遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

陶胎七宝草花紋四方香炉(茶心壷)

2024年07月30日 | 陶磁胎七宝

今回の品も少し変わった陶胎七宝です。

 

 

 

幅 9.3㎝、奥行 9.3㎝、高 11.0㎝(四角部, 7.6㎝)、重 461g。明治初期。

クリーム色の薩摩系陶土で、四方形の壷が成形され、表面に泥七宝が施されています。

側面が絵違いの草花紋になっています。

 

 

菊:

桔梗:

菖蒲:

不明花(^^;

地を、ハート形の植線で埋めているので、錦光山系の陶胎七宝でしょう。

特筆すべきは、器形です。ボディは、轆轤を使わずに立方箱を作り、轆轤成型した口を付けています。

内側は施釉されていますが、口の外側はには釉薬が掛かっていません。

これは、蓋の受けですね。元々は、陶磁器の蓋(おそらく泥七宝)をするようになっていたと思います。

その蓋が破損したか、失われたのでしょう。

そこで、紫檀で蓋をしつらえて、香炉にしたのだと思われます。

じゃあ、もともとは何だったのか?

これは、蓋つきの茶壷として生まれてきたのではないでしょうか。

ずっと以前に紹介した陶胎七宝花鳥図茶壷と並べてみました。

ちょっと蓋を拝借すれば、

何とか様になりました(^.^)

やはり、煎茶用の茶心壷(茶壷)でしょう。

丸筒形が一番多いですが、なかには、六角筒形、そして、まれではありますが、今回のような四方形の茶心壷があります。

その意味では、今回の品はマニアック(^.^)

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陶胎七宝草花鳥紋鶴首花瓶(1対)

2024年07月28日 | 陶磁胎七宝

今回の品は、鶴首花瓶(瓶子?)1対です。

先回の小皿と同じく、類例の少ない物です。

同じ模様(逆向き)の鶴首花瓶、2本です。

口径 1.3㎝、胴径 5.8㎝、高台径 3.3㎝、高 11.6㎝。重 110g(1個)。明治初期。

軟陶で、胎土はクリーム色の陶土、やはり薩摩系でしょうか。

草花と鳥が泥七宝で描かれています。これまで多く紹介してきた錦光山系の七宝模様とは、少し異なるようです。

鶴首は、2パターンの幾何学模様が施されています。

一方、胴には、鳥、

鳳凰、

草花、

そして、草花(?)が描かれています。

底には、色釉で謎のドット。しかも、二個ともに。まさか、疵を隠すためではないでしょう(^^;

ん!?、もしかして・・・

ドットを合わせてみると・・・・

二羽の鳥が向き合っています。

反対側は、

鳳凰も向き合い。

どうやら、二個の花瓶を置く時の目印のようです。

これは、明らかに、西洋人を念頭にしていますね。

この鶴首花瓶も、輸出向けの品だったのでしょう。

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陶胎七宝波千鳥紋小皿(5枚)

2024年07月26日 | 陶磁胎七宝

陶胎七宝の小皿、5枚です。

模様にわずかの違いがありますが、すべて波千鳥紋です。

 

口径 10.7㎝、高台径 5.5㎝、高 2.3㎝。重 111g。明治初期。

胎土は、これまで紹介してきた薩摩系の土とはことなり、くすんだクリーム色の半陶半磁の陶土です。

裏面には、非常に細かいジカンがびっしり見られます。

高台は付け高台、内側には所々に細かい砂が付着しています。

外縁に2本、高台付近に2本の圏線が、くすんだ色の呉須で描かれています。このように染付けを併用した陶胎七宝は、初見です。

どこで生産された品か、全く見当がつきません。

七宝部を見てみます。

やはり、これまでの京薩摩、錦光山系の陶胎七宝とは異なるようです。

外周を、幾何学模様でぐるりと囲み、中央に波千鳥紋を描いています。白で千鳥、岩、波しぶき(白〇)を、青で海、波しぶき(青〇)を表しています。

中央右下には、ぐるっと囲んだ黄〇が途切れて、波が押し寄せている様子が表されています。芸が細かいですね(^.^)

七宝釉の入ったヒビと金属植線の模様が呼応しあって、面白い効果を出しています。

顕微拡大してみます。

岩(白)に丸いしぶき(青)。

千鳥の下の部分。

植線は、青の海にまで伸びています。

氷裂模様のようです。海は、このような模様で埋まっています。何でもないようにみえる模様ですが、植線で、きちんとした形ではなく、不定形模様を表すのは非常に難しいです。

