これは、前報
Steidel(ドイツ映画)vs宮崎駿特集(NHK) メディアに愛でられた後で?
の続きを、新しく、項を興したものです。で、副題8から始めたいところですが、ここでは、新しい問題、福屋書店・銀座店に、例の裏からの手が入った可能性と、そこまで書けたらですが、飛鳥新社へも、敵の手が入った可能性について語りますので、副題を1からはじめます。11日に、初稿に2章を加えていますが、まだ、まだ、加筆をするつもりです。・・・・・
副題1、『詩集、くじけないでが、八千草薫主演で、映画になったそうです』
副題2、『福屋書店・銀座店の、閉店にドキッとした思い出がある』
副題3、『私は本を独学で、しかも、自分ひとりで、出版できる。それゆえに、激しく警戒をされ、攻撃をされる』
副題4、『出版社の編集員って、ものすごく威張っていますが、それもまた、言論弾圧に役立つのでしょう』
副題5、『川島さんが、あなたなんか、怒る価値もないといい放ち、そこから、私がエッセイ・・・・・かえるが銀座を歩いてもだめなんだよ・・・・・を物したのもこのころだったが』
副題6、『2010年は、総攻撃を受けた年だった。・・・・・吉乃翔のモズクの酢の物』
副題7、『井上ひさしが、自分を死んだことにした週の、彼の企画したわなとしての個展』
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副題1、『詩集、くじけないでが、八千草薫主演で、映画になったそうです』
8日朝のNTVニュースで、詩集『くじけないで』の詩人柴田とよさんの一生が、映画化されたと知りました。とてもきれいな方なので、子供時代を芦田愛菜ちゃん、若いころを壇れいさん、詩を書き始めた以降を八千草薫さんで、役者は、結構ですが、そのテレビニュース内で、柴田とよさんの本が合計200万部売れたといっていたので、あれ、そのことは、今書いている文章の説明にぴったりだ。それを使わせていただこうと、思ったのでした。
ベストセラーがどういう風に作られ、どういう風な経済学で、推移するかというポイントで。
これは、第一詩集が、1000円という買いやすい値段設定になっているのが、すばらしいです。読者にとって、とても買いやすいお値段設定です。で、出版社は、飛鳥新社です。
戦後出発した出版社だと思いますが、眼の付け所がいいなあと。以前から思っている出版社です。次の章で、いいますが、ある翻訳本がすばらしかったので、印象に残っている出版社です。
普通詩集って、詩歌専門の出版社から出るものです。そしてそれらは、たいていは小さいです。柴田とよさんの詩集がどうして、こういう大きな出版社で、出版をされたかというと、産経新聞内に、詩の欄がある模様で、そこに有名詩人の新川和江さんが、推薦して、(たぶんですが、そういうことなのでしょう)、平成15年から22年まで載る事があって、そのときに、人々に感動を与えた模様です。
飛鳥新社側が、産経新聞か、新川和江さんのどちらかに持ちかけたのか、反対なのかは、わかりませんが、柴田とよさんご自身が動いて、出版にいたったとは、思いません。誰か、周りの人が動いて、出版にいたったと、推察します。
これは、柴田とよさんにとっても、夢の実現であり、飛鳥新社にとっても、パブリッシャーズドリームの実現だと思います。
というのも、出版者の名前が広まります。総計200万部売れたとのことなので、それは、大宣伝に当たります。中堅の中では、大きな出版社へと昇竜していく、道筋が付いたということでしょう。無論のこと、まだ、大人向けの雑誌を持っていない模様なので、マガジンハウスとか、宝島社ほどの、大きなビルを持っているとも思われないのです。が、名前は確かに大きくなったと思います。
柴田とよさんの本は、合計5種類出ています。内容としては、両方1000円で売った自伝『百歳』を、含めて、詩集『くじけないで』が、167万部、『百歳』の方が47万部ですって。
あと、NHK番組をDVD化したものが、税込みで、2500円だったり、朗読の本が、1500円だったりしますが・・・・・そちらの部数は、グーグル検索では出てきませんでした。
でも、1000円で売った詩集が、出版社の取り分で、6億弱であり、自伝の方が、1億6450万円です。すると、両方で、7億円は、出版社に入ります。ただ、増刷をして、売れ残った分があるかもしれませんが、それは、印刷所・製本所のカバーになるかもしれないし? まあ、出版社がかぶるにしても、それほどたいた額ではないでしょう。
