銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

ヤマザキマリ←栗田玲子(山本容子)←超大物美術評論家氏←柄沢斉←大原光孝←妻君 別lineとして一ノ瀬智恵子+渡辺豊重+渡辺幸子

2025-01-21 22:27:21 | 政治

 この文章を書くにあたって私は自分自身でルールを決めました。実名を表記している人についてはその人がやった行動をかかない。一方仮名で登場する人はその人の行った行為を書く。と言うふうに交錯して行動と名前を表記しております。

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副題1、『吉本ばななのキッチンのヒット化の裏話を、大原光孝氏の妻君から、聞いた時に、あれ、この人って、それを、教えてくれた人と、セックスしていますか?と、感じた。

他の人ならそこまで気が付かなかったかもしれない。しかし、事実を積み重ねて、演繹をして行くことを得意とする、私だったから気が付いた。夫である、光孝さんも、気が付いて居なかったかもしれない。でも、私は相当前から、気が付いていたのだった。私が気が付いていたころ、奥さんは、自宅にいて、妻、母の役割を果たしていたが、大物美術評論家は、ひそかに手名付けていて、絶対に秘密にしましょうね」と、約束しあっていたと、考えられる。それが可能だったのは、この細君は、親が偉い人で、そこからの月給をもらっていると、推察するので、お金の力で、なんとでも、秘密は守れるのだっただろうから。この奥様は、やがて長期にわたる家出を完璧に、実行をして、今も帰宅をしていない。そこをもう少し、丁寧に語っていきたい。

 ところで、大原光孝さんというのは、すさまじい攻撃をし、被害を与えているのだが、その一つに、2006年ごろ道端で、こう言って来たのだった。目も口もにやにやしながら、「あのね。この山の人は、みんな、川崎さんって、離婚をするよと、いっていますよ」へーら、へーら、しながら。

 彼は、我が家の合いかぎを持っていて、しょっちゅう侵入して、ひどいことをやり続けているのだが(最初に約束した通り、その実害については、書きません。悪辣な彼らは、こっちの20年にわたる被害については、注目せず、・・・・・留守中の出来事を、あんたは、見ていたわけではないのだから、それは、彼がやったかどうかわからない事であり、彼の名前で、それをやったと書くと、SNS上で、誹謗中傷したということにあたるので、逮捕していいのだ・・・・・ということにならないでもないからです。

 で、本当に重要な被害ではなくて軽いものを書きます。それが、道端で、「川崎さんは、離婚をするよと、みんなが言っているよ」という言葉でした。

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副題2、『ところで、ここで、挿入に入らせていただきたい。私が離婚をするらしいと、言ううわさが、あっちこっちで、広まっていたというエピソードについての話だ。大原光孝だけではなく、伊藤亥二郎たちも、それを話していたと、考えられる。

 それは、2003年ごろ、河出書房新社の玄関で、川名昭宣氏にも、まったく同じことを言われたから、わかった事であった。

 ひろい階段を下りてきたからは、最後まで、降りないうちに、見つけた私に向かって、「あれ、まだ、離婚をしていなかったの?」といった。

 それが、源氏物語中の【雨夜の品定め】の章と同じく、私について、あれこれ、悪口が嘲笑とともに交わされたことへの、証明になっている。川名昭宣とは、・・・・・国際基督教大学1962年入学組であり、奥様もICU卒でAFP勤務だった。

 中東で斬首されたことになっている後藤健司さん(実際には生きているだろう)の東大卒の細君との結婚は、この川名夫妻が、動いたと推察している。後藤健司さんは、一時期渋谷あたりで、クラブを経営していて、女衒まがいの仕事をしていたと証言する人の記事が、週刊誌に載っていたが、あの湯川はるなさんと一緒に斬首されたころは、上流階級の人となっていた。

 東大卒の奥様と結婚したのは、大きかっただろうが、私生活において、もう一つの勲章を得ていた。彼は、田園調布教会の会員だったといわれる。

 この田園調布教会の会員になるためには、すでに、会員である人、二人以上から、推薦されることが必要で、そのうちの一人が、川名夫人で、もう一人は、緒方貞子さんだったと、推察している。

 で、緒方貞子さんが、電車の中で、深く私を注目することとなる。ややほほえみを含んで、まっすぐに私をご覧になり、わたくしの方が、建つ場所を変えたほど、強い目力で、見つめられた。そう、私がブログの中で、すでに、後藤健司さんの、田園調布教会のことを書いていたので、緒方さんは、私の存在をすでにご存じだったのだ。だが、角野栄子さんとの新橋駅のエピソードで、凝りていて私は、緒方さんには、声をかけなかった。それほど、角野栄子さんて、冷たい。で、外人の血が入っていると、そうなるのだろうと、判断をしている。

