家の在庫が無くなったので買いに来ました。我が家の佃煮はここです。お使い物にも使います。

一軒隣にも老舗の佃煮屋があります。「天安」です。


路地の向こうは、運河を挟んで高層マンションがそびえる、新旧が混在する街です。

改めて、「元祖佃煮天安」、老舗の風情です。

「佃源本家田中屋」も。

路地の延長線上には「安政六年創業つくだに『丸久』」の看板です。その手前に小さな公園があります。

公園脇の堤防を上がると隅田川です。対岸の聖路加タワーがそびえます。左手の建物は神輿蔵で、隅に石碑と説明板が立っています。

「『佃島渡船跡』 佃島は隅田川河口にできた自然の寄州でした。江戸時代初期、初代将軍徳川家康の招きによって摂津国佃村(現大阪市西淀川区佃)から下ってきた漁師たちは、鉄砲図州東の干潟百間四方を埋め立てて佃島を築きました。そしてこの島と対岸の船松町(現在の佃大橋西詰め付近)との間に通された渡船が佃の渡しです。佃の渡しは、佃島住民だけでなく、住吉神社への参詣や花見見物のなどの人々に利用されました。

明治時代には渡し賃が一人五厘であったことから、「五厘の渡し」と呼ばれました。大正十五年(1926)に渡船の運営が東京市に移ってからは定期的に運営されるようになり、昭和二年(1927)以降は有料の手漕ぎ渡船から無料の曳船渡船となりました。同年、渡船場の諸施設が整ったことを記念して、佃一丁目と湊三丁目にそれぞれ石碑が立てられました。
昭和三十一年(1956)には一日平均六十往復、一万六千人もの利用がありましたが、昭和三十九年(1964)八月に佃大橋が完成したため、佃島の渡船は廃止されました。

佃島渡船場跡は、渡船の歴史を記念する住民史跡として、中央区民文化財に登録されています。 平成二十八年三月 中央区教育委員会」
丸久の前にも石碑が立っています。

「劇作家北條秀司は佃島が好きであった。新劇俳優花柳章太郎も佃島が好きであった。二人はたえず連れ立って佃島を歩き、大川渡船を楽しんだ。その結果として、『佃の渡し』の芝居作品を企画した。それが昭和三十二年十二月の新橋演舞場に脚光を浴び、劇団新派の財産を一つ増やし、北條の代表作をまた一つ世に残すことになった。」

梅雨空の聖路加タワーを見上げます。

運河の向こうの高層マンションを見上げます。

時代に取り残されたような、好い街です。東京の下町の風情です。
