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遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

敗戦特集 12.迫撃砲弾

2022年08月15日 | 敗戦特集

この品は、数か月前に『戦争と平和』で登場しました。今回、戦時の遺物として、もう少し調べてみました。

長さ 31.7㎝、胴径(最大) 8.1㎝。重さ 3.0㎏。1940年代。

実はこの品、先のブログでは、焼夷弾(爆弾?)として紹介しました。

しかし、いろいろと調べていくと、どうも、焼夷弾や爆弾ではないようなのです。焼夷弾では発火性の薬剤、爆弾では爆薬を内部に詰め込んでいます。なるべく多くを入れるためか、弾の形は筒形がほとんどです。ところがこの品は、見事な流線形です。飛ばすための物ですね。

どうやら、これは迫撃砲の弾丸らしいとの結論に至りました。迫撃砲は、近距離戦に用いられる軽火砲で、敵の陣地などを攻撃するための火器

この品は、その形状から、旧日本軍の九九式81㎜迫撃砲弾と思われます。

 

 

中はカラです(よかった(^^;)

底部に特徴有り。

内部の発射薬からガスが発生し、砲身からロケットのように飛んでいきます。丸い穴があいています。ここからガスが噴出します。姿勢の安定と飛距離をかせぐために、フィンがついています。風車のように回転しながら飛んでいくのでしょう。

迫撃砲は、大正時代に開発されたそうです。そんな物がまだ使われているとは、何か人間の業を見るような気がしますね。

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敗戦特集 11.戦時能『忠霊』

2019年08月31日 | 敗戦特集

 能の絵です。

屏風から錦絵まで、故玩館にある能関係の絵画、100点ほどのうちで、最もレアなものの一つです。

 

 

 しかし、どの能解説書を開いても、この人物は見あたりません。

 プロの能楽師の方々に聞いても、おそらくわからないでしょう。

 

 手がかりは、表具にありました。

 

デザインの一環として、表具に、謡本を貼り付けてあるのです。

題目(演目)は、『忠霊』。

 

共箱です。作者は、能画家、瀧川洗風(明治30-平成元年)。

箱書きの年月日、昭和17年11月3日は、当時の4大節の一つ、明治節(明治天皇の誕生日)にあたります。

この日付けの能画『忠霊』は、当然、特別の意味をもっています。

『忠霊』は、戦時中に新しく作られた能、新作能なのです。昭和16年、皇紀2600年を記念して、大日本忠霊顕彰会が観世流に依頼して作られらたものです。

【あらすじ】

士何某(ワキ・ワキツレ)が、日本の繁栄を述べ、靖国神社の忠霊塔を礼拝する。そこへ、親子らしき老人(前シテ)と男(ツレ)が登場し、国のために命をささげた忠霊の徳を讃えて勤労奉仕する。ワキは、その二人に声をかけ、親子は子々孫々に国を護る意義を述べる。ワキは、それは頼もしい心持ちであるが、殉死した霊の心はどのような物であろうかと問うと、「最期を飾る光栄は。何に喩へんものもなし」「無上の栄に浴したり。今は皆令満足ただ、有難き極みなり」と説く。ワキは感心し、さらに夜も会話を続けようとするが、二人は忠霊塔の辺りに消えてしまう。(中入り)アイの末社の神が登場、靖国の来歴の功を讃える。夜更けから夜明けの時間経過がワキによって謡われ、突然光が射しワキは神の気配を感じる。忠霊(後シテ)が現れ、皇統を賛美し、戦で命を落としたが、護国の神となったことを述べる。戦闘の激しさが謡われシテは荒ぶるが「皇軍勝利の為ならば、命捨つるはいと易し」と晴れやかに謡い、装束を一部替えて舞を舞い、国の繁栄を讃えて納める。
 
(東谷櫻子「新作能「忠霊」をめぐる考察『花もよ』第38号、2018.07.01より)
 

