遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

師匠の笛で遅生が打つ ~ 天鼓 ≪楽≫ ~

2020年05月31日 | 能楽ー実技

久しぶりの能、囃子です。

今回は、能、天鼓の後場、舞い≪楽≫を中心とした囃子で、小鼓を打ちました。

例年の稽古会ですが、コロナが蔓延し始める、ギリギリの時期、滑り込みセーフでした。

その後はあのコロナ騒ぎですから、呑気に小鼓でも打っていようものなら、「このご時世に不謹慎な」と、コロナより怖い自粛警察が乗り込んできかねません。で、笛や小鼓の鳴り物は鳴りをひそめていたわけであります(^^;

 

能 『天鼓』

中国、後漢の時代。王白王母夫婦の子、天鼓は、妻が天から鼓が降り、子を身ごもる夢をみた後、授かった子供でした。その後、本当に鼓が天から降ってきました。天鼓がこの鼓を打つと、えも言われぬ妙なる音色で、人々を感動させました。噂を聞いた皇帝は、鼓を献上するよう命じますが、天鼓は拒み、隠れます。しかし、捕らえられ、呂水に沈められてしまいます。鼓は宮中へ運ばれましたが、誰が打っても音が出ません。

そこで皇帝は、天鼓の父、王伯を召しだし、鼓を打たせました。すると、世にも妙なる音色が響き、その奇跡に心を打たれた皇帝は、老父をねぎらい、天鼓を弔おうと決めました。そして、呂水のほとりで音楽法要をいとなんでいると、少年、天鼓の霊があらわれ、懐かし気に鼓をうち、喜びの舞をまいます(≪楽≫)。満点の星の下で楽し気に舞い興じた後、ほのぼのと夜が明ける頃、夢幻のうちに天鼓は消えていくのでした。

【今回の囃子】

打ち鳴らす其声の。打ち鳴らす其声の。

呂水の。波は滔々と。打つなり打つなり汀の声の。
寄り引く糸竹の手向の舞楽はありがたや。

         《≪楽≫≫

面白や時もげに。面白や時もげに。

秋風楽なれや松の声。
柳葉を払つて月も涼しく星も相逢ふ空なれや。烏鵲の橋のもとに。
紅葉を敷き。二星の。館の前に風冷かに夜も更けて。夜半楽にもはやなりぬ。
人間の水は南。星は北にたんだくの。
天の海面雲の波立ち添ふや。呂水の堤の月に嘯き水に戯れ波を穿ち。
袖を返すや。夜遊の舞楽も時去りて。五更の一点鐘も鳴り。
鳥は八声のほのぼのと。夜も明け白む。時の鼓。数は六つの巷の声に。
また打ち寄りて現か夢か。また打ち寄りて現か夢幻とこそなりにけれ。

 

≪楽≫

能の舞いの一つで、雅楽の舞楽を模して舞う舞いです。したがって、「天鼓」「富士太鼓」「鶴亀」「邯鄲」など中国や舞楽に関係する能で舞われることが多いです。序の舞や中之舞など、呂中干形式の舞いとは異なり、どこか異国情緒が漂う、軽快な舞いです。

太鼓が入ることが多いですが、今回は、笛、大鼓、小鼓だけの大小物です。

今回、師匠の笛で小鼓を打ちました。師匠、相当に気合いが入っていて、笛に位負けですね(^^;

謡いは、私の謡いの師匠、京都、観世流M師です。大鼓は、石井流K師です。

長いですが、よかったら、聞いてみてください。

囃子『天鼓』(19分のうち≪楽≫12分)

https://yahoo.jp/box/YSWOGA(ダウンロードしてください)

 

 

 

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能楽資料3 弘化五年宝生勧進能番組、勧進能興行場所全図

2020年05月29日 | 能楽ー資料

今回の品は、弘化五年宝生勧進能番組(3日目)と勧進能興行場所全図、2点です。

別々に入手しました。

江戸時代、能は幕府の式楽とされ、主な能楽座は、幕府や大名の専属であったため、一般の人々が能を鑑賞できる機会は、非常に限られていました。その中で、勧進能とよばれる大規模な興業が行われ、多くの人々が一流演者の能を楽しみました。

