薔薇は春と秋に、年に2度咲きます。そして花の寿命が永いです。花の種類によって咲く時期が違っているのでしょうが、春に咲き出した花がまだ咲いているのが意外でした。 都電が坂を上がって来ます。
薔薇を残して上がって行きます。
薔薇を見ます。
思いの外多くの花がまだ咲いています。
花びらが濡れています。梅雨の晴れ間です。
ゴトンゴトンとまた都電が上って来ます。
線路脇にある薔薇が揺れます。
都電が行きます。
アフロディーテを残して・・・。
薔薇は春と秋に、年に2度咲きます。そして花の寿命が永いです。花の種類によって咲く時期が違っているのでしょうが、春に咲き出した花がまだ咲いているのが意外でした。 都電が坂を上がって来ます。
薔薇を残して上がって行きます。
薔薇を見ます。
思いの外多くの花がまだ咲いています。
花びらが濡れています。梅雨の晴れ間です。
ゴトンゴトンとまた都電が上って来ます。
線路脇にある薔薇が揺れます。
都電が行きます。
アフロディーテを残して・・・。
都電の西ヶ原四丁目の停車場が見える線路脇の路地です。あれは三ノ輪橋方面行きの停車場です。早稲田方面行きの停車場はこの先の道路を渡った向こうです。オレンジの花が咲いています。名前を聞いたけど忘れました。よく道端で見かける花です。
早稲田行きの電車が来ました。
「都電落語会」の文字が見えます。時々電車を借りきって落語会を開催するイベントがあります。
こちら、早稲田行きの停車場脇の踏み切りです。自転車が渡ります。
徒歩で横断します。
電車が通ります。
紫陽花の季節が過ぎた梅雨時の風景です。今年の夏は遅いです。
「昭和30年代スタイルニュース」なるものを眺めています。「太陽族」に「ミッチーブーム」に「みゆき族」に「カミナリ族」に・・・、「ミッチー」って、上皇后様のことです。まだ貴族に対する憧れを持ちつつ、高度成長に乗っかって自由を謳歌していた時代です。
暫く懐かしがってから、掲示板の表に回りました。都電庚申塚の停車場です。
旧中山道を挟んだ停車場に早稲田行きの電車が停まっています。
やって来ました。旧中山道を越えます。
三ノ輪橋方面行きの停車場を通過して行きます。
梅雨空に消えて行きます。
三ノ輪橋行きの電車が停車しました。
「おばあちゃんの原宿」へ行く人が下車します。
電車は行きます。
暖簾と幟が残ります。いつの間にか夏の装いです。
かき氷とアイスクリームとソーメンと・・・
夏はもうすぐです。
あの電柱邪魔だなあ、といつも思います。池之端の上田邸です。色々ごちゃごちゃくっ付いた電柱が邪魔をします。
正面から眺めます。
各階独自のデザインで造っています。このしっとりとした存在感が好いです。
玄関脇に説明板があります。詳細はこちら。
旅館らしい玄関です。
この建物も永遠なれ。
梅雨らしい景色です。
しっとりとした空気に包まれています。
相変わらず閑散としたキャンパスです。
キャンパスの前は停留所です。ここにも学生は居ません。
覗いたキャンパスは苔が勢力を増しています。誰も踏まないキャンパスです。
ゆっくり歩きます。
振り返ります。好いです。
苔蒸したキャンパスも好いです。
授業は再開されているようです。
梅雨時のキャンパスです。
コロナ禍のキャンパスでもあります。
顎関節症を患わって2ヶ月が過ぎました。大学病院に通っていてだいぶん痛さが薄れています。患わって1ヶ月くらいは、フレンチトーストの朝食と昼夜はお粥かソーメンでした。その頃蕎麦が食べたくて根津のいつもの蕎麦屋に行ったのですが、噛めませんでした。ツウじゃないのでやっぱり蕎麦も噛みます。でないと蕎麦の甘さが分かりません。
まだ時々「カックン」と顎が鳴りますが痛みは大したことありません。そんな経緯を知っている女将さんがニコニコと、「ご回復おめでとうございます」と持って来たのが、久しぶりのラッキーエビスです。心遣いが身に沁みます。ビクにも鯛が入っています。写真は瓶のみですが、額装したのと合わせて「トリプルラッキー」になりました。
これで全快なるか? その判断は、イカ刺しです。まだちょっと怖いです。
雨上がりの向ヶ丘です。
庭がめちゃめちゃ繁っています。
梅雨時のアブルボアです。
あの石を踏んで行きます。
インターホンを押します。
昼食時です。
ぱっと見何も変わった様子はありません。
水月ホテル鴎外荘の外観です。
ただ、玄関に明かりがありません。
当然中は変わっていない筈です。
このホテルは閉館しました。閉館の理由は、この中に保存している森鴎外の住居跡を永遠に保存する為です。