何度も申し上げたように、本として、最初の段階で、200万円ぐらいはかかるがといっています。この本の場合、産経新聞への謝礼とか、新川和江さんへの謝礼とか、デザイナーの木村美穂さんへの謝礼が、一種の印税風になっているのか無いのかを知りませんが、
ともかく、著者には、3%印税として支払うとしても、数億円は、飛鳥新社に入ったわけです。ヒットすると、儲かるのが、機械の力を借りて大量にコピーできるものであり、音楽CDも、そうだし、アニメのDVDも、そうです。
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副題2、『福屋書店・銀座店の、閉店にドキッとした思い出がある』
副題1に続いては、静山社(ハリーポッターシリーズとか、筋萎縮側索硬化症関連本とかを、出版している)とか、村上春樹本と、その売り上げ部数を検証するつもりだったのです。そして、その流れの中から、シュタイデルの映画に戻って、さらに、宮崎駿についての、NHK特集との比較を語り、メディアに支援されすぎる結果として、関係者が、傲慢になることについて語りたかったのです。
だが、ここで、飛鳥新社についての、種々さまざまな思いが、どっと押し寄せてきて、頭を占有したので、それについて、述べさせてくださいませ。この文章の本筋からは、外れます。スピンオフの一種ですが、ちょっと政治に関係が有るので、申し述べさせてくださいませ。
私は以前、本を買うのは銀座の福屋書店が多かったと申し上げてあります。新橋駅をおりて、銀座8丁目の『せいほう』という彫刻専門の画廊から見始め、京橋の『ユマニテ』と言う画廊まで中央通りの東側を歩き、そこで、折り返して、中央通の有楽町側を今度は南下ひて、ギャラリーGKあたりで絵を見るのを、終えて、「ああ、自分の勉強は今日も終わった」と思い、ほっとして、自分の楽しみのための本を、福屋書店で、買うというのが、10年前までの、日常だったのです。副屋書店・銀座店は、そう大きな書店ではありません。だけど、それだけに、二階の平台においてある、翻訳本が、目に入りやすいところが気に入っていました。それで、福屋書店で、飛鳥新社刊の、翻訳本を何冊も買った覚えがあります。主に海外の大犯罪の分析的ノンフィクションでした。
今、初めて知ったのですが、福屋書店は、芸能プロダクションの社長が経営していたそうで、それゆえに、そこで、よくサイン会が開かれていたのです。それが、また、よくテレビニュースにもなりました。
だが、私はそれが、好きで寄ったのではなくて、結構きつい仕事である(言ってみれば、宮本武蔵のほかの道場破りめいた厳しさのある)画廊めぐりが終わった場所にあるので、本当にほっとすることができるので、好きな書店だったのです。
ところが、そのことをメルマガで、書いたことがあると思います。何も警戒していなかったので、そうしました。すると、2010年10月26日に、福屋書店が閉店になったのです。
そのときにある意味でぞっとしました。別の方のブログで、銀座での、書店閉店画続くことを嘆いておられるブログがあって、旭屋書店や、イエナ書店の閉鎖を嘆くとともに、福屋書店の閉鎖も嘆いておられて、その文章の中に、上の「芸能プロダクション社長の経営であるとか、経営は順調だったはずなのに、特色ある書店がまた無くなった」と書いてありました。その文章の中で、イエナ書店の閉鎖は、その著者が言うとおり、経営が当時難しかったと推察されます。
旭屋書店は、ニューヨークグランドセントラルそばにある支店で、よく、日本の女性雑誌・・・・・特に星占いの部分・・・・を立ち読みさせてもらって、ひと時の息抜きをしたので、その経営姿勢は好きですから、銀座から撤退してしまったのは、私も残念に思います。しかし、福屋書店の閉鎖は、経営状態とはまったく関係が無く、私と関係が有ると推察しています。
そのことを、本当は書きたくないのです。というのも、そういう話は一般の人には、よくわからない話となり、この文章が面白くないと思われるでしょうから。
それに私も、自分への攻撃を、相当に抑えられるようになってきています。だから、過去の攻撃は闇に葬って、そのまま、何も書かないでもいいのですが、でも、思い出したので、ここで、それを書きましょう。
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副題3、『私は本を独学で、しかも、自分ひとりで、出版できる。それゆえに、激しく警戒をされ、攻撃をされる』