絵画は、能の後半、シテ忠霊が現れ、国のために戦い、命を落としたことを語り、国を治める御代を讃える場面を描いています。

報国思想をたたえ、戦意高揚をはかる新作能は、その後、『皇軍艦(みいくさぶね)』、『撃ちてし止まむ』、『玉砕』(いずれも、昭和18年)などが作られました。

これら戦時下の新作能のうちでも、『忠霊』は、完成度が高く、全国各地で上演されたといわれています。好評を得ましたが、やはり、戦時の報国を謳い上げた国策能でした。

戦後は、上演されたことはありません。能関係者の間でも、次第に忘れられつつあります。

 

なお、能『忠霊』の一部は、当時のニュース番組の中で見ることができます。

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300460_00000&seg_number=001

番組に登場するシテ忠霊は、この掛け軸に描かれた通りの姿です。なお、番組には、戦時中の金属回収の様子も出てきます。

 

 

 

このように、能楽が、滅私報国、国威発揚に寄与したのは、元々、旧態然とした能が持っている特性のためだったのでしょうか?


現在も演じられる能の名作のひとつに、『蝉丸』があります。

          能・蝉丸【あらすじ】 世阿弥作

時の帝、醍醐天皇の第4皇子、蝉丸は、琵琶の名手であったが、幼少より目が不自由で、父帝により、逢坂山の山中に捨てられてしまう。髪を剃られ、出家の身となって、蓑と傘を身に着け、粗末な藁屋の中で、琵琶を弾き、通りすがりの人々の施しによって生きている。一方、天皇の第3子、姉である逆髪は、生まれつき髪の毛が逆立つ病気をもち、それを苦にして狂乱となり、各地を放浪していた。ある日、藁屋から琵琶の音が聞こえ、音の主が蝉丸だと気が付く。二人は、手を取り合って再会を喜び、互いの境遇に涙する。しかし、逆髪に長居はできず、いずこかへ立ち去ってゆく。蝉丸は、見えぬ目で姉を見送るのだった。

 

皇族でありながらも、障害をもったばかりに、残酷な運命に苛まれる二人。天才世阿弥の能は、悲劇を通して人間存在の本質にまで迫っています。

ネットに巣食う疑似右翼や明治政府が富国強兵のために作り上げた薄っぺらな皇国史観を振り回す自称文化人たち。彼らには、卒倒しそうな能です。

当然、戦時の異様な体制の中では問題とされ、早くも、昭和9年には、上演自粛に追い込まれています。

 

他にもうひとつ。

 これも、現在、上演されることの多い能、『大原御幸』です。

大原御幸あらすじ】 伝世阿弥作

平家滅亡の時、壇之浦で我が子、安徳天皇とともに入水した徳子は、源氏に助けられた後、出家して建礼門院と名をあらため、京都大原、寂光院で平家一門を弔う日々を送っていた。そんな中、夫、高倉天皇の父、後白河法皇が訪ねてきた。女院は、生死の境で見た六道や平家一門の最後の様子を、涙ながらに物語る。やがて、法皇は還幸され、女院は、柱の陰から、いうまでもその後を見送るのだった。


能『大原御幸』は、昭和14年には、皇族が登場するというだけで不敬とみなされ、上演できなくなりました。

 

このように、能は、戦時体制に協力し、国体の護持、国威発揚に寄与した一方で、能の奔放な芸術性が、時の権力から疎まれ、抑圧されるという二面性をもっていたのです。

 

室町時代、将軍足利義満の庇護のもとで、、世阿弥は、当時の最高の古典籍や文物に接することができました。それをもとに、彼は、世界最古の総合演劇、能を完成させたのです。世阿弥の偉大さは、能の作成にあたっては、権力者とはほぼ無関係に、純粋な芸能として、能を書きあげたことです。足利幕府を礼賛したりすることなく、古典や伝承からヒントを得て、芸術性の高い、多数の名作を作りだしました。中でも、世阿弥の傑作は、『砧』 『蝉丸』『恋重荷』『藤戸』『姥捨』など、悲劇性の強い能にあると思います。

