この一文は、最初の総タイトルを【お茶大付属高校の校舎が、<あの夏 60年目の恋文>に浮かんだので、私は、種々の感慨に今ふけっている。ヤマザキマリ、角野栄子】としておりました。しかし、9日の午前11時に別のものへと変え、さらに、午後一時半に、上のものと変更しています。
なお、これは、メモとして、置いておく必要があるが、その、再放送=プレミアムカフェ、恋文特集に登場した解説者は、森川友義、早稲田大学教授である
最初に写真を置くのを常としております。以下は、2021年1月6日の午前九時から、BSPで、放映をされた、番組、【あの夏、60年目の恋文】の、最終画面、です。
相当に、評判の高かった番組らしくて、2006年に最初の放映があったのちに、何度も、再放送をされています。
左側に白抜きのフォントで、撮影協力とあり、その一行目に、お茶の水女子大学とあり、その二行目に、お茶の水女子大学付属高等学校とあります。この番組は、実話で、舞台は、実際には、奈良女子大の、教育実習生と、当時、小学校4年の男子組での話らしいです。しかし、汐子先生のお孫さん(?)がお茶の水女子大で、教育実習をした(?)ことにしてもいて(それは、実話かどうかは、わからないが)撮影の舞台として、東京文京区にある、お茶大付属高校が、使用されています。窓の外の背景としてイチョウの若葉が浮かび、黒板側の入り口ドアに、丸いガラスが、はまっている映像を、途中で、見ただけで、主人に向かって、「あれ、これ、私が卒業した高校を使っているわ」と、いったほどでした。最終テロップを見ないでも、それが、わかりました。
私は、それを録画しようとして、レコーダーに、命令をかけていません。しかも番組そのものは、最後の15分間しか録画されていません。だから、この録画は、ひとえに私狙いなのです。
もう一つ、きわめて、重要な証拠があります。この番組は、汐子先生という実在の、教育実習生(戦前の、奈良女子大に学んでいた女子学生・・・・・その19歳から、82歳まで)が、主役の一人を占めている、実話ドキュメンタリーらしいのですが、もう一人の主役は、BSプレミアムを、現在、司会している渡辺あゆみアナです。「らしいのです」というのも、原作は、1時間45分らしいのですが、たった26分しか録画をされていなかったので、冒頭部分が、わからないからです。26分のうち、元番組は、最後の部分、15分だけで、残りの9分は、渡辺あゆみアナと、早稲田大学の教授の某氏の、恋愛論に入っています。ので、番組そのものの詳細は、私には、わかっていないと、いうのが現況です。しかし、二人の恋愛談義もまた、対私のblogつぶしを、狙っていました。それは、後半(または、別章)で、詳細に語ります。
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副題1、『NHK BSプレミアムで、2つの、教養番組を担当している渡辺あゆみアナは、私と同時期、同じ中学校で、教育実習をしている女性である。それを、刺激する役目も、あった、再放送だと、推察している』
冒頭の部分で、早稲田大学の某教授を相手に、NHKアナの、渡辺あゆみさんが、何を言ったかが、録画をされていなかったのですが、そこを、想像するに、「私も、教生(教育実習を行う、先生の卵)だったことがあるのです」と、発言をしている可能性が高いのです。したがって、全部が、録画をされてはいなかったと、見ています。
1978年秋、当時東大生でもあり、菊名(東横線と、横浜線が、交差する駅)に所在する牧師館のお嬢様だった、久能木あゆみさんは、横浜国立大学、付属、横浜中学校で、教生(教育実習生)をしていました。先生の卵となる為です。彼女は、実際には付属鎌倉中学校(旧男子師範・附属)の卒業ですが、旧女子師範学校附属の、本牧立野の丘に当時はあった、横浜校へ、実習に来ていたのでした。付属鎌倉中学校そのものは、今は、弘明寺の、旧・経済学部=旧・高等商業の跡地へ移転をしています。
英語科担当は、久能木さんと、私だけでした。私は、当時すでに、36歳でしたが、教育実習を同じ中学校で、行っていたのです。で、この番組、【あの夏、60年目の恋文】を、放映することが、私への弾圧に役立つと、敵さん連中は、考えているわけです。
サブリミナル効果として、隠されているが、裏の真実は、こうであったという部分を、ここで、詳細に、語ったら、即座に、システム異常を利用して、全文が消えました。したがって、非常に重要だと、考えますから、2,3行ずつ、頭の中から、復元していきましょう。
