遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

蒐集家山本發次郎と三輪田米山

2024年06月02日 | 文人書画

これまで、異色の書家、三輪田米山の作品を紹介してきました。

三輪田米山を語る時、個性の強い大美術コレクター、山本發次郎を抜きにすることはできません。彼は、繊維関係の商店に養子に入り、事業を拡大、發展さすと同時に、美術品コレクターとして活躍するなど、同時期の原富太郎(三渓)と似ています。どちらも、強烈な個性が、コレクションに反映されています。

【山本發次郎(やまもとはつじろう)】明治二十(1887)年 ―昭和二六(1951)年)、岡山県生れ。実業家、美術コレクター。東京商業高等学校卒業後、鐘ヶ淵紡績に入り、後に、大阪の繊維業、山本家の養子となる。家業を発展させつつ、美術品蒐集にのめり込む。画家、佐伯祐三を見出し、書家、三輪田米山を世に出したことで知られる。

山本發次郎は、蒐集の道に書画から入り、1922年の洋行後は西洋画にも関心を広めました。そして、ほとんど無名であった佐伯祐三の作品を高く評価し、1937年に遺作展を開催するなど、その真価を見出しました。しかし、百数十点にもおよぶ佐伯祐三の作品は、空襲でその三分の二が焼失してしまいました。
戦後、彼は憑かれたように、三輪田米山の書の蒐集を始めます。米山書との出会いはすでに、戦前にあったようです。佐伯祐三やモジリア―二などの洋画蒐集以上に、彼は、日本の墨蹟に強く惹かれ蒐集を行っていたからです。主な対象は、白隠、慈雲、寂厳、良寛、そして伊予の僧、明月です。三輪田米山は、明月の遠縁にあたります。おそらくその関係で、發次郎は米山の書に出合ったのではないでしょうか。
意外な事に、佐伯祐三の作品蒐集に較べて、松山での米山書の蒐集は困難をきわめたようです。戦前、佐伯祐三作品の蒐集にあたっては、ある程度の評価が一般にもなされ始めていたとはいえ、積極的に佐伯祐三の絵画購入をしようという競合者はほとんどいなっかたらしい。しかし、發次郎が松山を訪れた昭和二五(1950)年は、戦後まもない時期です。市街地とは異なり、戦火をまぬがれた近郊の村落は、当時比較的豊かでした。そこへひょこりと現れた都会人は、村人にとって、怪しいよそ者としかうつらなかったのでしょう。それでも彼は精力的に活動し、多くの名作を発掘して取集しました。ところが、彼は、翌年、喘息で亡くなってしまいます。蒐集期間は、わずか2年足らず、その間に、日本一の三輪田米山コレクションが成ったのです。
戦前から美術館設立を構想していた發次郎でしたが、生前にその夢はかないませんでした。
遺された主な蒐集品は、昭和五八(1983)年、遺族から大阪市に寄贈されました。墨蹟、染織、近代絵画作品、約600点にのぼります。そのうち、三輪田米山の作品は、71点です。それらは、長く、大阪市立近代美術館建設準備室に保管されていました。しかし、2022年2月、大阪中之島美術館が開館し、ついに、山本發次郎の夢はかなったのです。