勧進能とは、本来、寺社を建立する寄付を集めるためのものでした。しかし、江戸時代には、能役者が興行収入を得るためのものになりました。江戸の勧進能は幕府のうしろだてで行われたため、町人や大名に入場券が強制的に割り当てられたため、太夫は莫大な収入を得ることができました。大規模な勧進能は、ほぼ数十年に一度行われ、観世太夫が生涯に一度だけ許される一代能でありました。しかし、江戸後期、将軍家斉、家慶の強い庇護をうけた宝生座は繁栄し、幕末、観世座の独占していた勧進能を行いました。それが、弘化五年宝生勧進能です。結果的には、これが江戸最後の勧進能となりました。

この時の太夫は、15世宝生弥五郎友干 (ともゆき) で、弘化5 (1848) 年に 、大勧進能を催しました。

2月6日から5月13日にかけて、晴天時の15日間、多い日には5000人、延べ5万7000人もの人々が入場したといわれています。

 

  『弘化五年宝生勧進能番組(3日目)』   

   

17.5 x 56.5 ㎝  薄い和紙に、木版刷り。

正式には、「弘化五戊申年従二月於筋違橋御門外晴天十五日之間勧進能興行 三日目番組」。

 

           宝生蔵版、文花堂

当時の能公演は、現在とは比較にならないほど多くの演目を、1日にこなしました。この3日目のプログラムでは、狂言を除いても、7つの能が演じられました。

翁、竹生嶋、八嶋、杜若、隅田川、土蜘蛛、猩々。

宝生太夫(知栄)が、竹生嶋と隅田川を演じています。

注目されるのは、杜若(小書、沢辺之舞)です。シテは、宝生石之助(太夫宝生友干の次男)、後に最後の宝生太夫となり、明治の三名人といわれた宝生九郎知栄です。この時、若干、12歳。幼少時から、卓越した技量であったことがわかります。

宝生九郎の謡いは、流麗にして気品にあふれ、舞台の品格の高さでは右に出るものはいなかったと言い伝わっています。

 

    『弘化五年宝生勧進能興行場所全図』

    39 x 52 ㎝、少し厚手の和紙に木版刷り。     

場所は、神田筋違橋御門外(現在のJRお茶の水と秋葉原の間)の幕府の土地、二千四百坪、敷地の周囲は惣囲い(板製、高さ1丈5尺)が設けられ、外からは中が見えないようになっていました。内側には、舞台、楽屋、番所、売店など多くの建物が建てられました。舞台は江戸城内の能舞台を模した本格的なものでした。

入り口は、北東に、楽屋門、鼡木戸、南側に、大名門、下座敷門があり、身分などによって、入り口が分けられていました。各門の脇には、番所がありました。

東側の塀の長さは五三間以上という、非常に大規模な建築物でしたが、勧進能興行のための建物群であり、興業が終わると解体されました。

「弘化五戊申年従二月於筋違橋御門外晴天十五日之間勧進能興行 勧進能興行場所全圖」とあります。宝生蔵版、文花堂。

上の「弘化五戊申年従二月於筋違橋御門外晴天十五日之間勧進能興行 三日目番組」と同じ版元です。

 

江戸時代の勧進能は、建築学的に見ても興味深いものであり、学術雑誌に建築物としての分析がなされています(丸山奈己「江戸時代後期における一世一代勧進能興行場」日本建築学会計画系論文集、第77巻第673号、675-684, 2012)。本ブログで参考にさせていただきました。

また、弘化宝生勧進能の絵巻も残されています(法政大学能楽研究所デジタルライブラリー)。その中の絵図を以下に、適宜、挿入します。

    『弘化勧進能絵巻』(法政大学能楽研究所蔵)

 

まず、『弘化五年宝生勧進能興行場所全図』の右上、北東の部分です。

            北

            南

 

