遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

稀覯本 三浦千春『美濃竒観』

2025年02月28日 | 故玩館日記

明治初期に出版された美濃地誌、三浦千春『美濃竒観』です。

三浦千春『美濃竒観』(上、下)、明治12年。

上巻は36丁、美濃、それも長良川の鵜飼いについて、詳細に記述しています。文章は読むのに時間がかかるので、図を中心に紹介します。

鵜飼の図

新古今 鵜かひふね たか瀬さしこす ほとなれや むすほほれゆく かかり火のかけ 寂連法師

鵜飼船 高瀬さしこす ほどなれや 結ぼほれゆく 篝火の影

鵜飼船が、早瀬を掉さして越えてゆくあたりだろうか、焚火の影が絡まるようにもつれて小さくなっていく。

 

鵜飼漕つれて下す時の位置を見せたる図(右頁)

船の備へかたさまざまあり川の廣狭流の緩急によりて一ならず 此図はその大骸をしめすのミ(左頁)

鵜を使う図
 手縄は鵜匠の左手に握りもつなり
手縄さはく状
鮎吞みたる鵜をひきあけし状(右頁)

鮎を吐する状
篝に松を焼そへる状(左頁)

篝を前へ押出す状(上)
篝を手前へひかへる状(下)

鵜匠手縄持たる圖(右頁)
手縄の圖 
鸕〇の圖(左頁)

手縄圖(右頁、第一圖、第ニ圖)
鮎吞圖(左頁、第三圖、第四圖)

鵜籠圖、諸蓋(右頁)
籠松明(左頁)

鵜飼船の圖

長良川眺望の圖・・・舟橋が見えます

稲葉山

『美濃竒観』下巻(35丁)

下巻は、ほとんど「養老の滝」について書かれています。

  
田跡川の滝(養老の滝)

  
   中納言家持(万葉集巻六 1035)
田跡河(たどかわ)の瀧を清みか古(いにしへ)ゆ宮つかへけむ多芸(たぎ)の野の上に
田跡川の滝が清らかだから、昔から行宮を造って、お使え申し上げたのでしょう、ここ多芸野辺りで。
田跡川:養老の滝に発し揖斐川に注ぐ。
田跡川の滝:養老の滝    多芸野:現、養老町。

千歳楼

養老公園にある老舗高級旅館(1764年創業)。古くから文人墨客、皇族、要人に愛されました。現在も操業中。

養老にちなんだ和歌や漢詩は、非常にたくさんあります。

また、この辺は、東西を結ぶ要衝、古代から歴史的出来事が多くありました。

新興の岐阜、長良川界隈とは歴史の重みが違うのですね。

 

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岐阜城の月

2025年02月25日 | 故玩館日記

先々回のブログで、月岡芳年『月百姿 稲葉山の月』を紹介しました。岐阜城を攻略すべく、夜半、険しい岩山を登る藤吉郎と背後の満月。抒情溢れる浮世絵ですが、稲葉山(金華山)と月の配置があり得ません。けれど、そこは浮世絵、大目に見て鑑賞しましょうということでした。

では、実際の岐阜城はどうか、というのが今回のブログです。

              photo by S.S.

                                                 photo by S.S.

合成写真ではなく、西方向(東方ではない)からの実写です。

浮世絵よりも幻想的!?(^.^)

 

 

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歌川国芳『木曽街道六十九次之内 美江寺 紅葉狩』

2025年02月23日 | 故玩館日記

故玩館の地元、中山道美江寺宿の浮世絵です。

一勇斎(歌川)国芳『木曽街道六十九次之内 美江寺 紅葉狩』

24.3㎝x35.5㎝。幕末。

『木曽街道六十九次』の浮世絵には、2種類あります。いずれも、中山道の69宿を一枚ずつ描いています。よく知られているのは、渓斎英泉、歌川広重によるシリーズです。もう一つは、一勇斎(歌川)國芳による『木曽街道六十九次』シリーズです。したがって、各宿場につき、2種類の浮世絵が存在します。英泉、広重の浮世絵は、それぞれの宿場の情景を描いています。それに対して、国芳は、現実の宿場とは無関係に、ダジャレなどの言葉遊びと繋がった図柄や判じ絵もどきの浮世絵を描いています。こちらの浮世絵は、英泉、広重の品に較べれば、入手しやすいです。

今回の品は、一勇斎(歌川)国芳『木曽街道六十九次之内 美江寺 紅葉狩』です。オリジナル(裏打有)です。

夜、紅葉の下で、3人の美女が酒を飲んでいます。

「木曽街道六十九次之内 美江寺(みえじ) 紅葉狩」のタイトルが書かれています。

しかし、この浮世絵が、どうして、美江寺宿を表しているのでしょうか?