権力者と芸術家・世阿弥との関係は、時代とともに危うくなりました。義満の死後は弾圧を受け、72歳で佐渡に流されてしまいます。

このように、創成期から、能は権力者との微妙な関係の上に成り立ってきました。その後の戦国時代、安土桃山時代、そして、江戸時代まで、その事は変わりませんでした。ただ、創造のエネルギーは次第に衰え、過去に完成された芸を護り、伝えることが主になってしまったのです。

戦争は、強大な権力が支配する時代です。『忠霊』はそのようななかで、あらたにつくられた能です。国策能としてはかなり出来が良く、能の体裁を十分に整えています。しかし、能の名作には必ず備わっている、しみじみとした情感、そこからもたらされる幽玄の世界を感じとることはできません。それは、作者が自由な精神世界をもてなかったからです。言い換えれば、どのような状況下でも、内面の芸術至上主義を貫くだけの覚悟と能力がなかったといえます。

芸術は、権力とは無関係なところでしか創造されないのです。逆に、権力側は、それを配下に置き、利用しようとします。近年では、ヒットラーやスターリンが、芸術や芸能をたくみに利用したことで知られています。日本の戦時下も。

最近では、愛知トリエンナーレの少女像をめぐる一連の出来事。為政者が本性をあらわして芸術に介入してくる時、必ず、それに乗って先兵を務める者たちが出てくる・・・・・・・・・歴史の教訓からすれば、戦争はすぐそこまで。

 

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敗戦特集 10.松根油

2019年08月30日 | 敗戦特集

 これは、何でしょうか。

単なる木の切り株。

     中山道ミニ博物館蔵

松の木です。

よく見ると、木肌に斜めの筋がいっぱい走っています。

 

          

 

人為的に傷つけられたできたものです。

これは、松から樹液をとるためにつけられた傷です。

樹液といえば、漆やゴムが有名です。それと同じ原理で、松が作り出し樹液を集めるために工夫されたものです。

 

    松樹液採取作業(アメリカ、フロリダ州1912年、Wikipediaより)

 

このような方法は、世界各地で、現在も行われています。

皮を剥がれた松の樹木は、最初の写真の切り株と非常によく似ています。

 

実は、この切り株は、中山道沿いの旧家に保存されていた品。

戦時中に、松の樹液を採った名残です。

一般には、松根油といわれているものです。松の木や切り株からは、テレビン油が採れるので、それをガソリンや航空燃料の代用品にしようとしたのです。

テレビン油の取り出し方は2つ。1)松の樹液を水蒸気蒸留する。2)松の切り株(根)を乾留する。

写真にあるような幹に傷をつけて採取する方法は、松が生きたままで可能です。今風に言えば、持続可能な採取。

一方、根から採る方法は、松を切り倒して、根を掘り起こさねばなりません。当然、松の木は伐採されます。さらに人力で根を掘り起さねばならないので、ものすごい労力が必要になります。

 

資源のない日本では、昭和10年頃から、石炭の液化を研究してきましたが、さしたる成果はあげられませんでした。

そこへ、「ドイツでは、松からの航空ガソリンで戦闘機を飛ばす」という情報(ガセネタ)が入ってきて、海軍がそれに飛びついたのです。

昭和19年、「松根油緊急増産運動」が、「200本の松で一時間分の航空機燃料」のスローガンのもと、全国的に展開されたのです。

勤労奉仕には、延べ400万人が動員されました。

家庭からは、鍋など金属類を供出させ、乾留缶3万個以上が造られました。

ところが、この松根油を、実際に航空燃料として利用した記録は無いのです。航空機のエンジンに使用できるだけの品質のものが得られなかったのです。

途方もない無駄。

結果として残ったのは、丸裸の街道。

現在、かつての主要街道沿いに、ズラッと生えていた松並木は、ほとんど残っていません。

東海道の熱田宿と中山道の垂井宿を結ぶ、9宿、全長57㎞の美濃路には、垂井宿追分・綾戸に200mほどの松並木が残っているのみです。ここの松並木がなぜ残ったか、その理由は不明です。