もう少し拡大します。

      絵巻。櫓台と鼡木戸付近

入り口は、3カ所あります。

一番上方(北)には、楽屋口があり、能楽師たちはここから出入りします。

少し南に、櫓の両側に鼡木戸が2か所あります。これが町人の入口です。くぐって入る狭い木戸です。

櫓の北側の鼡木戸を入るといろいろな建物が並んでいます。

畳場札役所、名主方詰所、大工鳶方詰所、中買五軒。

畳場札役所は、畳場(見物席)の入場券(畳札)の受け取り所です。勧進能担当の町名主や建物破損にそなえた職人の詰所もあるのです。

反対(南)側には、御出役衆番所、供之者扣所、御出役衆休息所、御出役同心衆見張所があります。

 

 

櫓の南側、もう一つの鼡木戸を入ると、まず札売場、入込札改所、そして売店があります。その横には、ベン所があります。このようなベン所は、敷地の南東と南西にもあります。また、楽屋関係の場所にも、2か所あります。ベン所は、全部で5カ所です。

 

2つの鼡木戸の間に設置された太鼓櫓。朝夕に太鼓が打たれました。

 

全体図の上右(北)中央よりの部分です。

演者関係の建物は、北側に、番所、腰掛、玄関、使者の間、楽屋、楽屋、楽屋、太鼓楽屋、大鼓楽屋、小鼓楽屋、元方詰所、笛楽屋・・と続きます。

その南に接して、御出役衆支度所、同仕出し、楽屋、調事之間、皮ほうじ(大鼓の皮を炙るための部屋)、囃子座、そして舞台があります。

 

全体図の中央部分です。

舞台は南向きで、その前に客席が広がっています。

客席は、畳場、入込場、桟敷と、大きく3つに分かれています。

畳場は前方の升席で130坪、入込場はその後方の仕切りのない大衆席で250坪、合わせて380坪ほどの広大なものでした。この場所には、雨障子などで簡易屋根が付けられ、採光と音響に配慮がなされていました。

桟敷は2階建てで、将軍、大名、武士、町奉行、町年寄などが利用しました。将軍席は設けられていましたが、家康をのぞいては、鑑賞に来た将軍はいなかったそうです。

 

全体図の北側中央部です。

舞台、橋掛かり、鏡の間の配置は、現在の能舞台と同じです。

能舞台。鉢の木が演じられています。

 

全体図の左上(北西)の部分です。

舞台の北西にも、能演者関係の部屋が続いています。

鏡之間から、狂言楽屋、家元太鼓楽屋、家元小鼓楽屋、家元笛楽屋、脇楽屋と、狂言や囃子方の楽屋が続いています。

その南には、シテ、脇方関係の部屋があります。シテ楽屋、觸流衆詰所、太夫楽屋、面部屋、用部屋があります。その東には、御右筆衆、觸流衆、太夫桟敷、〇役者持などの部屋があります。右筆、觸流は、幕府の使者として、太夫への品や文を届ける役目をしていたと考えられます。

 

全体図の左下(南西)部です。

御大名門と下座敷門があり、脇にそれぞれ番所が付いています。大名は大名専用の門ですが、下座敷門は1万石以下の大名や藩士のための門でした。

 

勧進能は、江戸だけでなく、京都や大阪などでも行われました。しかし、規模の大きさだけでなく、大名(時に将軍も)や一般武士と町人とが同じ能舞台を観るという点で、江戸の勧進能は画期的なものでした。

明治維新で、一度は消滅しそうになった能ですが、その後、宝生九郎などの名人の活躍もあって、息を吹き返しました。

しかし、もう一つ重要なことがあります。それは、人々の間に、能の素養が培われていたことです。江戸時代、普段から、武士だけでなく、町人の間にも、謡いが広く嗜まれていたのです。

勧進能は、江戸の人々に、謡いだけでなく、能とはどういうものかを示す場でもあったわけです。

このような土壌があって、明治時代、かつてないほど、能が興隆したと思われます。

 

 

 