2004年から、2007年のどこかで、私はNHKに電話をかけて、あゆみさんを呼び出しています。すると、瞬間的に出てくれました。当時渡辺あゆみアナは国際部に所属であって、普通の番組には、出演していませんでした。それもあって、時間に融通が効いたせいか、すぐ、ご本人にまで、通じて、「自著を送りたいのだけれど、私を覚えていますか?」というと、「覚えていますよ」と快活に答えてくれて、私は、たぶん二冊目の自著『れすとらん・れしなんて』を送ったのだったでしょう。
しかし、2021年の今では、15年以上が過ぎていて、あゆみさんは、表舞台で、大活躍です。それは、喜ばしいことです。で、もしですが、昔と、同じ様な気持ちで、NHKに電話をかけたと、仮定します。あゆみさんに六冊目の自著『おばさん、お釣りを忘れているよ』を送りたいと思ってね。そのきっかけとして、上記の番組への感想を使うと仮定します。
すると、事前にあゆみさんには、鎌倉エージェントからの、手配が入っていて、・・・・・絶対に、雨宮舜=本名、川崎千恵子には、対応をするな・・・・・と、なっているでしょう。10時から、4時までの、ビジネスアワーにかけたとしても、彼女は、電話に対応しないはずです。表向きの理由としては総合案内嬢が、「今、渡辺あゆみは、収録中で、ご対応ができません」とか、「今、外出中です。外の、現場に、取材に行っています」と言うでしょう。それが、本当の理由かもしれないし、嘘かもしれません。私が今感じていることは、・・・・・NHKの総合案内が、何を言っても、それは、嘘であり、何度電話をかけても、あゆみさんは、もう二度と電話口には、出ない・・・・・と、いう場面です。それでも、一筋の期待をかけて、もし実際に、それを、トライしたら、私は、きわめて、いやな思いと、悲哀にとらわれるでしょう。そして、それが、狙いで、この再放送が、6日に行われたと、見ています。つまり、伊藤玄二郎と、井上ひさし(まだ、実際には、生きていますよ)は、今井さんを通じてか、NHK番組の編成を、支配していて、ここでは、あゆみさんに、拒否された私が、うつ病に入る、道程に、拍車がかかるはずだと、推察されているでしょう。
ということを書いたら、消えたのです。したがって、これは、真実です。
私の方は、1960年代の、国際基督教大学って、在学中は、教育実習を取りにくい仕組みがあって、それで、36歳にもなっていた、その年に、京急北久里浜駅から、中央線三鷹駅まで、まず行き、そこから、バス(当時は、そういう便だった)で、三鷹市大沢の、国際キリスト教大学へ学士入学して、英語教師の資格を取ろうとしていたのでした。
そういう計画を、当時の、北久里浜の我が家へ、盗聴を仕掛けてきていた、益山重夫(・元・海軍参謀)と、その親友である、瀬島隆三(・元・陸軍参謀にして、戦後伊藤忠の総帥となり、最大級のCIAエージェントだった)は、知り、実質的には大詐欺事件である、地積変更届を、実行しました。今、ルネ北久里浜と、いう美麗なマンションが建っている敷地は、元、横須賀市の水道山であって、それをタダで一味は、取得したのでした。ここは、少年A【絶歌】という書物で、書店の平台を独占した青年、中学時代に、障害があった土師淳君の首を切り落とし、校門の上に置き、首から下の遺体を、神戸市の水道山に捨てました。
ここから先、莫大な、エピソードが、積み重なってきて、このブログの世界をにぎわわすのですが、・・・・・ここで、ふと、という感じで、あゆみアナが、湘南高校卒だということを思い出しました。
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副題2、『現在の、警察庁長官、松本光弘氏も、湘南高校卒である。それで渡辺あゆみアナと松本氏に、知遇があるかどうかを考えた。結論として、当然あると、考える。二人は、4歳の年の差で、ともに、一般人に、その顔や、略歴を知らせる立場にある有名人だ。しかも、東大卒という側面でも、共通項がある。
湘南高校の、同窓会(全体総会)が、いつどこで、開かれているかは知らないが、卒業生が、エリート集団を形成しているので、横浜山下町の、ホテルニューグランドか、東京日比谷の、帝国ホテルだと、推察する。司会者は、最近、20年間は、渡辺あゆみアナで、その司会で、その年度で、優秀な業績を上げている卒業生と、同窓会役員が壇上スピーチを行って、それに一時間程度を使い、その後、立食、もしくは着席で、歓談をして、次の場所(二次会)に移動をする形式だと思われる。