 

 美濃路に残った松並木(垂井宿、追分)

 

では、全長534㎞、69宿の中山道はどうでしょうか。

現在、残っている主な松並木は2か所。笠取峠の松並木(長野県)と野上の松並木(岐阜県)です。

笠取峠の松並木は、 芦田宿の西方1キロメートル地点から笠取峠にかけて約2キロメートルにわたっていて、現存する中山道の松並木では、最も規模の大きなものです。他の方のブログで詳しく紹介されているので、ご参照ください。  https://blog.goo.ne.jp/musshu-yuu/e/8070f47a484eb035c26e62a2affe7d9e

 

今回は身近な場所、先の美濃路の松並木から、西へ2.5㎞ほど行ったところにある野上の松並木を訪ねました。

 野上は、58番垂井宿と59番関ケ原宿の間にある小さな間の宿(あいのしゅく)です。元々は、東山道の野上宿として栄えました。遊女の里として有名だった所です。能、班女はここを舞台にしています。

   霞たつ野上のかたに行きしかばうぐひす鳴きつ春になるらし    詠み人しらず

   一夜かる野上のさとの草枕むすびすてつる露の契を         定家

   恨むべき人こそなけれ東路の野がみの庵のくれがたの空      寂蓮


 『木曽街道名所図会』2巻 関ケ原野上里

 

『木曽街道名所図会』には、野上の様子が出ています。江戸時代、東山道から中山道になってからも、間の宿としてかなり栄えていたようです。

しかし、現在、かつての面影はどこにも見当たりません。山間の小さな集落です。

この辺り、かつての中山道は、現在、完全な裏道となり、昼間でも非常に静かです。人っ子一人、猫の子一匹見あたりません。


さて、その野上の集落を抜けたあたり・・・・・

 

見事な松並木が続いています。

樹齢は300年ほど。街道の雰囲気も残っています。

 

 

 

 

 

 もう少し離れて全体を見てみると・・・ 

 右手の山側に、白い柵が2段、見えます。

上側が新幹線、下側は国道21線です。新幹線とこの松並木(旧中山道)とは100mも離れていません。反対側(左側)には、Jr東海道線が走っています。

山裾の狭い土地を縫うように、並行して多くの交通路が走っています。この地は、交通の要衝なのです。


松並木を抜けたあたりに、大きな看板が・・・

 

 

 関ケ原の戦いの時、徳川家康は、この松並木の辺りから、右側の桃配山中腹へ登り、陣を張ったと言われています。

なお、この山が桃配山と呼ばれるようになったのは、壬申の乱の折、大海人皇子が野上に本拠地を置き、その際、兵たちに桃を配って鼓舞し、戦いに勝ったからだといわれています。

野上の地は、日本史上、二度の大合戦の舞台となったわけで、如何にこの場所が重要であったかがわかります。

中山道に現存する数少ない松並木。野上の松並木が奇跡的に残った理由は、はっきりしませんが、ひょっとしたら、地政学上の意味が関係しているのかも知れません。

 

 

 

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敗戦特集 9.廃物利用百科

2019年08月23日 | 敗戦特集

今回は、戦時中の暮らしの知恵です。

今でも、いわゆるおばあちゃんの知恵といわれるものがいろいろあります。

私たちが毎日生活していくうえで役に立つアイデアやノウハウは、巷に流布しているだけでなく、古くから、まとめたものが出版されてきました。

広く浅くがモットーの私は、こういうものも結構好きで、少しずつ資料を集めてきました。

特に、江戸時代に出版された『民家日用廣益秘事大全』は、占い、呪術に近いものから、農業、気象、病気、住まい、衣服、料理などから、約一千項目にわたって日常のあらゆる事柄をあつかう日用大百科です。いずれまた、ブログで紹介します。

