さよなら三角 また来て四角...日本編☆第二章☆

オーストラリアから10年ぶりに帰国。特別支援教育に携わりながら
市民農園・家庭菜園に励んでいます。

Denmark #5日目 ちょっと脱線 ~『保刈 実』という日本人歴史学者に出会う~

2012年01月26日 09時45分21秒 | Web log
翌日。

釣具屋さんに行く前に、マイクが『お金下ろしてくるからちょっとその辺ぶらぶらしてきて』というので
子供たちを連れて、小さな本屋さんに入りました。

とても素敵な雰囲気。色んな本がありました。オーナーの心意気が感じられるようで
何時間でも居たくなるような本屋さんでした。

そこで、オーストラリアの動植物に関するいい本がないかなぁと思って、物色しているときに
「 MINORU HOKARI 」という文字が目に留まりました。

MINORU という First Nameからして 日本人だよな~と思って、手にしてみると アボリジニーと呼ばれる
オーストラリア先住民の研究についての本のようでした。

こんな田舎で、しかも日本人の書いたアボリジニーに関する本にめぐり合うなんてと思ってちょっとびっくりしました。

表紙には エアーズロック(アボリジニーの聖地)を背景に 何もない赤茶けたオーストラリアの道の上で 保刈実さんが
バイクに跨っている写真

中をちらちらと見てみると、どうもノーザン・テリトリーに居住するアボリジニーのコミュニティーに入り、
長老などに話を聞きながらアボリジニの歴史にアプローチしたという内容のものらしかった。

歴史学者であるにも関わらず、そのアプローチが文化人類学で行われるフィールド・ワークの手法を採用している
というのに興味をそそられました。

わたしは、学生の頃、文化人類学専攻だったので、漁村のフィールドワークを行いましたが、新潟の漁村の人たち
のなまりがひどくて(例;「たこ貝」→タコゲイにしか聞こえなかった。) ????な私でした。

なので、日本人同士でも大変なのに、しかも被差別民族のアボリジニーコミュニティーに入っていった
という事実にまず驚きました。

日本人でアボリジニの研究をするなんて珍しいんじゃないのかなぁ、すごいなぁ、今はどんなご活躍を
なさっているんだろう、まだオーストラリアにいらっしゃるかも?と思いながら、さらさらとページをめくっていくと、
保刈さんが若くして、志なかばで亡くなられたということを知りました。

アボリジニーの歴史に興味をもたれた保刈実という日本人に強く魅かれて、買おうかどうか迷いましたが、
でも、アボリジニーにはあんまり興味がなかったので、買えませんでした。


さて アボリジニーについてご存知ない人もいるかと思うので、余計なお世話ですがWikiから引用してみましょう。

『 西洋人がオーストラリアを「発見」した段階では、50万人から100万人ほどのアボリジニがオーストラリア内に生活していた。言語だけでも250、部族数に至っては、700を超えていた。

しかし、1788年よりイギリスによる植民地化によって、初期イギリス移民の多くを占めた流刑囚はスポーツハンティングとして多くのアボリジニを殺害した。「今日はアボリジニ狩りにいって17匹をやった」と記された日記がサウスウエールズ州の図書館に残されている。1803年にはタスマニアへの植民が始まる。入植当時3000~7000人の人口であったが、1830年までには約300にまで減少した。虐殺の手段は、同じくスポーツハンティングや毒殺、組織的なアボリジニー襲撃隊も編成されたという。数千の集団を離島に置き去りにして餓死させたり、水場に毒を流したりするといったことなども行われた。

また、1828年には開拓地に入り込むアボリジニを、イギリス人兵士が自由に捕獲・殺害する権利を与える法律が施行された。捕らえられたアボリジニ達は、ブルーニー島のキャンプに収容され、食糧事情が悪かった事や病気が流行した事から、多くの死者が出た。』


という、ヨーロッパ人入植後の悲しい歴史をもっています。

このような時期を経て、アボリジニーの人口が激減し、1920年ごろから保護策がとられますが、これは隔離政策と
対をなしていたようです。そして、白豪主義によって、アボリジニの弾圧が強まり『白人化教育』が行われ、アボリジニの
子供を親から引き離し徹底的に西欧文化を叩き込もうとする政策が、政府とキリスト教会によって推し進められました。
この事実は映画化もされています。

そのような歴史を背景に、今でもアボリジニーの社会問題、差別問題は色濃く残っています。

そして、

ケビン・ラッド首相は、2008年2月13日の議会で、先住民アボリジニに政府として初めて公式に謝罪した。
同日の議会には約100人の先住民らが傍聴する中で、同首相は「Sorry」の語を3度使い謝罪した。


とあり、つい最近、公の謝罪が行われました。長い時間を経て、謝罪にたどり着いたとはいえ、差別、被差別双方の
意識に深く刻まれたものは消しがたく、問題解決まで、まだまだ長い道のりが続くことと思います。

さて、パースでもアボリジニーの人々をあちらこちらで見かけることができます。

でも、私には、アボリジニーの『友達』がいません。
7年しか住んでいない私にも「アボリジニー」の人々に関する先入観があります。

外で見かけたら、まず彼らを『意識』はしますが、身構える感じです。進んで、話しかけようとはしません。
「 あ、アボリジニーの人だ 」とつぶやく私の心は、彼らに対して冷たく、否定的です。

この前も 実は 車を荒らされまして。大したことなかったのですが。

そのことを近所の人に話したら、「 家もやられた。でも、犯人を突き止めて、主人が追いかけたのよ。
アボリジニーの少年だった。」という話だったり

ベンジャミンの友達のお父さんが 夜道を歩いていたら、アボリジニーに『携帯とお金をよこせ』と言われて
脅されたけど、なんとか巻いたという話を聞いたり。

このように被差別側の起こす社会問題も、実際のところあったりするわけです。


アボリジニーに対する制度上の手厚い保護、優遇政策もあるのですが、それもまた、反感を買う原因に
なっていたりします。

とにかく 色んな問題が絡み合っていて 複雑です。

『かわいそう』なんて安っぽい同情では全く解決にならないことは、私にも分かる。
そして、歴史の中で行われた残虐行為を生み出した人々の相手をリスペクトしない『気持ち』の一端を、
私だって持っている。加えて、一部にみられる反社会的な行動をすべてのアボリジニーの人々に当てはめてしまう、
なんとも短絡的、でも根強い否定的な『意識』をアボリジニーコミュニティーの『外』にいる私たちが、どうやったら
変えられるのか?


社会に現存する、双方の深い『意識の隔絶』の中、保刈さんがアボリジニーのコミュニティーに自ら入っていって
共に生活をし、彼らの話に耳を傾け、それを記したということ。

オーストラリアが抱える アボリジニーコミュニティーの『内』と『外』のギャップを埋めるきっかけを生み出すのは
『理解しよう』、少なくとも事実を『知ろう』とする、小さな、強い意思なのかもしれないなと思いました。

保刈さんを通して文字となったストーリーを、アボリジニーコミュニティーの外にいる私たちに『語られ』たことを
読んでみたい、と今、強く思っています。

ちょっと脱線してしましたが、保刈さんのことを皆さんにお伝えしたかったので。

保刈さん御自身や研究業績等については、「Being Connected with HOKARI MINORU」(http://www.hokariminoru.org)
を是非、是非、ごらんください。

ということで、Denmark 旅行、もうちょっと続きます。

署名

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