この高校の閥というのが、結構、大きな力を持っていることは、山尾志桜里衆議院議員と、神津里季生連合会長の、結びつきで気が付いた。二人は、学芸大学付属、世田谷高校の、同窓生だ。そして、山尾志桜里は、元芸能人でもある。それで、二人の間には、相当に、隠微な部分も含めて、深い結びつきがあると、考えてきた。
渡辺まゆみアナと、松村光弘警察庁長官の、二人の間に、山尾志桜里と、神津氏の間にある様なものは、感じていない。しかし、松本警察庁長官の経歴を、本日、21-1-9に、詳細に、検討していて、死が、ハーヴァード大学留学済だったり、
2014年に神奈川県警本部長だったりしていたことを知って、本日は、二つのことを考え始めた。
一つは、渡辺あゆみアナとの、親交の再開は、無いと、いうこと。
もう一つは、美形の松村氏が、そのトップとして、行った、裏稼業・パフォーマンスの、その淫靡さと、滑稽さへの、透視が、済んだということ。
ところで、山下町の、大タワービル(神奈川県警本部ビル)内で、氏が、その総帥として、行ったことでメルクマール的なことは、6月4日、6月9日、6月13日が、特に目立つ、ことだった。その三日に、実行された謀略は、新聞記事になるほどのものではないが、私にとっては、きついもので、被害は大きい。しかし、その裏側を、分析して、このブログに書くことによって、私は、相当に、高いセンチメートルで、ステップアップをしたのだった。それを、これから、再考しつつ皆様に、開示していきたい。
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副題3、『2011年5月から、2014年、6月4日まで、私にまとわりついてきた、ファンを名乗る、女性がいる。彼女は、安藤てる子と言って、私と同じ敵からの、被害者でもあると名乗った。しかし、安藤てる子さんが、しゃべったことは、すべて、嘘だったと、今では、断言できる。私は、それを潜在意識の中では、ずっと、悟っていたのにもかかわらず、なかなか、外部へは、表現ができないでいた。で、私のことは、敵さんたちからは、相当に、だましやすいと、みなされていたと、思う。
だけど、今なら、はっきりと言える。半信半疑で常に、彼女が、自分をだましているとも考えながら、それでも彼女を支援していたのだと、言おう。そこが、なんとも滑稽なのだが?!?!?
そういう謀略のすべては、鎌倉エージェント(=伊藤玄二郎と、いまだ、いきて地下潜航をしているいのうえひさしが、企画をしたものだろうが、実行者は、すべて、警察庁からお給料をもらっている存在で、一種の警察官だと、思う。ブルーカラーとしての、殺人実行集団だけれど。
・・・・・てる子さんが、自称をするところによると、#######元丸の内のOLで、頭がいいので、大卒ではないけれど、国家資格をいくつも取っていて、公認会計士か、司法書士のもとで働いていた。自分は、一回結婚をしていて、息子が一人いるが、離婚をしている。しかし、能力が高いので、事務所の所長は、時間に制限をかけないで、働かせてくれるので、こどものPTA活動などは、十分に行うことができて、最近(=10年前の2010年ごろの事)では、月50万円は、稼いでいる。しかし、突然に、パソコンに異常が起きて、仕事ができなくなり、それで、無収入になって、今は、困窮している######と、いう話だった。私は彼女を外で、四回ぐらいもてなしたし、自宅へも、3回ぐらいお招きをして、ごちそうをしている。
この間、テレビで、商品、例えば、洋服などを処分する際に、手塩にかけて、刺繍を加えたりしたものは、買ったお値段以上の価値があるので、なかなか、捨てられないものだと、いう話が出た。
安藤てる子さんは、人間だから、洋服とは違うが、手塩にかけた相手だから、縁を切りにくいという点が、似ていた。彼女とは、大原光孝さんも同じだ。後者は、貧乏だった時期(蛇足1へ)を知っているので、果物などを無記名で、置いておくことが、相当期間、続いた。実は、かれは、裏から、国家予算を月給として、もらって、我が家の合いかぎも持っていて、弾圧し、脅かす行為を続けている悪人なのに、なかなか、悪人だと、いう範疇に彼を入れることができなかった。
(蛇足1
私は、『自分がわかっていることは他人も、わかっているだろう。昔書いているし』と、よく、考えてしまいます。でも、読者の皆様が、私が昔書いた事を全部覚えていらっしゃるとも限らないので、もう一回書き表すと、