 

 『民家日用廣益秘事大全』をはじめ、手元にある資料の写真です。写本もいくつかあります。

左半分は、江戸時代のもの。右上、4冊は明治時代の出版物。右下3冊は、昭和(戦前、戦中)のものです。

 

 今回は、昭和の生活百科、3冊の内、戦時中の一冊をとりあげます。

 

 昭和13年7月、主婦之友7月号(第22巻7号)附録『家庭報国 廃物利用五百種』です。

 

裏表紙には資生堂の広告が出ています。アールデコ様式が色濃く残っています。

 

『廃物利用五百種』ですから、目次も細かい。

 

 もう少し、拡大すると

空缶の利用が目につきます。石油、しょう油、油、缶詰、菓子、海苔の空缶を利用した小物作りが、それぞれ4種程のっています。

 

 紙やゴム、箱類の活用も。

 

 衣類の利用は一番多くあります。その他、タバコの銀紙や空箱、蓄音機の古針、金具類の利用まであります。

 

 右ページは空き籠の利用。上、空籠で涼しい電灯傘、中、空籠で可愛い小物入れ、下、空籠で可愛い手提げ籠。

左ページは、古布の活用。上、男子用靴下で椅子布団、中、婦人用絹靴下で美術壁掛け、下、桃の種で高級帯止。

 

古布活用はまだまだあります。

右ページ。上、古毛布で温かい防寒用ショール、下、古ネクタイで便利な物差し入れ。

左ページ。上、セルの古着で炬燵布団。下、ぼろ布で豪華な絨緞。

この左下の絨緞は確かに豪華に見えます。

作り方:ぼろ布を裂いて三つ組とし、ぐるぐる渦巻に閉じて作ったものをパッチワークの要領で縫い合わせる。

 

 

右ページ。上、帯芯の残りでテーブルセンター、中、縞や絣の古布で椅子カバー、下、洋服の小布で可愛い動物玩具。

テーブルセンターの作り方:帯芯の残り布に、反物の包み布を、市松に縫い付ける。

これなど、今見てもハッとする斬新さです。帯のテーブルセンターは、今でも、骨董市漁りをする御婦人方のメインターゲットの一つですよね。

 

 以前紹介した、灯火管制用カバーを空缶で作っています。

作り方:缶詰の缶をあけるとき、切り離さずに本体と繋いでおきます。底も、同じように切り離さず、一部を残して切ります。底板に電球の首が通るくらいの穴をあけます。穴の周囲に紐通し用の小穴を4つあけ、紐を通してコードに固定できるようにします。これで、管制用の電灯ができあがりです。空襲警報のサイレンが鳴ったら、下の蓋をぐっと押し上げるだけで、完全に暗くなります。

なるほど、これはアイデア。でも、空襲警報が解除された時には、相当熱くなっているでしょうね(^_^;)

それにしても、 昭和13年のこの時点で、もう、防空管制灯用の手作りグッズが載っているとは、驚きです。

 

洋傘の骨で小物干し:

布を取り去り、骨の先を2㎝ほど曲げておく => 足袋、靴下が風で飛ばない

中骨のところに、洗濯ばさみを取り付ける => 小物を数干せる

傘の柄の真ん中辺に穴をあけ、柄の上部から紐を垂らし、紐端に釘をとりつける => 釘を穴に差し込めば中開きで止められ、小物を干すのに好都合。大きなものを干すときは、全開。

強風の日は、小さな袋に小石を入れ、傘の先にぶら下げておく。不用時はたたんでおく。

 

 魚の頭、骨、尾の利用。

鰹で風雅な小楊枝:鰹の尾を茹でて干す。皮をむいて、一本ずつほぐしバラバラにする。象牙細工のように綺麗な小楊枝で、一流の料理屋で使っていたんだそうです。

 

定番の布細工。ずいぶん、たくさんあります。

骨董市などで、着物をリメイクした洋服とカバンで、さっそうと歩いていらっしゃる御婦人方のルーツはこのあたりにありそうですね。

 

