お話しをしていくなかで、辻褄が合わないことを聞くことがある。
また、そのことに対して、見当違いに怒り出すひともいる。
辻褄の合わない話とは、そのひとが自分の都合にいいように
話をしている場合。または、自分で編集して話している場合だ。
本人的には嘘ではないのかもしれないが、原因からみれば、
それは実際に起きたできごとー結果からは、程遠い。
だからなのか、時に師匠は依頼者よりも、依頼者が非難している
相手のことをどうなんだろうか、と言う時がある。
なぜなら、
問題とは、問題を抱えているひとの中にあるのであって、
相手は無関係なことが多いものなのだ。
そして、相手といえば、案外、意に介していなかったりして、
よけいに腹立たしいものとなり、怒りが溢れていたりしている。
つまり、怒りほど、検討違いもはなはだしいものはないのだ。
怒りの正体とは、弱さだ。怒る人ほど弱いのだ。
だから、破壊的な行動に走る。
自分の弱さに対して、脆い。
自分の危うさをこの上もなく、怖れる。
だから、なおさら、自分の感情をコントロールすることができない。
物事に対して、向き合う勇気と言うものを、持ち合わせて
いないのだ。起きてもいないことに対しても、極端に恐れる。
そして、なにより、自分の無力さを誰よりも一番よく知っている。
そして、それを知られることを恐れる。
その自分の無力さをひとにぶつけては、おきたできごとから
目をそむけ、逃げて、逃げて、逃げ続けている。
今までだって、そうしてきたのだ、と。逃げ続けてきたんだ、と。
何かが起きている。その何かがなんなのか、知ることが
こわい。なにより、こわい。
できごとの中に在るもの。
自分のまわりでおきているできごとを目を据えて
見ることすらできない。そんな、弱いひと。
だから、かわいそうだが、それすらも、自分が長年逃げ続けた
結果、今がある。いつも、そうしてきた。
逃げずに向き合える最期のチャンスをつかむか、
また、今回も逃げるかは、本人が決めることだ。
そうして、周囲にそういう人がいたら、相手のことに
同調する必要はないが、そういうひとがいるのだと、
いうことを少し知っていれば、あなた自身、そのひとの
怒りから、身を守る術を理解できるだろう。
これからを生きるために必要なものは、
ほんの少しの勇気と、どんな時でも、笑えるこころだ。
ところで、逃げてきたことの正体とは、案外、たやすい
ことが多い。また、思い違いだったり、ただの勘違いだったり
する。
なぜなら、わたしたちとあなたで決めたこと。
手に負えないことはしないように、
重すぎる荷物を背負うようなことはないように
しているはずなのだ。
だから、ほんの少し、勇気を持てば、解決するものなのだ。
この仕組みがわかれば、こわいことなど、ありはしない。
だから、難しいような道を選んだひとほど、その道はやさしい。
誰もが行くような道は、人があふれ、歩きづらいものだ。