界で通用すると、判断をしたので、ニューヨークへも修行に行きたいと、思いました。しかし、夫や子供が、許さないので、そのアトリエで、寝起きをして、自宅へ帰らず、夫にも子供にも黙って、海外へ、修業に行った期間が、2年半あります。
どうして、それを中断して、今、鎌倉で暮らしているかと言うと、左側の背中が、非常に痛い病気にかかってしまって、寝ても起きても居られないという状況に陥ったのですが、(西洋医学的判断では、西田敏行が慶応病院で、手術をした、頚椎内神経損傷と言う事でしたが、)57歳から、鍼灸医へと転身をしていた主人が治してくれたのです。東洋医学とは緩やかな効果をもたらすものですから、三か月はかかりました。しかし、スカッと、痛みが取れたのです。私は、それを神様からの啓示として、受け止め、大アーチストとして、飛躍をするのをあきらめたのでした。『ああ、私は主人と一緒に、鎌倉の家で、主婦をするべきなのだわ』と、観念をしたのです。
しかし、それほどの、病気にかかったのは、一日を三分割して、集中して修業をしていたからですよ。8時間単位で、暮らしていました。5時間集中して、仕事をして、三時間寝る。また、起きて、五時間集中して仕事をする。それが、57歳から、60歳までの間の、逗子での、生活です。テレビも見ないし、新聞も読まない。ネットの記事なども読まない。週に一回ほど、銀座に絵を見に行くだけが、外の空気を吸うチャンスです。私ね、田中一村の事、非常によくわかります。だって、誰とも付き合わない生活と言うのを、その時期に、送っていますから。彼と全く同じです。あ、ただ、少し違うのは、電話はかけまくって居た事です。古くからの友達を、とっかえ、ひっかえ、選んで、週に一、二回は、夜、長でんわをした事があり、其れもまた、大きな勉強になりました。いろいろな事を、いろいろな相手から、教わりました。新制作協会の、田沢茂氏のスケープゴートを作って、全体を支配するお教室運営の、実態など、渡辺幸子さんとの電話で、知った話でもあります。それは、レスリングの栄さんと、似ています。
あれによって、私は普通の主婦から、脱皮して、一種のプロになったのです。お金はもらえませんよ。だけど、お金がもらえないからこそ、テーマが自由に選べるし、その自由さは、これまた、天の恵みだと、把握しているので、アフィリエイト収入が無くても、もう、気にして居ません。
海外へ行っている時のスケデュールは、ちょっと違います。昼間は、必ず、版画工房(美大の大学院とか、プロの版画家が使う工房とか)で、10時間程度は、すごし、帰宅した後で、文章を書いて、三時間寝て起きる。三日目ぐらいに七時間寝る。という生活を送り、ストレスもあって、38キロぐらいに体重が減ります。骨が処々で、出っ張って来て肘など、見事に、とがります。ただ、私は顔の肉はあまり、落ちないのです。で、海外は、たいてい秋に行きますので、長袖の物を着ていますので、他人が、「あの人痩せすぎて居るわ」と、思って、心配することはありません。顔が普通なので、普通の体重だと思ってくれています。
ところで、わがまま一杯を過ごしたみたいに見えるでしょうが、帰ろうと思えば、自宅は、帰ることができます。主人は受け入れてくれます。そこに、盗聴者も知らない秘密があります。実は、私は愛を与える人なのですよ。つまり、太陽みたいな人なのです。天照大神の神話と言うのは、まさしく、家庭の主婦の象徴です。愛という物で、一家を纏めている。それが、主婦という物だから、居てくれた方がいいのです。口げんかが、どれほど、起きようが、私は愛の人だから、主人にしてみれば、居てくれた方がありがたくて、安心できる、そういう存在が、私なのです。
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副題2、『お金が有ったら幸せになれるかと言うと、そうでもない』
ところで、日本人は愛と言うと、すぐ、フェロモン系の愛を考えるでしょう。まあ、それもいいでしょう。しかし、もう一つ、違う種類の愛もあるのです。それがわかって居る人と、わかって居ない人が居ます。