焚火の上には銚子、酒の燗をしているのでしょう。

不思議なのは、美女たちの表情です。三人、三様。中央の女性は泣いています。盃をすすめる女性は口をへの字にまげて怒っている様子。それを見つめる右端の女性は、わずかに口を開けています。笑っているのでしょう。

この絵の左下、徳利の脇には、熊手があります。彼女たちは紅葉の枝葉を掃いていたのでしょう。

なお、サイン「一勇斎國芳画」の上には、「五十六」と小さく書かれていて、木曽街道六十九次之内五十六番目の宿場であることを表しています。

酒を呑んで泣き、笑い、怒る3人。これは、浄瑠璃、歌舞伎の『源平布引滝』四段目の「紅葉山」に登場する三人仕丁と思われます。

平家打倒の密議が発覚し、平清盛によって鳥羽御殿に幽閉されてしまった後鳥羽上皇を救おうと、源行綱は琵琶法師に身をやつして鳥羽殿に潜入します。殿の庭では、三人の仕丁が、紅葉の枝を焚いて暖をとり酒盛りをしていました。この三人は怒り上戸、泣き上戸、笑い上戸で、観客の笑いをさそいます。

上図に添えられていた熊手は、紅葉の枝葉を集めて燃やしていた仕丁を象徴していたのですね。

三人仕丁は、雛飾りの中にもいます。

人物の中で一番下の段の三人。雛飾りでは、唯一の庶民です。

いずれも掃除道具を持ち、左から順に、怒り、泣き、笑った表情をしています。人間の喜怒哀楽を表しているのですね。雛飾りでは、感情豊かで人間味溢れた女の子に成長してほしいと願っているのだそうです。

しかし、これでは「美江寺」に繋がりません。謎を解くカギは、右上部の図にありました。

「木曽街道六十九次之内」は、色々な道具で縁どられています。ほうき、熊手、煙管、袋などとともに、帽子のような物(上中央)が描かれています。これは、奈良時代の冑、それも綿甲(めんこう)とよばれた下級兵士の被り物だと思います。このような品を身につけたのは、衛士(えじ)と呼ばれた徴用人たちです。衛士は、律令制下で、諸国から選抜されて宮廷の警護にあたりました。一方、ほうきや熊手は、仕丁の持ち物です。仕丁は、貴族などの宮廷における雑用係で、地方から徴用されました。このように、衛士と仕丁は異なるのですが、後世にはほとんど同じ意味で使われるようになりました。ですから、雛飾りでは、衛士と仕丁、どちらでもアリです。

したがって、三人仕丁=>三人衛士・・>三衛士==>みえじ(美江寺) となります(^^;

ところで、仕丁や衛士は男性です。しかし、絵には、三人の美女が描かれています。美女たちは、能『紅葉狩り』から来ているのではないでしょうか。

地ク「げにや虎渓を出でし古も。心ざしをば捨てがたき。人の情の盃の。深き契のためしとかや。
シテ「林間に酒をあたゝめて紅葉を焼くとかや。
地「げに面白や所から。巌の上の苔莚。片敷く袖も紅葉衣の。くれなゐ深き顔ばせの。
ワキ「此世の人とも思はれず。
地「胸うち騒ぐばかりなり。

美女(鬼の化身)たちが、紅葉の下、焚火をして酒を楽しんでいるのです。

衛士でもある美女ですから、美衛士=>美江寺(^^;

衛士が焚火をするクダリは、能『鉢木』にも出てきます。

【薪の段】・・・・さて松はさしもげに。枝をため葉をすかして。かかりあれと植え置きし。そのかい今は嵐吹く。松はもとより煙にて。薪となるも理や切りくべて今ぞみ垣守。衛士の焚く火はおためなりよく寄りてあたり給えや。

国芳さんのおかげで、本当にあれこれと頭をめぐらすことができました(^.^)

なお、銚子には、堤(峠?)の上を旅人たちが歩いているところが描かれています。両脇には松が生えています。このような場所は、完全に平地の美江寺宿にはありません。可能性としては、故玩館横の輪中堤が考えられますが、当時の輪中堤はピラミッドのようにするどく、人が往来できるような道はありませんでした。ですから、美江寺ではなく、ごく一般的な街道風景を描いたものだと思います。いわば、オマケ(^.^)

 

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月岡芳年『月百姿 稲葉山の月』

2025年02月20日 | 故玩館日記

今回も地元にちなんだ品です。

月岡芳年『月百姿 稲葉山の月』

26.7㎝x35.6㎝。浮世絵版画刊行会、昭和51年。(オリジナルは明治15-23年)

