人気の「坂東玉三郎・舞台」を、
げきじょう(劇場)に 来られない人にも
見せてあげようよ
っていう
「シネマ歌舞伎」
けど、
今回の「高野聖」に かぎっては、
「舞台公演の中継」スタイルではなく、
わざわざ別どり(撮り)して
なおかつ、じっさい(実際)の風景なども 入れて
へんしゅう(編集)し
「幻想リアル」を追求した、まさに!
シネマ+かぶき(歌舞伎)で、ありました
(松竹hp→#mce_temp_url#)
その「映像」は
絵まきもの式の「書割」とは
一味ちがう・うつくしさ
より、
昔話のせかい、「飛騨」の山中に
入りこめる
そうち(装置)に なっています。
さて
「高野聖」の作品イメージでは、
山中に住む孤家の「嬢さま」(女)は
男という男、みんなエジキ(餌食)にしちゃう、
「理不尽なあやかし(妖)」
で、ありましたが
玉三郎の「嬢さま」は、
「洪水で家も村も流され、生き残った医家の息女
それが、
頭の弱い夫と二人、
13年も山の一軒家に住むうちに、
自分に近づく男を 獣に変えてしまう力を 身につけた、
寂しい女性で、
妖しの笑みをうかべつつも
聖のような、まともなお坊様には
手を出さず、
自分から離れるよう、かえって追い立てる。」
そんな けなげさ・ありました。
シドウさん(かんじ:中村獅童)えんじる、
「寡黙でストイックな聖(宗朝)」も、
(この人を、ケモノに変えては、いけないわ)
と
「嬢さま」に なさけを・もよおさせてしまう、
おもむきが、ありました
「聖」が
「嬢さま」忘れがたさに・立ち去れず、
ひとり 時をすごしていると、
「爺や」がやって来て、
すべてをバラして、あきらめさせようと するのですが、
正体を知っても、
「聖」は、「嬢さま」を
けいべつ(軽蔑)する風でもなく、
「爺や」のうしろ姿も かなしくて、
よいん(余韻)・ジョウジョウで、おわりました・・
<クリンの作品イメージ:小笠原豊涯「山百合」(明治39年)・・・「白桃」とは、言いがたいからね
byクリン>
よいんと言えば、
途中
「嬢さま」の夫・次郎(白痴)が、
のびやかに「木曾節」を うたい上げる
シーンがあるのですが、
「ふきわたる風のように、
すばらしかった」
と うちのチットは かたっていました