 もう一冊、戦時下の日用百科がありました。

昭和15年1月、雑誌『婦人倶楽部』の附録「経済上手の奥様方経験発表 物価高征服のお台所経済宝典」です。

読者から寄せられた、節約アイデアが満載されています。

 先の小冊子が、昭和13年、これは、昭和15年です。戦局が危うくなってきた頃です。表紙の女性も前の小冊子とはかなり異なる雰囲気です。

で、どんな節約のアイデアがある?・・・・と思って、本を手に取ろうとしましたが、この女性の姿はどこにもみあたりません。うず高く積まれたガラクタ類の山の中で行方不明になってしまいました。いつか巡り合えたら、また、節約術をご報告します(^_^;)

江戸時代に花開いた生活百科、その後、明治、大正、昭和となるにつれ、内容が分化し、独立するようになってきました。今回紹介した、『廃物利用500種』や『経済宝典』はその例です。

考えてみれば、昨今流行の『断捨離』や『終活』も、生活百科の行きついた先の一つでしょう。時代の流れとはいえ、寂しい生活百科です(^_^;)

 

 

 

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敗戦特集 8.靴下更生器

2019年08月20日 | 敗戦特集

 

戦時中に作られら、靴下を再生する器具です。

題して、『強国靴下更生器』。

「一足が数足に使へる」「勝ち抜く為の資源愛護」「必ず備へよ一家に一組」など、いかにも戦時中らしい標語がおどっています。

定価 40銭。 実用新案。

使用法図解とボール紙で作った型紙がついています。

 

足型と丸型。足型は、大22.7㎝、小、16.7~20.6㎝可変です。

丸型は、6、 4、 2.7㎝の3種。それぞれ、一回り小さな丸紙で二重になっています。

 

二種類の更生法があるようです。

第一使用法は、足型を使う方法(底全部の付け替え)です。

(一)破損靴下の上部か別の布を裏返し、足型より少しい大きめに切る。足型をあて、細棒で足型の穴に布を差し込んで、足型に布を留める。

(二)底が破れた靴下の底部を切り取る。

(三)(二)の布を裏返し、(二)の足型布を穴に差し込む。最初に段縫いをして、足型を抜きとり、本縫いをする。

 

(四) 余りの布部を切り落とし、表に返す。

 

 

 

第二の使用法は、丸型を使う方法です(かかと、つま先の修繕)。

(一)適当なあて布を丸型より大きく切り、丸型の小さい部分へヘラでおしこむ。

(二)破れた靴下を裏返し、あて布を挟んだ丸型を穴から入れる。

(三)絞るように軽く押さえて、丸型の後ろで2枚の布を縫う。

四)(五)丸型を抜きとり、余分な布部を切り、あて布の余りの部分をまつる。

 

 

 

もう一種類、あります。

『廃品再生 靴下更生器』です。

「一足が数足に使える」、「資源愛護」、「物資節約」、「廃物利用は家の富・国の富」のスローガンがおどっています。

内容物は、先の更生器とほぼ同じ。少し、簡易版です。定価 35銭。

取り扱い説明は、包み紙の裏に簡単に書いてあります。内容は、先の更生器と同じです。

 

 

 

さらに、もう一種類あります。

『各種靴下更生型紙』です。

おおげさなスローガンは書かれていません。

特許出願中とあります。

 

型紙が二種入っています。

 

袋の裏側に使用法が書いてあります。

頭がゴチャゴチャしてきて、よくわかりません。

 

拡大しておきますので、各自で読み取ってください(^_^;)

 

 

 

 

靴下は、特定の部分が擦れて破損します。戦後しばらくの間は、家庭で、破損部を繕って長くはき続けました。家庭の力が大きかったのです。

現在、地球規模で、省資源や省エネルギーが謳われていますが、なかなか思うようにすすみません。

こんな類の品が手近にあれば、案外、うまくいくかも知れません。

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