私が最初の本、『主婦が個展をする。しかもニューヨークで』を出したのは、2003年の初夏です。これは、タイトルだけ見ると、まるでノウハウ本ですが、中身は違っていて、いわゆる、哲学とか心理学系統の問題を、きわめて易しい文体で書いたものであって、しかも、装丁が美しく、かつ上製本だったので、周りを驚嘆させました。
だって、私は、出版社に勤務したこともないし、印刷所に勤務したこともないし、美大でデザイン・・・・(特にパソコンを使った制作と呼ばれる本作り・・・・の一切)を学んだことも無いからです。パソコンだって、当時は、インターネットはAOLの独自なシステムを使うのみで、インターネットエクスプローラーも使えないし、MSNなどもちんぷんかんぷんで、主に使うのは、マイクロソフトワードとアドビフォトショップぐらいでした。後に、アドビイラストレーターを駆使することになるのですが、一冊目の本は、ワードの頁設定だけで、作ったようなものです。できないところ≪=表紙の装丁、後にアドビイラストレーターをマスターしたので、自分ひとりでもそれができるようになるが)はデザインのプロにお願いをしました。
なぜ、そこまで、がんばったのかというと、伊藤玄二郎氏が社長をしている、鎌倉春秋社で、ひどい侮辱を受けたからです。そこは、私費出版で有名であり、それで、生きているといってもよいくらいの会社なのですが、高いという評判はありました。
だが、1998年のパリ修行時代から、大量に、文章も書き始めた私は、生涯に10冊は書物を出したいと思っていましたので、一冊に、300万円もかけるつもりは無く、「自分で、すべての作業をいたしますので、印刷製本の費用≪50万円≫と、鎌倉春秋社の看板を借りることと、それから、ISBN番号やらバーコードを借りることに、≪100万円≫を使うとして、150万円を出しますので、この本を作っていただけますか?と、問い合わせたら、
その会社のナンバーツーである田中愛子さんが、「川崎さん、150万しか出さないのなら、50部しか作れませんよ」と怒鳴ったのです。すごい勢いで。ものすごい剣幕で。上の節で、≪≫がっこ内に入っている金額は音には出さなかったのです。最後の150万円だけです。
この後で、伊藤玄二郎と言う車掌に関する政治的な側面を初稿では1300字ほど書いているのですが、そのエピソードをほかのところへ使うので、ここからいったん削除をさせていただきました。
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副題4、『出版社の編集員って、ものすごく威張っていますが、それもまた、言論弾圧に役立つのでしょう』
上の例で、わかるように、伊藤玄二郎が国際的軍産共同体の権力をかさに来た、昔の言葉で言うと犬、スパイ、であり、現在の言葉で言うと、エージェントであるとすると、すべてが納得がいくこととなるのですが、
ただ、彼が、ビジネス上の、家来(=社員)である田中愛子さんに、自分の真実の顔(=政治的な裏側≫まで、明かしていたかどうかは疑問です。ただ、もし、そこまで、知らされていたから、顧客であって、お金を払う側の私に対して、あれほどの、失礼な態度を取ったのも、わかりますが、でも、秘密中の火見るでもあろう、エージェントであることをもし、彼女にも理解させていたとしたら、すっごく下半身がゆるい人だなあと思います。
でね、関東学院の教授でも有るし、ポルトガル国の勲章ももらっている人ですから、『まさか、ベッドインして教えたわけでもないでしょう』と、推察して、田中愛子さん自身が、特別に威張りやさんなのだと思うことに、致しましょう。どうしてそれほど、威張っているかというと、そういう風に威張ることによって、本の出版は、難しいことであって、素人には手が出せないことだと思わせて、私費出版に関して高い手数料をとるという目的があったとも思われます。
でもね、銀座で、画廊めぐりをしている期間が長い私にとって、種々さまざまな本を、著者から直接に買うケースは多くて、そういう経験を経て、知り合いが出版社か、印刷所にいて、儲けを抜いて作ってもらえたら、100万円で、一種類の本を、2000部、作ることができるのを知っているのです。田中愛子さんに対しては、「一切の手間はおかけいたしません。すべてこちらで致します。そして500部で結構です」といっているのですから、