苦しい経営が続いていた(そんな風には見えませんでした)ホテルの女将さんが、今営業を止めれば森鴎外の住居跡を維持できる財力は残る、と決断したのです。崇高な精神の持ち主です。コロナ禍の現在をみれば、その決断のタイミングは絶妙でした。運もお持ちです。
玄関前です。
以前と全く変わっていません。
ただ、これを見ると、やっぱり閉店したんだなあと了見せざるを得ません。
見上げる梅雨空です。
鴎外荘の永遠を願います。
根津の路地にこんなものが出ていました。
家の前の鉢やプランターです。不要になったようです。
この家は、私が知ってからずっと毎年、20年くらい花を咲かせていました。特に、桜草を見事に咲かせて路地裏散歩人の目だけでなく、そろそろかな、とワクワク心も楽しませてくれていました。
そういうことですか・・・、奥様が手入れされていました。
前回、ベルツ博士の処で終わった説明文ですが、続きがあります。「異人坂を下りきった東側に、明治25年(1892)高林レンズ工場が建てられた。今の2丁目13付近の地である。その経営者は朝倉松五郎で日本のレンズ工業の産みの親である。 文京区教育委員会」
探してみます。
何のことはない、本当に坂を下りきった角に「2丁目13」がありました。
この建物です。レンズを製作しているようには見えません。
現在はマンションです。ここの住人は「高林レンズ工業」のことを知っているのでしょうか? 異人坂の説明板のすぐ近くだから皆知っていますよね。
玄関前から振り返ります。路の奥の朱色が異人坂です。
乾き切っていない梅雨時の路地です。
弥生の坂を下ったら、「段差あり右折危険」の標識があります。
やって来た坂の下に、超鋭角で繋がった朱い坂があります。
昭和6年に、浅野候爵家が建設したと記されています。
坂道を下って行きます。
弥生は坂の街です。日当たりが良いので弥生人が住んで弥生式土器を作った丘です。
苔の壁です。今年の長雨でも発色が悪いです。この急勾配のコンクリートの壁面では保水性が悪いです。よく生えているものだと感心します。
坂を下ります。
説明板がありました。「坂の上の地に、明治時代東京大学のお雇い外国人教師の官舎があった。ここに住む外国人は、この坂を通り、不忍池や上野公園を散策した。当時は外国人が珍しかったことも手伝って、誰いうことなく、外国人が多く上り下りした坂なので、異人坂と呼ぶようになった。 外国人の中には、有名なベルツ(ドイツ人)がいた。明治9年(1876)ベルツは東京医学校の教師として来日し、日本の医学の発展に貢献した。ベルツは不忍池を愛し、日本の自然を愛した。 云々」
この坂を下ったら根津の街です。当時坂の上に住んでいた外国人達は不忍通りを上野方面へ散歩していたのでしょう。
坂を振り返ります。時々人が通る坂です。
朱い色はここまでです。この間だけ朱く色を変えている理由は分かりません。
説明板を読みながら思い当たりました。記載されているベルツ(ドイツ人)って、この人ですね。
コロナ禍で5月場所が中止になって、7月に行われる予定だった名古屋場所が今度の日曜日から東京で行われます。都内でクラスターが発生している状況下、観客を入れて興行するのがちょっと心配ではあります。そんな世相下、荒汐部屋にやって来ました。
自転車は運転免許を取ってはいけない相撲取りの足です。自転車の数が弟子の数に比例します。
7月場所の開催を相撲取り以外で、おそらく一番緊張して待っているのはここ荒汐親方だろうと思います。
見上げる部屋にいつもの洗濯物や日光消毒をする稽古まわしがありません。何も無いことが珍しい風景です。
稽古場はシャッターが下りて見えません。物音もしません。
この度荒汐部屋は親方が代わりました。新しい親方は、元前頭二枚目蒼国来です。彼は、相撲界に衝撃を与えた八百長事件で、当事者として相撲教会から除籍されました。国技館前で無実を訴えるビラを受け取ったことがあります。蒼国来は無実を訴え続け、とうとう裁判を起こして、勝訴して復帰したのです。中国から来て味方も支援者も少ない絶望的な状況でありながら、屈することなく粘り強く正義を主張して復帰を果たしたのです。
その後負けが込んで、幕下まで落ちました。十両以下は「関取」ではありません。給料もありません。その絶望から彼は再び粘り強く十両に復帰しました。そんな彼が親方になったのです。中国出身者初の親方でもあります。前親方の愛情も感じる新親方の就任です。こんな親方を応援せずには居られません。そんな思いで7月場所の開始を待っています。
関取二人の部屋です。みんな頑張って幸せになれ!
