好きな人、大切な人の幸せを願うことは簡単だけれど
嫌いな人、嫌な事をされた思い出がある人の幸せを願うことは
本当に難しい。本当に本当に難しい。
嫌いな人の幸せを願う必要なんであるのだろうか?
そんなの偽善だ、とも思う。
でも、人の不幸を心のどこかで喜んでいるかのような自分の
存在を感じて、邪悪だなと思う。
嫌いな人に何か好ましくないことが起こったと知って、
冷たい心で「自業自得だ」と、思っている自分がいたりする。
その人が大変だと聞いて「可哀想だな」と同情を寄せることは
あっても、積極的に幸せを願えるだろうか?と思う。
同情は、ある意味自分が優位にたって可哀想がっているわけだから、
簡単なんだ。
***************************************************************
自分の正しさを武器にして、直接であれ間接的であれ相手を
徹底的に批判している自分がいる。
自分が正しいと信じて疑わない心。
正しいのだから相手を批判してもいいと思う心。
自分のちっぽけな正しさはちっぽけなままでしかないのに
全てであるかのように肥大化して「正義」という名を元に
「怒り」のエネルギーは暴走する。
嫌いな人、嫌な事をされた思い出がある人の幸せを願うことは
本当に難しい。本当に本当に難しい。
嫌いな人の幸せを願う必要なんであるのだろうか?
そんなの偽善だ、とも思う。
でも、人の不幸を心のどこかで喜んでいるかのような自分の
存在を感じて、邪悪だなと思う。
嫌いな人に何か好ましくないことが起こったと知って、
冷たい心で「自業自得だ」と、思っている自分がいたりする。
その人が大変だと聞いて「可哀想だな」と同情を寄せることは
あっても、積極的に幸せを願えるだろうか?と思う。
同情は、ある意味自分が優位にたって可哀想がっているわけだから、
簡単なんだ。
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自分の正しさを武器にして、直接であれ間接的であれ相手を
徹底的に批判している自分がいる。
自分が正しいと信じて疑わない心。
正しいのだから相手を批判してもいいと思う心。
自分のちっぽけな正しさはちっぽけなままでしかないのに
全てであるかのように肥大化して「正義」という名を元に
「怒り」のエネルギーは暴走する。