確実に、100万円の儲けがそちら様に出るはずで、簡単にできるはずなのですが、ただ単に、その予算では、当社はお引き受けできません」と、穏やかに、いうのではなくて、怒鳴るといってよいほどの剣幕で、他人を侮辱できたのは、特別に自分がえらいと思っているからでしょう。それ以前から、いろいろ問い合わせる際に、出版社の編集員って、威張っているなあと思うことが多かったのですが、この田中愛子さんのケースで、決定的にそれを感じ、『うー無。彼ら、彼女らが威張っているのは、特殊な技術を持っているとか、入社試験が難しいというだけではないな』と、気が付いてくるようになるのです。
言論弾圧をするためには、著者、特に新しく、出版界にデビューをする人間を、びびらせまくっていた方が、楽に弾圧が、できるからです。そのころの私の本というか、その後でも、私が既に出版をした本には、政治的な言論は一切入っていませんが、知人、友人、やら、瀬島龍三自身が、私が極めて頭がいいことを知っていて、いずれ、政治的なものを書くだろうと思われていて、それは、ブレイクすればするほど、そうなるだろうと推察されているので、言論弾圧をされていたのでしょう。
そう思うと、私より、15歳以上は若い女性、しかも鎌倉で仕事をしてる女性であって、しかも営業上は、こちらがお金を払う側であって顧客なのですから、もっと、親切で、丁寧でないといけない田中愛子さんが、怒鳴りまくったのも、納得ができるのでした。
で、私はこのすさまじい侮辱を受けたからこそ、なにくそっと、発奮をして、自分で、本が作れるようになってしまったのです。二冊目から表紙も自分で作り始め、六冊目など、ほとんど、市販の本と同じ体裁の並装本で、作りあげました。
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副題5、『川島さんが、あなたなんか、怒る価値もないといい放ち、そこから、私がエッセイ・・・・・かえるが銀座を歩いてもだめなんだよ・・・・・を物したのもこのころだったが』
最初はパソコンに異常が見られるという形で弾圧に気が付いたのです。それもまた、語るも涙という調子だったのです。ところが、パソコンの異常に気が付いて、数ヶ月が経つうちに、今度は、人間が使われるようになりました。人間が弾丸として襲ってくるようになったのです。
これから語る川島さんという女性は、有名画廊の村松のオーナーだった人ですが、同じく有名画廊のオーナー山口(みつ)子さんが急死された後で、読売新聞内の記者のインタビューに答えるという感じで、(みつ)子さんが、自殺らしいとにおわせた女性です。私は絶対に他殺だと信じています。ただ、独身であって、お子さんとか、ご主人がいないので、これは、他殺ですと、かばってあげる人がいなかったのでお気の毒でした。
でも、川島さんのやり方は、断じて許せないので、ここに、川島さんと私とのエピソードを実名でさらしますが、彼女が、画廊の入り口でがんばって、入れるのを阻止する気配があるので、「あなた、何か、私に対して怒っていらっしゃるの?」と聞いたのです。
これはね。ある意味で、間接的に、私が、敵の存在をわかっていますよと、語っているのです。つまり、画廊に人を入れないなんておかしい話です。ところが、当時の私は活発に一種の新しい形の美術評論をメルマガでやっていて、それの受けがよかったので、大急ぎで、弾圧して、ブレイクしないようにしないといけないと考えた、敵様連中が、酒井忠康氏、または、間に別の人を挟んで、川島さんに、『彼女≪私のこと≫を画廊に入れるな』と命令をしたのでしょう。で、入れないように入り口で通せんぼをしていたわけです。
しかし、「酒井さんから何か、私に関して、言われていますか?」と聞いても、正直に、「イエス」と、彼女が白状してくれるわけは無いので、ちょっとひねった質問をしたわけです。入り口でがんばって入れないようにするのは、何か、怒っているケースも有るはずです。そうしたら、それは、効いて誤ればいいでしょう。で、そういう風に、質問を変えてみたのです。すると、彼女は図星だったので、激怒したのでした。
つまり、私がひねった質問をした目的がすぐわかったのです。こちらが、より余裕を持って、彼女を私の手のひらに乗せて、会話を交わしているから、それが、わかったので、自分の方が上よと、言いたかったのでしょう。「あなたなんか、怒る価値も無い」と言い放ったのです。目を吊り上げて。