大原光孝さんの奥さんと言うのは、愛されることは知っているかもしれないけれど、愛することは、知らない人です。どうしてそれが、判ったかは、後で、述べます。
でも、この激しい集中の時期に、母は、離婚になるのではないかと、心配をしました。で、しみじみと、「お金がある事が幸せにはつながらないわね」と、いいました。もし、私が父の遺産をもらう事が無かったら、海外修業はできません。だから、母はそういいました。でもね、私の様な、普通の人よりもエネルギーレベルが高い人間には、あの海外修業時代は、絶対に必要でした。あれがないと、それ以降の人生で、欲求不満の塊として暮らしたでしょう。『自分には、もっと別のことができたはずだ』と思ったりして、不幸の塊みたいに、自分を思い込んだはずです。しかし、1998年にパリで、三か月、1999年、ニューヨークで三か月、2000年に、ニューヨークで三か月、激しい動きを伴う生活を送って、帰って来てみると、「見るべきものは、見ました」という感覚があるのです。「この地球上に在る事は、ほとんどわかりましたよ」と、言う感覚を得ます。平成23年(=2011年)に、母は、死ぬのですが、その半年ぐらい前に、「結局、あんたのところが、一番、にぎやかになったわね」と、言いました。
それは、私が落ち着いていて、いろいろな事を引き受けましょうねと、どんと、しているので、中心がある家庭となっているからです。この落ち着きは、派手な冒険をしたからこそ、得られたものでした。まあ、版画の修行をしただけですが、1999年には、美大の大学院で、担当・女性・白人でドイツ系・教授に嫉妬されたり、その女性教授に媚びを売る、日本人女子学生が、仕事の邪魔をしてくるので、彼女と喧嘩をして私の方が、勝ったり、などと言う、付随する、種々様々な経験があって、心理学的要素に於いて華やかなのです。日本で主婦として暮らしていたら得られなかったほどの、派手な経験をしたのです。それは、1999年の渡航の方で、2000年の方は【黄色いさくらんぼ】と、言う紙の本にまとめました。市販をしなかったし、800部程度献呈しただけなのに、一時期アマゾンで、10800円の値段がついて居ました。手に取って、読んでいただければ、きっと、面白いと思います。ワンピースみたいな冒険ではないのですよ。主に心理的な、冒険であり探検です。
ところで、お金の問題に戻ります。お金がある事が幸せにはつながらないという件ですが、同じ事が大原光孝さんの家にも当てはまります。もし、奥様に、上で、私が、想像で言っている様な、定期的でかつ安定した収入が無かったら、独立して、別居する事は不可能です。で、一家は安泰だったでしょう。また、それが無かったら、光孝さんは働いた筈です。ここでいう働くとは、収入を得るという事を指します。それは、絵では、なかなか、食えないので、サラリーマンをするという事を指します。または、肉体労働をする事を指します。銀座で個展をする様な作家で、奥様が、居る人は、奥様がたいていOLとして(=または、教師と言うサラリーマンとして)働いています。でも、男性の方も、何らかの形で、収入を得ることにトライしています。
私は大原光孝さんに、攻撃をされたからこそ、ここまでの事をはっきりと言うのですが、奥様の家出には、彼への、愛想尽かしの要素があると思います。『いつまでたっても、うちの光孝さんは、柄沢斉にはならないし、奈良美智にも、ならないし、横尾忠則にもならないわ。こんなはずではなかったわ。どうして、もっとしゃんとしてくれないの?』と言う気持ちがあるから、出て行ったのだと、思います。