左:『山本發次郎コレクションー江戸時代の墨蹟を中心にー』日本書芸院編、読売新聞社、2005年。

右:『山本發次郎コレクションー遺稿と蒐集品にみる全容ー』河崎晃一監修、淡交社、2006年

左は、白隠、寂減、慈雲、明月の作品を多数掲載。

右は、洋画、墨蹟コレクションと論考を掲載。

では、山本發次郎は、なぜ、それほどまでに三輪田米山に入れあげたのでしょうか。
發次郎が遺した文章(右の本)から考えてみます。

「ここに伊予国松山東に、明治四十一年頃まで、毎日斗酒を仰いでは、絶えず書を書いて楽しんでいた、八幡の一宮司がありました。その名は三輪田米山です。
 書風、六朝を咀嚼し尽くし、その上に和風を渾然加味して、高古、悠愓、超脱、清新。仮名漢字共に双絶。楷行草何れもに至り。古今に覇を争ふに足り、少なくとも、我が国近世五百年間不世出の大書家であります。
 右は、昭和二十六年春、大阪市一介の実業人山本發次郎、固く信念をもってこれを断じ、これを世に愬(うった)えんとするのです。
 古来、支那日本の名筆遺墨にして、その肉筆の研究に資しうるものの限りにおいて、高僧慈雲、寂厳、良寛、明月の四人者をもって、ひそかに、五百年来の四大書聖と仰ぎしに、今ここに八十八歳までの長寿を書に三昧せし、三輪田米山をつぶさに知るに至りました。
 その学識の深遠さ、心境の幽玄さと風格の崇高さにおいて、はるかに慈雲に、
 また、その芸術の独創性と個性の強烈、虚実リズムの交奏において遠く寂巌に、
 独りまたその稚拙と枯淡と詩境において良寛に、
 その師承の最もはるかに太古にして本格的たると、その表現のさらに奔放自在超脱無礙たると、およびその運筆のひときわ豪放闊達、変幻極まりなきなどにおいて、総合点最も高く、ついに書家としての力量の限りにおいては、一躍右四人者を越えて、第一位に推すのやみ難きを感ずるまでになりました。」(『山本發次郎コレクション』淡交社、2006年、pp138-139)

「実際、芸術は神に近いか遠いかで位が定まります。情緒と感覚に純粋になれば自由があり、創造があり、生命の溌剌さがあります。真似や衒いや偽りがあっては、凡俗、浮誇な血の気のない、末梢的な芸術になりましょう。
 殊に書は画や彫刻と違って、客観的対象のない、また、詩歌、音楽などのごとく、物か事についての多少とも説明的援助の少しもない、ただ点と線と字形だけによって、最も抽象的名感覚のエッセンスを表現する、自己に最も直接した芸術でありますから、模倣や、衒いや、へつらいなどの不純さがあってはごまかしが利かず、一見俗悪な臭気がふんぷんとして、とても鼻もちができなくなります。書が心の画であり、最も深みのある、芸術以上の芸術であるといわれるゆえんは、ここのところにあると思います。」(『山本發次郎コレクション』淡交社、2006年、p10)

大変引用が長くなりました。

山本發次郎は、書を芸術、しかも、人間の最も深い部分と共鳴する抽象芸術ととらえました。そして、三輪田米山の書作品が、日本や中国の墨蹟の範囲を超え、ピカソやマチスと肩を並べる、世界レベルで芸術性の高いものであると断じています。
人と作品との一体化を見抜き、個性の発露を欠く作品は生命力が無いとの強い信念の下、己の審美眼を信じて、他の意見に耳を傾けようとしなかった彼は、やはり偉大なコレクターであったのですね。

 「蒐集もまた創作なり」

山本發次郎の言葉です。

ガラクタコレクターにとって、この境地ははてしなく遠い(^^;

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三輪田米山の石文・日尾八幡神社(2)

2024年05月31日 | 文人書画

先回の続きです。

鳥居をくぐって、中腹にある本殿をめざします。

神門からずっと石段が続いています。

両脇には、寄進者の名を記した石柱がずらっと並んでいます。数百本もあるでしょうか。驚くのは、寄進金額の大きさ。私たちの辺りの相場の何倍でしょうか(^^;

小高い山の中腹に、かなり大きな社殿が建っています。

大きな注連縄は、注連石に刻まれた米山の『鳥舞魚躍』に対応する(?)ほどの存在感(^.^)

石段を降りて鳥居へ向かいます。

神門をくぐろうとして、ふと上を見上げると、

恐ろしい形相の木像が二体、社殿方向をむいて立っています。このような像は見たことがありません。大きな神門には、たいてい表側の左右両側に随身を設置しています。これは邪悪なものから神社を守るためのもので、社殿を背に参拝者の方を向いています。ところが、この二つの木像は、神門の裏側で、上部に立ち、社殿方向を向いているのです。参拝者が背後から襲われるをの防いでいるのでしょうか。

下まで降りてきました。道路わきには石標が建っています。

『左道後(?)〇〇』

『右へんろ〇』

ここは、交通の要衝でもあったのですね。

玉垣にも、米山による文字が。

「仙波元太郎」は、久米村福音寺の庄屋で、先にブログで紹介した軍人、能筆家、仙波太郎の父です。

 