今の私だったら、余裕があるから、『ああら、嫌だ。川島さん、わかっているわよ。酒井さんに命令されているんでしょう』と、この時点で、本音で語ればいいのです。川島さんは、すでに、パニックに陥っているから、今度は、その言葉に、お芝居ができず、顔の表情だけで、真実を語ってしまうと思いますよ。しかし、これは、6年か、7年ぐらい前の話で、私が実名で酒井忠康さんのことをまだ書いていないころだったので、したがって、裏がわかっていますよということに関しては、何の説明もできず、ただ、追い払われるまま帰宅したのでした。
でもね、私は大変強い人なので、京橋の村松画廊での嫌な体験の後でも、なお、一時間以上をかけて、今度は有楽町側の画廊めぐりをしたのですよ。それもとても丁寧にです。しかし、さすがに新橋までたどり着くと、疲労がどっと出てきて、主人に電話をかけたのです。「かくかくしかじかだから、自宅へ帰りたくない。アトリエによって、一仕事をして帰るから、驚かないでね。もしかしたらアトリエで寝ちゃうかもしれない」と。
こういう言い草をするのは、鎌倉の家は、徒歩13分の後に、130段の石段を上がらないといけないからです。それにね、主婦って、従の立場であり、かつ、引き受けて相手を甘やかす方の立場なので、ぎりぎり限界いっぱいだと、勤められないのです。
その上、創作が命の人間にとっては、文章でも絵でもいいから、1時間か、2時間創作をして、ある種の達成感を味わうと、すっきりして、心身が回復をするのです。最近の私の文章は思い出すことが多くて、だらだらと、続いてしまうので、達成感が無いのですが、そのころは一本を3000字以内に抑えていましたし、現在のような題材では、ものを書かなかったので、本当にすっきりとするのでした。
ところが主人は「だめだよ。帰って来なくっちゃあ」というので、私が抵抗すると、『蛙が銀座を歩いてもだめなんだよ』というのです。私は思わず、笑い転げちゃって、自宅へ帰りました。
つまり、『世の中には、つらいことがあるよ。だけど、さっさと、そういうものなんだと、諦らめて、しまえ。そうしないとだめなんだ』という内容を、ジョークでたとえるのです。私は自分ではジョークを作ることができないのですが、理解するのは、すばやくて、私達はそういう意味では、でこぼこコンビがうまくいっているほうでしょう。つまり、二人が夫婦であるということは、陰と陽で、反対なのが、うまくいくコツだとすれば、ことジョークに関しては、ピッチャーとキャッチャーの役目を果たしているわけです。
でも、ここに書いてあることは、貴重な真実だと思いますよ。今パソコンがごたごたして、4000字分ぐらい消えたから、そう確信をします。真実を書くときほど、敵は攻撃をしてきます。私が以前書いた文章をほとんど記憶をしている人間がいて、川島女史と入力するだけで、待ち構えて妨害してやろうとしていて、ほとんど、文章が終わった時点で、妨害をしてきました。
でもね、何が起きても、私が、今、こんなに明るいのは、川島女史の画廊閉鎖後の私生活と、私の今の私生活を比べると、いわゆる幸せという意味で、ずっと、私の方が芳醇な生活をしているだろうと言う確信があるからです。そういうところが、いわゆる天の恵みというやつです。
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副題6、『2010年は、総攻撃を受けた年だった。・・・・・吉乃翔のモズクの酢の物』
過去分を探ってみないと、どれがいつ起きたかが判らないのですが、ともかくにして、この2010年ごろほど、敵の攻撃が、すさまじかった年はありません。
1月に同窓会(同期だけのいわゆるクラス会)が開かれたのですが、その場を利用して、榊原節子さんのPHPから出版された『凜として生きる』を、対抗馬としてぶつけられてきて、しかも、私の新刊本の入っている紙袋の中に、モズクの酢の物が入れられていたのでした。
たまたま、大き目の紙袋の中に、小さめの紙袋を二重に入れていましたので、本そのものは汚れなかったのです。こういうところが、神様のご援助と、常に言うところです。敵さんのもくろみは半分は失敗しました。だが、私自身が、電車の中で、そのぬるっとした手触りに驚いて、中を点検し、いろいろ、考え込んだことは確かであって、その考え込むことが、打撃だといえば、彼らの狙いは、100%成功したといえましょう。