大原光孝の、攻撃の中には、警察から(間に誰かを通してでしょうが)合いかぎをもらっていて、私の家に入って種々の嫌がらせ行為(たとえば、絵の額をすべて斜めにしておくなどと言うこと)をもやっている・・・・・と、書いています。その上に、面と向かって嫌味を言うという行為も入って居るわけです。特に、上で挙げている、アトリエを作って、それをキープしていた、2004年ごろ、道路で、面と向かって、彼から、「みんなが、川崎さんは、離婚をするよと、言っているよ」と言われました。これが、非常に重要なので、今の文章を書いています。・・・・・あなた、何を言っているのですか? 我が家の方が、ずっと、健全ですよ。あなたの方が、変なのです。と言うか、愛情のない、家庭生活を送っているのですよ・・・・・と、言いたいのです。が、それをリアルな世界で言うと、リアルな世界での、大騒ぎの喧嘩になるでしょうし、時によると相手がくるって、刃物沙汰になるでしょうから、彼には、直接には何も言わず、ここで、神様に向かって、ご報告をしていると、言うところです。
ところで、かれから、「みんなが、・・・・・川崎さんは、離婚するよ・・・・・と言っているよ」と、言われた際に、私は何にも答えませんでした。内心で、「また、低劣な事を言っているわ。バカ目」と思っただけです。奥様の方が、お医者さんの娘であり、女子美卒なのに、近所の噂話ばかり家庭内で、交わしているみたいだなあと、以前から、私に、感じさせるところがあり、それは、1990年代から、知っている事でしたので、『夫の方も同じだわ』と、思った次第です。でも、みんなが、そう言っているというのは、安野夫人や、前田夫人を中心として、スケープゴートを作りたがる、中学生の番長並みの事をやっている、例のアジサイ畑欺罔事件の推移と同じことを、いつも、繰り返していると、いうわけです。
【山間の煙】と言うエッセイで、書いた事とも同じ伝です。こっちが煙を出していないのに、「川崎さん、たき火を止めなさい」と、電話で命令して来た件と、同じ作業を、裏側で、やっていることが推察をされ、「ふむ、ふむ、そうですか」と、思っただけです。
この間、4月6日の金曜日(後注1)に、彼は、道路の端っこに無理にねじ込んで来て、私の口と、彼の口が、間隔40cmぐらいの場所で、挑発の限りを尽くしてきました。
この陰に、伊藤玄二郎と柄沢斉を交えた三者懇談があって、「こっちが勝っている処だから、さらに攻撃をしてやれ。彼女は、すんでのところで、自殺をしそうだ。がんばって攻撃をしろ」と、命令をされたと、推察しています。それが、石春産業の、証拠隠滅工事の最大の目的だからです。その工事に輪をかけた攻撃をする事によって、自分達の目的の効果を上げようとしたと、推察されます。
私は激しく怒ったので、「あなた、奥様、どうしたの?」と、聞きました。以前のケースでは、彼の方は、離婚という言葉を出してきて、からかってきたわけですが、私はそこまで、自分が下品になるのが嫌なので、「どうしたの?」と言う穏便な形で問うたのです。
そうすると、彼は、何にも答えませんでした。反対側のケースでは、私と主人の間柄など、を、からかいの種として、突っ込んでくるのに、同じ事を反対に問うと、逃げるのです。いつも、彼に対しては、『ふん、燕雀、いずくんぞ、鸛鵠の志を知らずんや』と、軽く馬鹿にしておいたのですが、今般の質問の方は、彼にとっては、真実の痛手だった模様です。
裏側に、もう帰ってこないだろう、奥さんとの、実質的な別れがあるのでしょう。ただね、奥様の方が、別の男性との、ラブアフェアを、経験して居なかったら、養母さんが亡くなった後で、帰宅する道もあるでしょう。ただし、稼ぎがない夫を嫌っているのだとする、ラブアフェアが、無かったとしても、帰宅は無いでしょうね。だって、養母さんがなくなったら、彼には、現金収入が、月に五万円ぐらいになってしまうからです。稼ぎのない男の典型となってしまうからです。
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副題3、『大原夫人が山を下りて行ったのは、白井・小野寺夫妻が、転入してきたせいだと、私は感じている』
白井達雄氏は、大原光孝さんと比較をすると背が低いです。しかし、声は格段によいです。声は品性を顕すと言います。大原氏に、こういう風に(後注1)セリフとしては三度目の攻撃を受け、泥棒に入るという形では、数回の攻撃を受けているから語るのですが、光孝さんの方は、声が、非常に悪いです。また、彼は、猫が嫌いだと、言います。後者の方も、私としては、・・・・・・彼は、思考回路が、単純な人間だ・・・・・と、感じさせられるところです。