 

 

 

 

 

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能楽資料2 錦絵 周延『青山仮皇居御能ノ図』

2020年05月27日 | 能楽ー資料

明治初期の錦絵『青山仮皇居御能ノ図』です。

         37x73㎝ 

 

 

揚洲周延(1838-1912)筆、明治11年(1878)7月20日届

 

この絵は、明治11年7月5日、英照皇太后(明治天皇の義母)の居所、青山御所の能舞台ひらきの様子を描いたものです。

舞台では、初世梅若実(シテ、正尊)によって能『正尊』(前場)が演じられています。

舞台に最も近い中央正面に、軍服姿の明治天皇、その左に宮中の女官たち、左上(脇正面)には、政府高官たちが描かれています。

この能舞台は、赤坂離宮と命名された英照皇太后の御所の中に、明治11年に建設されたものです。

明治5年、英照皇太后(孝明天皇の妃、明治天皇の義母)は、京都から紀州藩徳川家の屋敷跡地に移り住みました。それが赤坂離宮です。ところが明治6年に皇居が焼失したため、明治天皇もここへ移り、青山仮御所となったのです。

明治天皇は、大変な能愛好者であった英照皇太后に対する御孝養として、能舞台をこの場所に設えたといわれています。その裏には、岩倉具視たちが中心となり、衰退の一途をたどっていた能楽を興隆しようとの企図があったようです。

明治11年7月5日の舞台ひらきは、梅若実(初世)が全体をとりしきり、観世鐵之丞、宝生九郎、金剛唯一らが参加した大規模なものでした。演能は午後10時まで続き、その後、晩さん会がもたれました。

この催しの2年前(明治9年)には、岩倉具視邸において天覧能が3日間もたれ、英照皇太后・明治天皇・皇后(昭憲皇太后)そして華族たちが、梅若実たちの能を楽んでいました。

このように、岩倉具視の天皇を利用した能楽興隆策は功を制し、世間から忘れ去ろうとしていた能は、息を吹き返したのです。

一方、能演者側にも、必死で能を守り、再び興隆させようという動きが興りました。

明治維新により、幕府、大名に召し抱えられていた能楽者たちは、路頭に迷うことになりました。観世太夫は、徳川慶喜に従い駿府へ下り、公演や収入が見込めない状況の中で、廃業、転業する能関係者も多くいました。このように、消滅しかかっていた東京の能楽界で、ほとんど一人で奮闘したのが梅若実(初世、52代梅若六郎)です。彼は、卓越した技量に加え、能楽界を背負う気概、そして、時代の先を読む能力を備えた人物でした。ほどなく、宝生九郎も加わり、瀕死の状態にあった明治の能楽界は息を吹き返しました。そして、能楽愛好者の裾野はどんどん広がり、能はかってないほどの勢いで興隆したのです。

梅若実、宝生九郎、桜間伴馬は、明治の3名人と呼ばれています。以来、梅若家の当主、梅若六郎は、最終的に梅若実を名乗ることになりました。当代、56代梅若六郎は、2018年に、四世梅若実を襲名しました。

 

        能『正尊(しょうぞん)』

木版画『正尊』(前場)(明治時代)  12 x 17 cm

起請文を読み上げる場面。

 

 『青山仮皇居御能図』 『正尊』(前場)

起請文読み上げの後、酒宴で静が舞う場面。

 

           『正尊』

源頼朝と義経は不仲となります。その後頼朝は、義経暗殺の命を出し、京の義経のもとへ土佐ノ坊正尊を送り込みます。正尊は、弁慶や義経に怪しまれますが、偽の起請文を読み上げ、急場をしぎます。偽と知りながらも、起請文の名文にうたれた義経は、酒宴を催し、正尊をもてなします(前場)。正尊らは夜討をかけますが、義経たちに事前に察知され、激しい戦いの末、正尊は捕らえられてしまいます(後場)。