私には、夫と別居した期間が二年強あります。海外修行をするために、それを許さない家族から逃げて、自由を獲得する為に、逗子にアトリエを作って、そこで、寝泊まりした時期の事です。1999年の一月から、2001年の九月までです。
そこでの、海外へ、行かない時期の12月から、1月を経由して八月までの、九か月の、激しい修業が、今日のブロガーとしての、質を確保させたのですから、『あれは、絶対に、必要なことだった』と自分では考えており、何もやましいところはありません。家族と一緒の中で、専業主婦が脱皮をして、真のプロフェッショナルになるのは、難しいことです。単純に「偏差値の高い大学を出ました」と、いうだけで、ライターとしての、高い質を確保することなんか難しいのです。引きこもりをうまく使えば、昔の仙人の修行ではないが、本当に一皮むけるのですよ。
でも、その前後でした。偶然、こちら、雪ノ下の、山の中で出会った彼、大原光孝さんが、「みんなが、川崎さんが、離婚をするよって、噂をしているよ」っていうんですよ。あまりにばからしくて、何も言い返しません。で、彼は、単純に勝ったと、思いこむらしいのです。でも、私は内心で怒っていますから、彼の奥様が家出をしてしまったことを、ここにも、また、以前にも、彼が異様なことをしてくるたびに、はっきりと書くのです。すでに、10年以上の長きにわたって家出をしています。」
その奥さまですが、病院を経営している一族の出自の人なので、お金持ちです。遺産もあれば、現在も兄弟か、親戚の経営する病院や、老人ホームなどの役員待遇を受けているでしょうから。それは、大学卒業以来、一度も、宮仕えをしたことのないので、厚生年金が入らない彼にとっては、大きいことのはずでした。
でも、奥さんからの、食費を渡されることと、養母さんから、お小遣いをもらうことで、紳士づらができていました。私は町内会費を取りに行ったときに、足がすでに、不自由な養母さんが、奥から、勝手口まで、ぎりぎりの歩行で、町内会費(これが、月に、千円で、皆さん、一年分をまとめて払うので、結構高い金額となるが)を、持ってこられた時に、その金額でも、みつたかさんに渡すと、行方不明になると、養母さんが、考えていることがわかり、光孝さんが、どれほどに、窮乏をしているかがわかり、彼から、数々の嫌なことをされているのにもかかわらず、そっと、門内に果物を置いておくと、いう態勢を取りました。
しかし、そのころから、どうも、国家の官房機密費等を使って、彼に月給が出る様になったと推察しています。何に対する報酬かというと、私への嫌がらせを大量にかつ頻繁に行うことへの報酬です。
さて、一般の日本人というのは、ほかの人の状態に、それほど、関心がないし、お年玉以外に、は、他人に金銭を上げるという習慣がありません。しかし、私は、ニューヨークでアーチスト専業の人たちが、どれほどに貧乏なのかを知ってしまって、そこから、ぎりぎりの生活というものが、どういうものかを知りました。
で、自分と縁を結んだ人が、ぎりぎりの生活をしていると知ると、どうしても落ち着かないのです。それが、ここでいう腐れ縁というもので、これからは、安藤てる子さんとの、腐れ縁について、語るのをはじめましょう。その前に、もう一つの説明不足を補っておきたいです。なぜ、私が瓜南直子さんを、切る決意をした、彼女と、金田佑子さんとの、豊島屋の源平巻きを使った、ジョークのどこがいけないのかを、語っていないからです。単純に「淫靡すぎる」と書いただけでは、説明不足でした。
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副題4、『誰かとの、交流を絶ちたいと、思うとき、相手の方が、上位であると、簡単に別離できるものだ。相手が、自分を大切には、思っていないと、知るときに、こっちが去っても、相手には、痛くも、かゆくもないのだから。これはまさしく、瓜南直子さんを、私が捨てたケースに当たる。ところで、そのきっかけは金田佑子さんと、直子さんが、豊島屋の源平巻きを話題にして、隠微な、ジョークを交換していたからと、書いているが、
その裏には安藤孝春警察庁長官がいるからだった。無論の事、実際に、伊藤玄二郎に、それを命令した人間は、もっと下位の、勤務者だろうと、思うが、伊藤玄二郎は、瓜南直子さんへ「金田佑子さんに言うことを聞かせる様に、動きなさい」と、命令したはずだった。