玉垣の右側には、社務所や広場などが広がっています。

その一角に、大きな石碑。

『三輪田元網先生碑』とあります。生前の功績が細かく刻まれ地ます。

三輪田三兄弟の末弟、元網の顕彰碑です。三輪田元網は、幕末、勤王の志士として名を馳せ、維新後は、中央で活躍しました。地元出身の偉人として、このように立派な碑が作られた(大正―昭和)のでしょう。

一方の米山は、

近年建てられた石碑。

二人の世間的な評価の違いですね。

でも、『一杯』とだけ刻まれたこの碑は、

酒と書を愛しながら、生涯一人身で神社を守り続けた米山にふさわしいと思うのです。

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三輪田米山の石文・日尾八幡神社(1)

2024年05月29日 | 文人書画

これまで、私の持っている三輪田米山の作品を紹介してきました。

米山の書には様々なものがありますが、雄渾豪放な文字を大書した作品に人気があります。

しかし、先回の『升高必自下』に見られるように、溢れほとばしる筆のエネルギーを、紙が受けとめ、墨の形象として残すのは、和紙ではかなり苦しいのも事実です。

一方、米山の作品を、石に彫り込んだ石文が、米山の故郷、伊予南東部には数多く残されています。神名石、注連石(しめいし)、鳥居、墓石など百基以上が、村々の神社や寺など六十数か所にわたって存在しています。

三輪田米山の石文をまとめた本も出されています。

私も、一昨年、米山の地、松山市郊外の日尾八幡神社を訪れ、石文をこの目で見てきましたので、報告します。

 

神社の鳥居の前に立ちます。

確かに本の写真と同じ景色ですが、実際にこの地に立つと、圧倒的な存在感に身が引き締まります。

神名石『縣日尾八幡大神』

米山石文の白眉は、何といっても、注連石(しめいし)。

『鳥舞』と

『魚躍』です。

『鳥舞魚躍』

 「瓠巴鼓琴、而鳥舞魚躍」(列子、湯問篇)から来ています。
 瓠巴、琴を鼓せば、鳥舞ひ、魚躍る(瓠巴は琴名人の名)

翻って、「鳥舞魚躍」は、鳥が空を飛び、魚が水に躍る様子から、万物が自然の本性に従って自由に生きること、さらには徳のある良い治世を表しています。

米山の願いだったのでしょうか。

この二つの石文の前にたたずんでいると、何とも言えない感動が湧き上がってきます。

三輪田米山の作品の中で、最高の作品だと私は思います。

鳥居横の広場には、米山碑が建れられています(近年作)。

『鳥舞魚躍』などの石文と異なり、米山が亡くなってから遺された書をもとに作られたものでしょう。

しかし、

石文は、『一杯』と刻まれています。四、五升もの酒で酔いつぶれる寸前に揮毫して名作をのこした米山にふさわしいものですね。

日尾八幡神社は、天平年間創建の由緒ある神社です。

この地方は、かつて久米村とよばれていました。

村誌をひもといてみると、「三輪田大神久米麿、高市古麿などを斎主と定め、竣工した」とあります。三輪田氏は、創建から関りがあったのですね。以後、神社は、この地方を治めていた久米氏の管轄下にあったようです。その後、戦国時代の混乱をへて、加藤嘉明(賤ケ岳七本槍の一人)が松山城を築造する際、城の東を鎮守する八幡宮として整備し、以後、歴代城主の保護を受けました。

米山をはじめ、三輪田三兄弟が国学や漢籍、和歌、そして書などに深く通じていたのは、神官職の三輪田家と松山藩との長いつながりがあったからでしょう。

 

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三輪田米山の書10.『升高必自下』

2024年05月27日 | 文人書画

三輪田米山の書も、二けたになりました。ブログもやっと区切り。しかも、超難物の名品です。

全体:57.2㎝x181.5㎝、本紙(本紙):44.7㎝x123.0㎝。明治。

三輪田米山は、生涯、数万点もの書をのこしたとも言われています。

その中で、今回の書は、優品に属する物だと思います。

書籍や目録では見たことがありません。

大げさに言えば、新発見(^.^)

しか~~~し、これが読めないのです

この品を入手してから10年、悶々とした日々を過ごしたのでありました

「神斎宵山」?「神斎督日」?