大変毛色の変わった陶胎七宝です。

小さなわりに手が込んでいる・・・・輸出品ではなく、国内向けの品でしょう。

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陶胎七宝草花紋蓋物

2024年07月24日 | 陶磁胎七宝

久しぶりの陶胎七宝です。

陶胎七宝は、陶器の器に前近代の七宝釉(泥七宝)を施したもので、明治前期、20年足らずの短い期間にだけ作られました。

これまで、10点の陶胎七宝を紹介してきましたので、今回の品は11点目になります。

径 12.9㎝、底径 6.5㎝、高 7.2㎝。重さ 433g。明治初期。

胎土は、京薩摩と同じです。

七宝は、やはり泥七宝です。

蓋と容器には同じような草花紋、幾何学紋が施されています。

これらはの特徴は、これまで紹介してきた錦光山系の陶胎七宝と共通しています。

ただ、今回の品では、

中央に、アールヌーボー調の葡萄模様が配置されています。当時の流行模様です。

輸出向けの品だったかも知れません。

 

 

 

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こんな人もいました

2024年07月22日 | 故玩館日記

祖父の関係物の中から、こんな掛軸が出てきました。

老女の肖像画です。祖父が、絵師に描かせたものでしょう。

この人は、祖父の母、私の曽祖母、つまり、ひいばあさんです。

当然、顔かたちは全く知りません。

天保14年生れの彼女は、明治の初め、3人の男子をもうけました。しかし、夫はまもなく他界。女の細腕ひとつで、子供たちを育て上げました。

とまあ、ここまではよくあるお話しです。

明治になったとはいえ、中山道はまだ、人と物が行きかう要路で、故玩館のある小さな宿場町もそれまで通りの賑わいをみせていました。江戸時代の文献には、「飯盛女と流れ者の街」と書かれています。当時の宿場の様子がうかがえますね。

私の家は、小地主の傍ら、口入れ屋も兼ねていたらしい。曾祖母は、一人で、それを一気に拡大したようです。面倒見のよい彼女のもとへは、荒くれ男たちが、「アネさん、アネさん」と猫のように慕い集まって来たそうです。そして、流れ者たちを職に就かせ、住まいを世話し、所帯をもたせたのです。その数は、一人や二人ではなかったらしい。小さな宿場町を、実質的に取り仕切っていたのです。
今風に言えば、社会活動家でもあったわけですね。

3人の息子のうち、長男は明治24年の濃尾大震災で亡くなりました。ですから、祖父は次男です。あらゆる建物は倒壊し、この辺りは、一瞬にして平原になってしまいました。全く動きがとれない中、祖父と弟は、やむをえず、亡骸を風呂桶に入れて、墓場まで運び、葬ったそうです。物や人を手配することなどとても無理だった時に、散乱していた元々の柱などを利用して、まがりなりにも住家を再建できた(現在の故玩館の原型)のは、あの荒くれ男たちが力をかしたからではないでしょうか。

私の家は、道楽が隔世遺伝しています(^^;  私のガラクタ蒐集、祖父の花狂い、さらにその2代前、高祖父は俳諧狂い。江戸時代、俳句を本格的にやろうとすると、芭蕉にならって、日本各地を旅し、土地の俳人たちと交流を重ねなければばなりませんでした。いつの時代も、道楽は、金と時間を浪費しますね(^^;  当然、家は傾きます。そして、次の代の人間が、その穴を埋め、興し直さねばなりません。曽祖母は損な役回りの代にあたっていたのです。ところが、たまたま寡婦となった時、もって生まれた能力が開花したのでしょう。女親分は、中興の祖となったわけです(^.^)

幼稚園に行く前の小さな頃、私にはかすかに覚えている出来事があります。
夕方、薄暗くなると、知らないお爺さんがやってきて、大きな声で叫ぶのです。相当酒に酔っています。玄関を入り、土間に座り込んで、小一時間ほどわめき、最後にはオイオイと泣き出すのです。そして、「ここのネエサンには世話になった」と何度も言いながら帰って行きました。怖かったですが、今にして思えば、荒くれ男の一人だったのですね。

もし私が、曽祖母のDNAの片鱗でも受け継いでいたなら、かなり違う人生になっていたでしょう(^.^)

小さなファミリーヒストリーの終わりです(^.^)

 

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