金田佑子さんから、デートの申し込みがあったとき、私は、断るのに往生をした。いわゆる三角関係を形成されていて、排除される弱い側だったので、相手が、上位の人として当然に、受けるだろうという趣旨で、デートを申し込んできたからだった。
私と金田佑子さんが、最初に友達になって、私がお世話をしたので、金田さんは、急に百人を超えるお友達ができて、その中で、瓜南直子さんとも、付き合いだしたのに、その三人の中で、私だけが、除外をされ置き去りにされている。そういう環境の中で、
警察の策略のために、急に「デートをしましょう」と、佑子さんから、申し込まれても、困惑するばかりだった。これは、佑子さんに限らず、親しい人から、何度もデートを申し込まれて、そのたびに、私は、現在自分が抱えている苦しみを、それらの、ひとにうちあけてきていた。しかし、その会話が、スマホを通じて、自動的に、敵方にわたっていて、
私は、さらにさらに、深く、同じところをえぐられて、同じ苦しみを倍増させられ、時には、三層倍の、苦しみに出会うこととなった。
私が、そういう仕組みに気が付いたのは、お茶大付属高校・同窓会の中で、メンターとして、もっとも敬っていた先輩、【ひろこさん】と、デートを重ねている最中だった。ひろこさんは、東大大学院卒、経済産業省、技官という、頭脳優秀な女性で、3.11の爆発時に、テレビでいろいろな発言をした学者たちより、一期前の、原子力何とか委員会のメンバーでもあった。
私は彼女のその、見事にして、キンキラキンの経歴にひかれたわけではない。お茶大付属高校の同窓会(特にOPCという下部組織)が主催する講演会の、終了後、学士会館で、お茶を一緒にする四人のメンバーがいて、その中で、ひろ子さんが、リーダーとして、いつも警抜な、発言をされるから、尊敬をしているのだった。四人の内、三人(=私以外)は、名門の国立大学卒で、本当なら、引け目を感じないといけなかったのかもしれないが、私は、もともと、芸術家志望だから、社会のしばり(上下関係)など、気にしないで、のびのびと発言をさせてもらっていた。すると、ひろこさんから、「あなたって、いかにもな、私立大学卒の人ね」と言われてしまった。私は、一瞬、きょとんとしたが、「ああ、そういうスケール(または、価値基準)もあるのか」と、納得をして、それ以降、人を判断するときの、一つのスケールとさせていただいている。
昔、小町通で、浴衣姿の、十文字美信氏の奥様に出会い、その美しさに一気にひかれたと言っている。その瞬間に、「前から考えていたけれど、美信氏って、やはり、十文字学園の創設者の、一族であり、この奥様って、そこに通っていた生徒だったのではないかしら?」と、思ったのだ。間違っているかもしれないが、そこで、担任を通じて、ピックアップされて、若き日に、美信氏との、お見合いに至ったと、そんな、ストーリーを私は勝手に作り上げている。美信氏の奥様って、いかにも中高一貫の女子高育ちだと、思わせる雰囲気があるのだった。
ひろこさんにもどろう。ひろこさんの優秀さって、親(多分学者)から、引き継いだものだと、思うのだけれど、その親以前の歴史がある。京都か、奈良の古いお家柄らしい。で、みそ一文字をたしなむ人だ。
ひろこさんには、重要な勤務があるので、1980年代は、学士会館での、お茶を一緒にするのがせいぜいだった。ところが、ひろ子さんが、定年退職後、ほかの二人は、私より若くて、まだ、現役の仕事があったので、私一人がデートに誘われることとなった。合計四度は、二人だけで、デートを重ねた。
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副題4、『2003年、葉山の美術館の開館記念展に行った時から、なんとはない違和感を感じた。それが、ピークに達したのは、(いつの日だったか、期日は定かではないが)銀座でのデートの帰り、ひろ子さんが、能楽堂へ、行くというので、千駄ヶ谷まで、ついていったことがある。すると、能楽堂の入り口傍に、四人の、三十代から、四十代前半にかけての青年たちが、たむろしていた。有名大学(例えば、東大)卒らしい、やや、ひ弱な感じの青年たちだ。それが、たばこをふかしながら、談笑をしていた。私はあっと驚いた。その顔に見覚えがあったからだ。
その四人は、2003年3月27日、新潮社のロビーにいた青年たちと同じだった。
私は2003年に、100枚の小説用の、原稿を仕上げていた。そして、小説の登竜門に応募しようと考えていた。一番最初に応募したのが新潮社だった。
