祖父の関係物の中から、こんな掛軸が出てきました。
老女の肖像画です。祖父が、絵師に描かせたものでしょう。
この人は、祖父の母、私の曽祖母、つまり、ひいばあさんです。
当然、顔かたちは全く知りません。
天保14年生れの彼女は、明治の初め、3人の男子をもうけました。しかし、夫はまもなく他界。女の細腕ひとつで、子供たちを育て上げました。
とまあ、ここまではよくあるお話しです。
明治になったとはいえ、中山道はまだ、人と物が行きかう要路で、故玩館のある小さな宿場町もそれまで通りの賑わいをみせていました。江戸時代の文献には、「飯盛女と流れ者の街」と書かれています。当時の宿場の様子がうかがえますね。
私の家は、小地主の傍ら、口入れ屋も兼ねていたらしい。曾祖母は、一人で、それを一気に拡大したようです。面倒見のよい彼女のもとへは、荒くれ男たちが、「アネさん、アネさん」と猫のように慕い集まって来たそうです。そして、流れ者たちを職に就かせ、住まいを世話し、所帯をもたせたのです。その数は、一人や二人ではなかったらしい。小さな宿場町を、実質的に取り仕切っていたのです。
今風に言えば、社会活動家でもあったわけですね。
3人の息子のうち、長男は明治24年の濃尾大震災で亡くなりました。ですから、祖父は次男です。あらゆる建物は倒壊し、この辺りは、一瞬にして平原になってしまいました。全く動きがとれない中、祖父と弟は、やむをえず、亡骸を風呂桶に入れて、墓場まで運び、葬ったそうです。物や人を手配することなどとても無理だった時に、散乱していた元々の柱などを利用して、まがりなりにも住家を再建できた(現在の故玩館の原型)のは、あの荒くれ男たちが力をかしたからではないでしょうか。
私の家は、道楽が隔世遺伝しています(^^; 私のガラクタ蒐集、祖父の花狂い、さらにその2代前、高祖父は俳諧狂い。江戸時代、俳句を本格的にやろうとすると、芭蕉にならって、日本各地を旅し、土地の俳人たちと交流を重ねなければばなりませんでした。いつの時代も、道楽は、金と時間を浪費しますね(^^; 当然、家は傾きます。そして、次の代の人間が、その穴を埋め、興し直さねばなりません。曽祖母は損な役回りの代にあたっていたのです。ところが、たまたま寡婦となった時、もって生まれた能力が開花したのでしょう。女親分は、中興の祖となったわけです(^.^)
幼稚園に行く前の小さな頃、私にはかすかに覚えている出来事があります。
夕方、薄暗くなると、知らないお爺さんがやってきて、大きな声で叫ぶのです。相当酒に酔っています。玄関を入り、土間に座り込んで、小一時間ほどわめき、最後にはオイオイと泣き出すのです。そして、「ここのネエサンには世話になった」と何度も言いながら帰って行きました。怖かったですが、今にして思えば、荒くれ男の一人だったのですね。
もし私が、曽祖母のDNAの片鱗でも受け継いでいたなら、かなり違う人生になっていたでしょう(^.^)
小さなファミリーヒストリーの終わりです(^.^)