浮世絵師、月岡芳年が、古今東西の物語などから題をとり、月にまつわる百図を描いたシリーズの中の一枚です。

稲葉山(金華山)の頂には、岐阜城(稲葉山城、井ノ口城)がありました。

その城を夜中に攻め入る武将を描いています。

必死で岩にしがみつき、登っています。大きな瓢箪を背負っています。これは、木下藤吉郎、後の豊臣秀吉ですね。

もう一つ、この図で注目されるのは巨大な月。戦場の場面でありながら、静かな抒情にあふれた情景です。

作者の月岡芳年(1839-92)は、幕末から明治期にかけて活躍した浮世絵師です。歌川国芳の門下で、残虐絵や歴史画を得意としました。その中でも、『月百姿』シリーズは晩年の作で、彼の最高傑作といわれています。

それを、現代の彫師と摺師が見事によみがえらせました。

さて、例によって、浮世絵の実地考証です(^.^)

金華山は、全山、巨大な岩山です。この絵は、そこを必死で登っていく秀吉を、背後から、満月が照らし出しているという憎い画面設定です。このような険しい崖になっているのは、長良川に面した金華山の西側です。したがってこの絵は、南東から対象を描いたことになります。天文には詳しくありませんが、満月は、日が入ると東の空に出て、真夜中には南の空にあり、明け方には西に沈みます。ですから、この絵のように、北西方向に満月が位置する日時があるとは思えません。

また、この絵では、木下藤吉郎が瓢箪を背負っています。彼は、永禄10年、織田信長の稲葉山城攻略で先兵をつとめて潜入に成功し、これが出世の糸口となったといわれています。そして、瓢箪が秀吉の馬印に。実際、金華山頂付近には、「千成瓢箪発祥の地」とよばれる場所があります。そこには次のような説明書きが・・

「永禄10年(1567)8月14日、木下藤吉郎(のちに羽柴秀吉、豊臣秀吉と改称)は蜂須賀小六や山麓の猟師堀尾茂助など僅か七名を従えて、岩戸口から稲葉山城のここまで潜入し、薪小屋に火を放って手柄をたてたと伝えられている。この時、藤吉郎は城兵を倒した鎗先に腰から下げていた瓢箪を結び付け、鎗を振り回しながら大音声で勝鬨をあげたという。以来、秀吉の馬印、千成瓢箪発祥の地とされている。   岐阜市」

しかし、近年、秀吉の稲葉山城潜入や墨俣一夜城築造は疑問視されています。いずれも、講談の演題としては面白いけれど、話が出来すぎ(^^;

でもまあ、浮世絵ですから、この際、かたい話しは抜きで鑑賞すればいいですね(^.^)

 

 

 

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渓斎英泉『木曽街道六拾九次之内五十五 河渡』

2025年02月18日 | 故玩館日記

木曽街道(中山道)の全宿場を描いた木曽街道六十九次の浮世絵のうちの一枚です。

渓斎英泉『木曽街道六拾九次之内五十五 河渡』

26.8㎝x39.1㎝。大正時代?

歌川広重、渓斎英泉による『木曽街道六十九次』シリーズの内、55番目の宿場、河渡(合渡)の夜の風景です。

『木曽街道六十九次』は、広重の『東海道五十三次』シリーズと並んで有名な浮世絵シリーズです。

今回の品は、『木曽街道六十九次』の55番目宿、河渡を描いた浮世絵です。広重がすべてを描いた『東海道五十三次』シリーズと異なり、『木曽街道六十九次』シリーズは、広重と英泉、二人が担当しました。しかも、版元や版木が頻繁に変わり、シリーズの全貌ははっきりしていません。現在、すべてのオリジナル浮世絵が揃ったセットは、10に満たないとも言われています。いきおい、後世に多くの復刻版が作られました。これもまた、混乱に拍車をかけています。

その中で、一番オリジナルに近いと思われるのが、木曽街道版画刊行會による『木曽街道六十九次』シリーズです(大正時代の刷りと考えられます)。今回の品も、その中の一枚でしょう。

長良川の鵜飼の様子が描かれています。

「木阻路ノ驛 河渡 長柄川鵜飼船 英泉画 印(保永堂)」

長良川で漁師たちが鵜をつかって魚を獲っています。ここ河渡宿は、木曽街道(中山道)の宿場町で、長良川の渡しがあった交通の要所です。故玩館のある美江寺宿からは、4㎞ほど東、主に川止め時の客を相手にした小さな宿場町です。関ケ原合戦では、前哨戦がありました。

この場所は、これまでブログで紹介してきた長良川の鵜飼場からは、3㎞ほど下流です。今回の浮世絵が描かれた江戸後期(天保5-10年頃)には、この辺りでも鵜飼が行われていたことがわかります。

漁師の表情など、さすが浮世絵師です。

しかし、よく見ると、川岸に小高い山が迫っています。以前のブログで紹介した長良川の鵜飼いは、金華山の麓で行われていました。ところが、下流のここ河渡はまったくの平地です。近くに山はありません。広重もそうですが、英泉の場合も、現実そのものではなく、脚色した風景を描いているのですね(^.^)

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