白井・小野寺夫妻に戻ります。白井さんは、収入は高いです。私に向かって「ええ、1075万円以上の年収は有りますよ」と明言しました。そして、美的センス、特に色彩感覚に優れています。しかし、そうは言っても、私が白井・小野寺夫妻の方を大原光孝さんよりも、好きだとか、高く評価しているとは思わないでください。さきほど、(=18-4-14 1:00)に、二階の天井灯を意味ありげに点滅して、攻撃をしてきましたので、非常に嫌な存在でもあるのです。大原光孝と比較をすると、こっちの夫婦は安全ですよと、言うわけでもないのです。しかし、ここは、大原夫人の家出に関する文章なので、白井・小野寺夫妻の、エリートぶりを書いておかないといけないのです。
私は、この山の人間以外の、人物から、白井さんが、日本・三大・設計・専門会社の、横浜支店長で、浜銀、鎌倉支店を設計した人であると、聞きました。そういう白井さんの、バックグラウンドを、大原光孝・さんの奥さんが、知っているかどうかについては、私の方は、知りません。ただ、両家とも中谷共二氏の子供たちと関係を持っていると、私は見ていますので、中谷家を通じて、お互いの内情を知っている可能性は、感じています。しかし、何も知らされて居なくても、白井邸の、建築中の様子を見ているだけで、その建築が、非常にお金がかかっていることは判るでしょう。特に大原夫人は、その建築の数年前に、家を建て直しています。それに、女子美卒です。だから、見ているだけで、判ると思いますよ。
となると、大原夫人は、イライラすると、思いますよ。大原邸は、建築し直したのです。古家を壊してね。お金は全部奥様が出してね。建坪としては、相当に大きいです。敷地が、白井邸より大きいし、プレハブなので、直方体として、作るから、40坪はあるのではないかなあ? 一方で白井邸は、総坪数、27坪だとか?
ここで、大原夫人の、人生経験、特に苦労をした過去の経験が、少ない事が問題になります。それは、彼女から打ち明けられたことでもないが、お医者さんの娘であり、女子美卒であると、言うバックグラウンドから、考えても、だれにでも、想像をするだに、納得される事実でしょう。そうなると、唯一、自分が上に立てる、よすがだった、たてものの、この山の他の家に比較した優位性がくずれるのです。建築年数としては新しい方です。その上、さっきから言っている様に、大きいです。40坪はあるでしょう。しかし、いかんせん、プレハブです。薄っぺらいです。白井小野寺邸の様に、手塩にかけて、作り上げられた家を前にすると、弱いです。遥かに存在感が薄いです。で、大原夫人は、白井小野寺夫妻に対峙する時は、かれらからの、威圧感を感じた筈です。
そして、建物だけではなくて、そこに引っ越して来た、小野寺夫人が、周辺からお姫様扱いをされているのも、嫌だったでしょうね。それは、長らく、自分のポジションだったからです。それが奪われてしまったわけです。その上、小野寺夫人は、コミュニケーション能力は高いものの、他人に対するやさしい気遣いと、言う物がありません。小野寺夫人は、私の目の前で、前田祝一氏の事を、「前田先生が、」「前田先生が・・・・」と何度も、言いました。しかし、それは、私を痛めつける方便であって、本心では、前田夫妻の事など、ちっとも、尊敬もしていないし、好きでもないと、言う風に聞こえるのです。
もちろん、私の事も、小ばかにし切っているし、大原夫人に対しても、本心からの、親密性など、持っている筈もない人です。普通の女性なら、先住者を、敬って、丁寧な扱いをするはずですが、小野寺夫人の態度って、仏を作っても、魂を入れずという類なので、大原夫人は、とても嫌な思いをした筈です。小野寺夫人の方はテレビ番組【渡辺篤史のたてもの探訪】の中でも、まるで、雅子さまみたいに、ご主人をばかにしきっていましたよ。読者の皆様に向かって、「それをご覧あそばせ」と、言いたいぐらいですが、今は、動画そのものが削除されていて、無くなっています。番組そのものも無くなったかな?