 緒方さんとの邂逅だけど、夜九時過ぎに電車の中で、出会ったのだったから、かまくらでは、ほとんどの喫茶店が、閉店だということを知っていた。緒方さんに声をかけるのだったら、「お話を聞かせてくださいませ」となるのは、必定で、そういう形で、私は、大勢の有名人と、実は重要な会話を交わしてきた人なのだ。たとえば美輪明宏さんと、グリーン車の中でとか、吉田秀和さんと、普通車両の中でとか。旧・中央公民館の中で、豊島屋の前社長ととか。で、この日はあきらめた。だが、明らかに緒方さんは、伊藤玄二郎からの情報で、私の顔を知っていらしたし、私の後藤健司さんに関するブログも読んでおられたと思う。

 そして、もとAFP勤務の川名夫人とは、通痛のお友達だと、私は、感じ取った。

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副題3、『びょんぶは、国会図書館にもなかった』 

河出書房は、1960年代は、不況であり、かまくら春秋社社長として、今、大いにのさばっている、伊藤玄二郎は、たった、一年で退社している。で、フランスへ留学した川名昭宣は、彼とは、二年後くらいに河出書房へ入社したので、二人は、同時期で、同社員としては、生きていなかった模様である。で、後ろ足で、砂をかける形で、河出書房をでた伊藤玄二郎は、川名君だけからは、自分が、怨嗟の対象にはなっていないと信じているらしい。で、伊藤玄二郎は、彼に頼んで、河出書房・・新・・社から、【びょんぶ】という豪華本を出している。岩波ホール支配人、高野悦子さんと、共著である。

 この本の編集に、伊藤玄二郎は、川名君に300万円の謝礼をしたらしくて、川名君は、そのお金で、中国満州あたりに調査にいっている。調査の結果は、論文として、表現をされており、私はネットで、そのいちぶを見た。川名昭宣君が、そのびょんぶの奥つけで、伊藤玄二郎から、謝意を、評されている筈で、それによって、私の被害が、CIAエージェントたちが行っているという証拠になるのだが、国会図書館にさえ【びょんぶ】は、置いていない。

現代の、【焚書坑儒】である。

 ICUのおけるCIAエージェント側の、私に対する攻撃、が、先だったのか、それとも、伊藤玄二郎一派による、攻撃が先だったのか、びょんぶの奥付が、カギになっている。

 小保方晴子さんの、すたっぷ細胞疑惑とは、ICUで、私と同期卒だった、三輪喜久代さんによって、NATUREに、ねじ込められたのだが、

 伊藤玄二郎と、三輪喜久代さんは、春秋社で、よくあっていたと考えられる。伊藤玄二郎は、春秋社の社長に心酔していたと、言う。でも、私に言わせると、その社長は、すでに、CIAエージェントだったから、力を得ていたということとなる。

 言論弾圧は、出版社とか、編集者を通じて行えばトラブルが少ないと、みなされているのだろう。化学専攻の三輪喜久代さんが、どうして春秋社に、勤務するのか? 1965年委は、まったく理解不可能だったが小保方さんの浮上によって、理解できた。

 

@@@@@@ここが、加筆(1)中の最先端です。以下は、初稿です。

 と言うのも、その手の話は、吉本ばななも、外へ語っていないし、山本容子も語っていない表向きの関係者が何も語っていない。

 のに、女子美卒とはいえ、仕事はフランス語を教えているだけで(それも、生活が懸かっているとは見えず、ただ、自分のエリート性を証明するだけのものと見えたので‥・・・肩書上は、専業主婦と言える。それが、どうして、そんな、奥の奥の情報を知っているのですか? そこを丁寧に考えていくと、は、はーん、あの大モノ美術評論家とできていますねと、分かってくるのだった。それを、副題4から、丁寧に説明をしたい。

 大昔、新聞連載小説の【大菩薩峠】が、大ヒットした時に、挿絵を担当していた、石井伯丁(鶴三)が、誰かに、「あのヒットは、僕の挿絵のせいだ」と言ったので、それを何らかの方法で、伝え聞いた、中里介山(文章の方を書いた)が、激怒して、新聞紙上で、投稿合戦となり、喧嘩をしたとは、父から、聞いている。

 私は結婚までは、小説を読んだが、結婚後は、小説を読んでいる暇がなくて、各種事件を扱ったドキュメンタリーとか、エッセー集を読むだけとなった。心理学とか、哲学に近いエッセーを読むだけとなった。1980年代は、その手の書物で、鎌倉市立中央図書館に在る書物は全部読んだと、感じている。7年間にわたって、二人の子供が中学期と、高校期だったので、ひたすら母親業に徹して、絵を発表しなかった。1990年にやっと二人の受験期が終わり、絵を描き、上野の公募団体展に出したら、誰に援助を受けなくても、女流展に入選した。次の年は、国展に初出品をして、是も誰に援助を受けなくても、入選した。で、キッチンを読んでいない。だが、先ほど、調べたら初版は1988年とある。その時は、山本容子の装丁ではなかったのではないか?

 

 すみません。これ以下の文書も、すでに書いてあります。ただし、推敲が終わっていないので、いったん引っ込めます。

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