「神」を崩しても、右に﹅が残るはずだし、米山の他の書では確かに﹅が打たれています。「宵」や「督」も、ピッタリの崩しではない。最後の文字など簡単すぎてよけいにわからなくなります

こりゃあタイムアウトか。もはや恥をさらす覚悟で、ブログ読者諸氏の知恵を借りるしかない・・・と開き直り、ブログを書き始めました

そして、ふと、最初の文字は「神」ではないのかもしれない。他の可能性は?・・・・と考え直したところ、「升」が候補にのぼりました。さらに最後の文字は、ひょっとして「下」では?などと、謎解きをすること数時間。ついに、解けました。

『升高必自下』(しょうこうひつじげ)
 
孔子編といわれる五経の一つ、『書経』のなかにある一節です。

「若升高必自下、若砂邇必自邇」

高きに升(のぼ)るに必ず下(ひく)き自(よ)りするが若(ごと)くし、遇(とお)きに捗(のぼ)るに必ず邇(ちか)き自(よ)りするが若(ごと)くす。

遠くに行くには、必ず近くからスタートするのと同じく、高みへのぼるには、必ず下から始めなければならない。

高い目標をかかげ、行動する際には、謙虚さと地道な努力が必要だという教えです。

四文字ではなく、五文字だったのですね(^^;

実は、この掛軸、大変傷んでいます。

焼けや小傷は仕方ないとしても、文字の剥離が見られるのです。

すは、贋物!?

でも、印刷物の一部が剥がれるなんて聞いたことがありません。それに、どうみても時代を経た掛軸です。印章の肉の色も褪せています。

そこで、じっくりと観察しました。

白くなっている部分の右端は、墨があった痕跡が薄い曲線になって残っています。確かに剝れたのですね。

剝れた左上の箇所を拡大すると、

紙の上にのっている墨がなくなって、紙の地が表に出ていることがわかります。

この掛軸は、無地の部分に、多くの小傷があります。

上側の白い繊維がなくなって、下地が出ています。

それに対して、墨が剥がれた箇所では、白い繊維はそのまま残っています(一つ上の写真)。

ですから、筆で書いた墨だけが、紙から脱落したわけです。

これは一体どうしたことか!???

書をしたためる和紙は、墨の滲みを防ぐため、膠を塗ってあるそうです(ドーサ引き)。絵の場合は、さらに胡粉を塗ります。

今回の用紙は、拡大してみると、表面に紙の繊維が白く広がっています。おそらく、胡粉を混ぜた膠液を塗ってあるのではないでしょうか。その効果で、たっぷりと墨を含ませた米山の筆を、滲むことなく受け止めることが出来たのでしょう。しかし、その分剥離しやすく、一部がペロリと捲れ、脱落してしまったというわけです。

作品としては疵物ですが、米山の書らしい品とも言えるので、このまま大切にしたいと思っています(^.^)

 

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三輪田米山の書9.紀貫之『ちはやふる』

2024年05月25日 | 文人書画

私の持っている三輪田米山の書の中で、一番、年老いた時の作品です。

 

 

『ちはや布留神乃い可幾尓はふくつも
 秋丹ハあへすうつろひ尓々り』 米山八十六翁書

「ちはやふる神のいかきにはふくつも
 秋にはあへすうつろひにけり」(紀貫之『古今和歌集』巻五、秋下)

「千早振る神の斎垣に這う葛も
 秋にはあえず移ろいにけり」

神社の垣根に生えている生命力の強い葛も、秋の移ろいには逆らえず、木々の紅葉と同じように葉色が変わってしまった

三輪田米山は、88歳まで長生きした人です。今回の品は、最晩年に近い、86歳の書です。以前に紹介した85歳の書『夏衣』に較べると、心なしか、トツトツとした感じが増しています。また、文字の横張りもおとなしくなったような気がします。

最晩年、88歳の書も残されているので、何とか頑張って入手したいと思っています(^.^)

さて、今回の書は、古今和歌集、紀貫之の和歌をしたためた物です。例によって、この歌を艶めいて解釈する説もありますが、ここは素直に、上述の意とするのが良いと思います。

神聖な神社の垣根にまとわりつく葛だから、神の力を得て、いつまでも緑色を保っているはずだ。しかし現実には、秋になると、季節の移ろいには抗しきれず、他の木々や草花と同じように、衰え、色が変わってしまった。

この葛は、神職の家に生れ、星雲の志を持ちながらも、長子として、家と神社を守る道を、ずっと一人で歩まざるをえなかった米山の姿そのものではなかったでしょうか。

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