前場の起請文の読み上げが、この能の最大の山場であり、重習いとなっています。『正尊』の起請文は、『安宅』の勧進帳、『木曽』の願書とともに、能の三大読み物と呼ばれています。節のある通常の謡いとは異なり、非常に難しいものです。読み物では、演者の力量がはっきりとうかがえ、能鑑賞の醍醐味が味わえます。


   

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初期伊万里染付文字紋小皿

2020年05月25日 | 古陶磁ー全般

先日、酒田の人さんのブログで、古伊万里文字文染付皿が紹介されていました。

私も似たような皿を持っていたのですが、この模様が一体何かわからず、ずっとそのままでした。上のブログで、やっとふんぎりがつきましたので、今回アップします。

 

     径 15.8㎝、高 2.9㎝、高台径 5.5㎝

 

器体にゆがみがあります。

 

おちついた釉肌と指跡。

 

1/3高台で、初期の古伊万里に分類される品です。

 

あらためて、染付模様をながめてみました。

 

 

周囲の連続模様は、「几」を並べたような書き方です。

 

この皿の最大の特徴は、中央にデンと座った文字のような模様です。

酒田の人さんのブログで、これは是武字といわれるものであることがわかりました。

でも、「武」や「是」には見えませんが・・・(^^;

 

字の読みはさておき、デザイン的にみても面白い。

文字の中を、棒線で埋めているのです。ハッチングですね。

 

周縁の連続模様といい、文字紋の地のハッチングといい、いろいろな試みを陶工が自由にやっているように思えて、微笑ましい皿です(^.^)

 

 

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能楽資料1 金春札

2020年05月23日 | 能楽ー資料

能楽関係の故玩のうち、資料的な品を少しずつ紹介していきます。

 

金春札と呼ばれている米手形です。

            3.8x14.8㎝   

分厚い和紙に木版刷り。1枚の両面を表示。

 

        

 

縁起の良い大黒さん。

銀一匁の兌換券であることを示しています。

地域の米請屓(こめうけおい)の庄屋、年寄、惣百姓。

 

 

 

能の金春家らしく、高砂の絵が描かれています。

和州(大和の国)の金春米會所が発行した手形です。

 

南都(奈良)引替所でもあるわけです。

 

この品は、広義には、藩札の一種、米手形(米札)で、通称、金春札と呼ばれているものです。

藩札は、江戸時代、各藩が発行し、領内で使われた兌換券ですが、藩以外に、寺社や町村なども同様の紙幣を発行することがありました。

能楽五流派のなかで、ずっと大和を本拠地とし、古い芸風を保ってきたのが金春流です。熱狂的な能愛好者であった豊臣秀吉は金春太夫に能をまなび、金春流を庇護しました。金春家は、大和に所領を得て、経済的に恵まれた状態にあったのです。

江戸時代に入り、能の各座は、幕府、大名のお抱えとなり、扶持米を与えられかわりに、厳しい制約の下で活動をしました。

それに対して、金春家は、奈良に所領をもち、幕末には、独自の兌換券、金春札を発行するほどであったのです。この金春札に記された米請屓の庄屋、年寄、惣百姓の中川村、坊城村、坂原村が金春の所領だと思われます。

なお、通常の米手形(米札)は、米と通貨を結ぶ証明書ですから、米の量とその金銭に換算した額が記してあるのが普通です。とこころが、金春札には、「銀一匁」としか書かれていません。これは、米相場の変動が激しかったためか、それとも、米手形の形式をとっているだけで、実質的な紙幣として金春札を発行したのか、どちらかでしょう。

しかし、明治維新後、藩札類は価値を失いました。金春札もその波にもまれ、取り付け騒ぎが起こり、混乱の中で、多くの貴重な能楽資料が失われたといわれています。そして、金春家は没落しました。

事情は、他の能楽流派も同じで、明治維新後、庇護する大名がいなくなり、能関係者は路頭に迷うことになりました。

明治初期、能楽は消滅の危機を迎えたのです。

小さな金春札ですが、こうやって手に取って眺めていると、能楽の栄枯盛衰が感じられ、感慨深いものがあります。

 

 

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