その日、紙袋を置いていた位置を考えると、このモズクの酢の物がここへ入ったのは、偶然ではなくて、意図的な策略だとわかるのです。このエピソードは何度も書いているので、前よりも踏み込んで書きますと、その日、同期生のご主人として、ドイツ人紳士が参加していたのです。1960年代に、日本の上流階級のお嬢様と結婚をした外国の男性で、インテリ階級の男性は、いわゆるその筋の人である可能性は強くて、このケースもその男性がやったと見るのが一番、正解に近いと思います。
ただね、この会を企画して運営したのが、古村浩三君です。その一年後のフェイスブック内で、激しいIT的な攻撃を受け、それに、古村君が、関与している可能性を知覚しました。また、古村君の後ろに、石塚雅彦さんが、いることもフェイスブックをやっている最中にわかったことです。普通の場合、古村君は、新宿で、開く習慣になっていますが、そのときだけ、銀座(有楽町)で、行われたのは、『お前に、ぜひ参加してもらいたい』という意図があったと思われます。その後で、2012年初夏にも、国際基督教大学設立、50周年記念、学長同窓会が、三鷹のキャンパスで、開かれたのですが、それも、本当は、違う年が、卒業後50周年なので、とてもおかしなケースでした。
こういう風に同期生やら、同窓会を利用してくる、敵さんたちの心構えの汚さには圧倒される思いがあります。だって、彼らはこういう風に考えているわけでしょう。『お前の武器は書く事だけだ。だが、同級生について書いてみろよ。お前は胴機械からも、同窓会からも排除されるぜ。それがわからないほどの馬鹿か?』と、言われているわけです。
だが、ここまで、重層的にやられると、やはり、それは、戦わないとだめですねとなりますね。
副題7、『井上ひさしが、自分を死んだことにした週の、彼の企画したわなとしての個展』
ここで、次に、4月5日の個展がやってきます。この個展ですが、自分で企画をしたものではなくて、画廊側から提案をされました。私はわなだとわかっていましたが、画廊の方から個展を提案されるのは、画家にとっては、とてもいいことなので、断りきれなくて、引き受けました。
ところが、最初は、3月のはずですが、どうしてか、4月5日に延期をされました。それは、攻撃をさらに強めるために、時間的余裕が必要だった見たいで、その同じ週に、山本容子さんの個展がぶつけられました。『そちらは、新聞やらテレビで大宣伝をするので、大量のお客が来るが、お前の方は来ないはずだ』という形で、悲しませようとしていたのです。
個展って、画家にとっては、とても準備に忙しいので、そのころは、新聞やテレビを一切見ないでいて、その山本容子さんの個展が、事前に、どれほど、話題になったかは知りませんでした。ところが、3日の土曜日に、私は、北鎌倉から、藤沢に向かう途中で、電車がとまり、1時間半も缶詰になってしまいました。戸塚の踏み切りで、事故が起きたとのことです。それは自分の作品の飾り付けにおいて、画廊に迷惑をかけることなので、私が、無責任な悪人となります。だから、その時点以降に、銀座で悪口を言われても仕方がないとなります。
『おー、やられたな』と、感じるところがありました。事故が起きたという踏切を通っても、事故が起きたという雰囲気がないのです。花が手向けられたり、関係者が、来ていたりする雰囲気がまるで無いので、『ああ、また嘘の事故が起こされて、私が、いじめられたのですね』と、思い当たります。
その上、これは、おかしいと思った最大のポイントは、銀座の画廊のオーナーが誰も見に来なかったり、ある人が、一人目としてきたら、オーナーが追い返したのです。その人より前に、一番最初に来た人は、始まる前の週に来て、『あれ間違えちゃいましたね』と、言ったのですが、その際に、既に、裏側で、異常なことが起きていると、はっきり悟っていました。
あなたね。馬鹿じゃあない限り、会期など、画廊のオーナーは間違えません。だから、会期前に訪問をしてきた画廊のオーナーですが、これは見事な義理立てでした。私がその人の悪口を書けないということになる、見事な行動でした。でも、本当に親切なら、会期中に来るはずですね。でも、二度目は無かったのです。
私はこれがわなだとわかっていたので、自分からは、案内状を出しませんでした。で、画廊固有のお客さんが来ただけなのですが、画廊固有のお客さんとして、他画廊のオーナーが含まれており、それらの人材は、私に対する知遇や義理もあるので、その人たちだけは、来るはずでした。だが、来ない。そういう風に画廊をめぐって、行かないようにといった人間のひとりは、平野和子さんだった可能性は大きいです。