郵便が妨害によって届かないことがあるので、わざわざ、一階ロビーまで行って届けた。私は、その四人の青年が、新潮社社員ではないこと、かつ、外部の、ライターでもないことは、瞬時に分かった。
その時、持ち込んだ原稿は、タイトルを、参謀の陰謀としていて、北久里浜の地積変更届を小説化したものだった。だから、当時は、生きていた、瀬島隆三が総力を挙げて、出版を阻止したのだった。この原稿は、その後の31日、今度は、別の出版社へ、郵送しようとしたのだけれど、丸の内、郵便局が、料金後納郵便を、いちいち手押しスタンプで処理したので、私も、31日付で、投函をすることができず、ほかにも大勢の人が、期限を過ぎてしまって、困惑をして、抗議をしていた。
さて、私は、その後歩いて(タクシーが一台もいなかった。これは、その後、鎌倉でも発見する、対私狙いの妨害だが)ひとつばしの出版社に向かった。9時から、社員が出社するので、その前に、ゆうびんうけに入れておけば、31日付で、投函をしたこととなると、考えた。しかし、あにはからんや、すでに守衛が出勤をしていて、4月1日に受け取ったということになった。新潮社では、井上ひさしの、ちからが巨大なので、入選するはずもないし、一ツ橋の出版社では、普段いないはずの、守衛が待っていたのだから、これは、全出版社が妨害をしてくるだろうと、考え、自分一人で、出版する方向へ、力を注いだのだった。
ともかく、2003年の、三月末に、新潮社のロビーにいた四人の青年と全く同じ組みあわせで、四人の青年が、千駄ヶ谷に現れたのだった。これは、たぶんだが、2004年か、2005年の事であり、ずっと同じメンバーが、警視庁、または、警察庁に所属していて、CIAの真実を明かす私を弾圧していると、考えた。ただし、殺人などを実行するブルーカラーとしての、人材ではなくて、ホワイトカラーだろうとは思った。東大卒などの、将来幹部へ出世していくエリート集団だろうとは思った。
済みませんが、ここで、中断します。続きは後刻書きます。
下書き用メモとして、
*1) ひろ子さんとの、四回目のデート・・・・それは、腐れ縁というものだった。しかし、ひろ子さんが、持参しているスマホが、尾行者の機能をGPS機能を使って果たす上に、スマホそのものに、自然にスイッチが入って、盗聴器ともなるのだった。
そのデートの時に、井の頭線渋谷駅の改札口前で、今まで、盗聴を恐れて、語らなかった、プリンターがカタカタ、真夜中になりだす、苦しみを語った。すると、ひろ子さんは「データの更新をする、日付が来ているのでしょう」と、いかにも、そっけなかった。
その時、ひろ子さんが、いつか言っていた、箴言を思い出した。「川崎さん、天使には、羽が生えているのよ。天使が、あなたの肩に、とまっているときは、その人はあなたを助けてくれる。だけど、天使が飛び去ったらその人は、もうあなたを助けてくれないのよ」を思い出した。 『あれは、ひろ子さん自身の事だったのだわ。もうひろ子さんに助けてもらうことは、不可能だ。もう、デートをしてはいけない』と、思い至った。
そういえば、2003年の葉山の美術館へ一緒に行ったときも、ひろ子さんは怪しかった。そのどこが怪しかったかは、今は書かず、10日の夜に語るが、確かに、怪しかった。
ただ、ひろ子さんとしては、・・・・・・「文章を書くのはやめなさいと、その時に、言っているのだから、あなたが苦しむのは当然よ、大切なことを忠告してあげたのに、いうことを聞かないのだから、苦しみは、仕方がない」ということだったと、思う。
それから、私の未練が始まる。一度メールを送った、ご返事が来た。
それから、本は送った。ご返事(感想)が、電話できた。ありがたかった。【黄いろいさくらんぼ】についてだったが、「今までで、一番良いわ」と、いう言葉をもらった。
他にも書くことがあるのですが、すでに、三時なので、就寝します。
ひろこさんとの別れを書くことは、水沢勉氏夫妻との、別れを書くよりもつらいことです。それで、今夜は、ひどく疲れています。
ひろ子さんから、もらった、『預言者は、世に入れられずだわね』と、いう言葉ほど、私にとって、ありがたいものはない。それが、足元を照らしてくれているので、私は、闇夜でも、未知を過たず、生きていかれるのだから。
ただ、ひろ子さんは、カソリック信者なので、井上ひさしと、通通なのだと、思っている。それは、本当に理不尽なことだと、思っているが、強者には、従うしかない。ただ、私が、従っている部分は、ひろ子さんと、別れると、いう部分だけで、真実を書いて以降とする思いは、消えないのだ。