根津の路地に煙突が現れました。「SENTO」と書いてあります。
こんな路地です。
銭湯によくあるある煙突です。
「宮の湯」と書いてあります。その上には、「弓を射る」で「湯入る」と読ませる江戸時代に湯屋を表した弓矢のモニュメントがあります。
銭湯らしい入り口は閉まっています。よく通る路地ですが、ここに銭湯なんてあったっけ?
屋根瓦を下ろしたのでしょうか?
煙突には「芸術銭湯 +cafe MIYANOYU」との文字があります。
これはメニューのようです。
あちらに広いスペースがあります。
広いガラス窓にテープが貼られています。まだ完成していないようです。
中を覗くと、そこは洗い場の跡のようです。
概要が掴めました。元銭湯をリニューアルしてカフェにするようです。
こちらから全体像を眺めます。
脇道に入ると、銭湯の入り口に見えます。銭湯も継続するのでしょうか?
振り返る正面入り口方面の路地です。
正面に戻りました。こんな路地です。
コロナ禍のこのタイミングで、近々オープンです。頑張れ!!
季節の変わり目にやって来ます。
狭い路地の苔が領土を拡大しています。
季節の花が咲く路地です。
ポンプの鉄がしっとりしています。
いつものように、こちらからも観賞します。
下町の水場です。
静かに季節が巡る生活感を感じます。
柘榴が実を付けました。
もうすぐ夏です。
雨上がりの階段を見たくなってやって来ました。
結構急な坂です。
真ん中のコンクリートの部分を利用して自転車を押し上げる計画です。
人に見られたら恥ずかしいな、と思っています。滑らないように注意しながら押し上げます。
さあ、行きます。
こういうときの自転車って重いです。押し上げていたら足元の左の階段が無くなりました。まだあんなに残っている坂です。ここで、左側が高くなっている地形だと気づきます。
ここからは自転車を抱えて登ります。目の先は坂上の街です。
振り返る「お化け階段」です。昔は藪が繁った坂で、明かりがない暗がりの階段で多くの人が怪我をしたのが名前の由来とか、あるいは、上がりと下りの階段の数が違うからとか言われています。
上から見ると、現在は途中で民家の塀に吸収されて無くなっていますが、三つある階段の一番右側が古いです。つまり昔のまま残された階段です。新しい真ん中の階段と比べると一つひとつの段の高さが違うので、上りと下りで左右の階段を違えて使ったら段数が違う、のだと思います。
あるいは、現在は水平になっていますが、左に曲がった階段で左にも下にも低くなっている地形です。当時は斜めの場所にそのまま斜めに階段を造ったので、曲がり角の部分の最後の段が傾いて踊り場の面に吸収されて半分くらいの階段になっていたのでしょう。従って、左側を上り下りしたら1段少なくなる、のだと思います。今は左右とも39段あります。
こんな場所です。
坂に建つマンションに囲まれた階段です。
視界の狭さが楽しい坂です。