それらを、全部含めて、ひどい個展でした。ひどいいじめです。その上、お金を無駄遣いさせるものでした。(笑) お金を無駄遣いさせられると、本作りができませんね。だから、伊藤玄二郎を助けるために、井上ひさしが、一肌脱いだということでもあったでしょう。
そのわなに、当時、奥さんが亡くなって、男やもめだったので、毎晩、画廊で、パーティ様式で、お酒を飲み歓談をしていた画廊のオーナー森さんが、加担をしたのですから、これは、ひどい裏切りでした。だって、森さんの画廊って、新橋の最後にあるので、私もその夕飯用パーティに、時々は、参加させてもらっていて、時々はワインや、おかず等を差し入れしていました。で、森さんのところにも、盗聴器等が仕掛けられていて、森さんが、釣り上げられ、悪利用をされたのだと思います。
ひどい話です。これほど、私がいじめられるのは瀬島龍三が、北久里浜の岡の上に在る、水道山をただ取りした一種の泥棒・・・・・・だが、知的詐欺の一種で、書類上は整っているので、刑事事件として訴追はできないが・・・・・・横須賀市には一切のお金を支払わないで、広大な土地を手に入れ、旧名をソラヒルズという大マンション群を建てた・・・・・を、私が知っていることから始まっているので、銀座の画廊のオーナーが、これほど、大量に敵方に利用をされる仕組みはあく、も、あく、最大の悪の実行なのです。
だから、その悪の側に立って、心理的に、いじめ抜くための企画をした井上ひさしが、ばれたと、知ったとたんに、私の文章による責任追及を逃れるために、自らを死んだことにしたのは、ありえることでした。
だって、彼の鎌倉佐助にある自宅から、どの病院に向かうにしても、歩いて、30分以上はかかります。娘の麻矢さんが、『父は肺がんであって、最終段階は、歩いて、病院に通っていました』と発表をしていますが、あの高さから、降りるのは、ともかくとして、昇るのは、瀕死の病人には無理です。こういうすべては嘘ですが、それが通ると思っていて、今もなお、自分で、企画をして、売り込み、えらそうに振舞っています。この8日の朝、NHKが市村正親の演劇公演、『ブンとフン』の宣伝をしてあげていましたが、その画面に、市村さんと同じ大きさで、井上ひさしの写真が乗っていました。
これは、鎌倉市役所でも同じ現象を見るし、横浜駅構内でも、神奈川県立文学館の井上ひさし展をきっかけにして、大量に張られたものでした。そういう大宣伝を、ご本人が、企画をしているとしたら、皆様も彼のあくどさに、ご理解が、軽く、及ぶでしょう。
それらを、すべて既に、見破っていますよ」というサインを、伊藤玄二郎のところ(=鎌倉春秋社)へ『個展に、来て、くださいませね』と、言いに行くことで、7日に知らせたので、・・・・・二人は二人羽織というほど、私への攻撃という意味で、提携していますので、急遽、・・・・・二日後の、2010年の4月9日に、井上ひさしは、自分が死んだということにしたのでした。
『死者に鞭打つという行動は、上品な日本人は嫌うはずだ。これから、私のことをブログで書けば、お前のブログから読者が離れるだろう』という目論見の元に、井上ひさしは、自分を、死んだことにしたのでしょう。
ここで、3,11人工生起説についても言及しないといけません。私はどちらとも、いえないと考えていますが、もし、人工・生起・説が正しいのなら、原初の企画をしたのは、自らを死んだことにしている井上ひさしでしょう。そして、皆さんが、困窮した後で、最初の日経新聞の広告が新潮社のものであって、かつ、井上ひさしの著作だったことは、明記、または、銘記しておかないといけません。そして、その後も、鎌倉雪ノ下は、節電対策用停電が、2時間以上かける、6回は、行われたのです。
狛江でも、文京区でも、一回も無かったそうです。今でも、福島抜きの、同じ量の発電の段階ですが、東京もぜんぜん停電がないでしょう。もし、ここで、近々に、停電が、おきたら、それこそ、井上ひさしが生きている証拠となります。
以下は、起きた現象を副題だけとして、書き連ねます。遠い将来、そこにディテールを埋めておきます。
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これから、先は新しい章へ移動しました。
推敲が終わったら、署名を入れます。 最初のアップ時刻は、9日の23時ごろ、次に、11日の10時半に、再アップする。場所が動くが・・・・・
なお、このブログの、2010年よりの伸べ訪問回数は、1833161です。