ところで、大原光孝さんと、小野寺夫人は、組んで、いろいろ、攻撃を、やってきます。無論、その陰に、伊藤玄二郎からの要請がある筈で、それに応じて、小野寺夫人と大原光孝さんは、協力をして私を攻撃してきます。それは、メールとか電話で、委細を諮って協力して行われたはずです。
大原夫人は、夫がその件で、外へ出かけるのには、阻止しなかった筈です。嫉妬していると、見られるのはプライドが許さないので、何も夫には、抗議をしなかったでしょうが、ほんとは嫌だったはずです。また、夫人は、私に向かって、「うちの光孝さんは、繊細で、だから、会社には務められないのですよ」と言っていたけれど、私に言わせると、どうして、どうして、ミスター大原は、鈍感です。だから、奥様が、本当に考えていることなど、気が付きもしなかっただろうし、気が付いても、すり合わせをする手法さえ、持ち合わせて居なかったでしょう。
我が家の場合だったら、盗聴を恐れているので、夫婦間での、重要な話は、手紙の交換でやりますが、ともかく、ぶっちゃけた話へもって行って、本音ですり合わせをします。それで、だいたいですが、お互いの本当のところを知った上で、日常生活を送っております。
でも、『我が家は、上品な家族です』と言う事を標榜し、それを、金科玉条の様に守っている大原家で、夫婦げんかなどありえず、従って、大原夫人には、内向した不満がたまります。
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副題4、『白井・小野寺夫妻の登場は、光孝さんが、作り上げた、虚妄の幸せ家族と言うものの、薄っぺらさと、寒むざむしさを、大原夫人に、気が付かせてしまったのだ。白井小野寺夫妻の、登場によって、奥様に対する、夫側の、洗脳の神通力は失われたのだった。白井達雄さんは、東大卒であり、日本三大設計会社の、横浜支店長であり、浜銀鎌倉支店を設計した人である。
私の想像では、【らら横浜】も、北久里浜の【ルネ北久里浜(旧名そらヒルズ)】も、設計したと、思われるが、その白井さんと、比較すると、大原光孝さんが、社会通念上持っているモノは、あまりにも小さく、かつ、空疎である。とくに、他人との、関わりと、言う意味で、大原光孝さんが、築き上げた蓄積という物は、少ない。または、小さい。奥様は、そういう真実に目覚めたのだろう。
私が二年ぐらい前に、かれに、「奥様は、どうしたの?」と、質問をしたら「〇子は、一戸建ての家よりも、マンションが好きなのです。で、マンションに住んで居ます」と、答えました。それで、済むと、思っているみたいです。
その時だって、ここに書いた考察、は、わかって居たし、それ以上のことで、ここには書いていない事だって、わかって居る私に向かって、今般、攻撃をして来たのです。こういう事を書かれるのは、経験上わかって居るでしょうに、攻撃をしてくる。何をか、いわんやだ。
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副題5、『18-4-6に大原光孝は、私の夫婦関係にも言及をして来た。からかいの調子でである。したがって、この一文を書く権利が私の方に出てきた。勝つは負けの始まりであり、負けは、勝利の始まりである。大原光孝を研究することは、伊藤玄二郎の悪辣さを、きちんとあぶりだすだろう。そして、柄沢斉も、その本質がrevealed (露見して来る)だろう』
2018-4-14~15にかけて、これを書く。
雨宮舜、(本名 川崎千恵子) なお、このブログの、2010年より、数え始めた延べ、訪問回数は、4590180です。
後注1、
大原光孝と暴力論・・・・・・何が、暴力なのだ? そして、その量を考えないといけないと、私は信じているのだが 2018-04-08 22:51:37 | 政治
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