遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

能画10.パロディか? 伝歌川国輝、肉筆浮世絵『高砂の松風』

2022年04月29日 | 能楽ー絵画

能画シリーズ、早くも10回目になりました。

一区切りつける意味でも、らしい品を出さねば、ということで今回の品です。歌川国輝筆と伝えられる肉筆浮世絵です。

全体:69.6㎝ x 190.8㎝、本紙(絹本):60.5㎝ x 119.0㎝、江戸後期。

歌川国輝(うたがわくにてる):江戸後期の浮世絵師、歌川国貞門、文政-安政(1818-60)にかけて活躍。

この品はボロボロだったので、表具をし直しました。私としては、極めてまれな事です。当然、表具代にかけるよりは次の品を、となるわけですから、よほどのことが無い限り、掛軸は購入したママです(^^;  まあ、それだけ、この絵のインパクトが大きかったのです。

大幅です。元の表具の裏に、「歌川国輝筆」と書かれていたので、今回の品は、「伝歌川国輝筆」としておきます。

海辺に、若い娘が二人が意味ありげに立っています。

視線の先には、小さな松の木。

松の木の上に印譜が押されていますが、歌川国輝のものかどうか、照合ができていません。

 

着物の模様や、

波の描き方も、

本格的です。実力派絵師の力作ですね。

 

海辺のはるかかなた、水平線の向こうに

太陽が顔を出しています。

若い二人の娘、松の木、白々と明ける海辺・・・・これはもう、明らかに能『松風』です。能画としてはAタイプ、『松風』で演じられる情景を想像して描いています。しかも、『松風』のクライマックス、在原行平の寵愛を受けた松風が、恋しさのあまり、松の木に行平の面影を重ねて、舞い狂おうとしている場面です。

しかし、

村雨とおぼしき娘は箒を持ち、

松風は、熊手を持っているではありませんか(少し着古した袴の市松模様にも何か意味がありそう)。

これでは、『高砂』の姥と尉!

いったいどういうこと!? この絵の主題は、『松風』?、それとも『高砂』? 

まず、若い娘二人が、姥と尉に扮する必要はないでしょう。何よりも、二人の形相が、尋常ではありません。『高砂』の天下泰平とはほど遠い。やはり、この絵は『松風』と考えるのが妥当です。じゃあ、高砂の小道具、熊手と箒は何のため?疑問はつのるばかりです。

とりあえず、この絵のタイトルを『高砂の松風』としました(^^;

実は、今回の浮世絵と同じような絵を他にも見たことがあります。江戸後期には、『高砂』と『松風』をパロディ調にアレンジした戯作が作られたのでしょうか。

 

さて、今回の絵画の最大の見どころは、松風、村雨の表情です。

人の顔をしていますが、どこかこの世の人でないような雰囲気が漂っています。

松風は、松の木を行平と見て、懐かしさのあまり駆け寄ろうとします。

「あらうれしやあれに行平の御立ちあるが。松風と召されさむらふぞやいで参らう。」

思いつめて、狂わんとする松風。

その姉を、妹、村雨は諫めます。

「あさましやその御心故にこそ。執心の罪にも沈み給へ。娑婆にての妄執をなほ忘れ給はぬぞや。あれは松にてこそ候へ。行平は御入りもさむらはぬものを。」

しかし、諫める村雨の表情にも複雑な様相が。

実は、松風、村雨の二人は、ともに、行平の寵愛を受けていたのです。いわば三角関係。姉妹ではあっても、ライバルです。そんな村雨の心情が読み取れそうです。

能『砧』では、何年も夫を待ちわびる妻の所(九州)へ、京都の夫からの文を届ける若い女が出てきます。

このような設定をさらりと世阿弥は行います。

『松風』、『砧』、いずれの能においても、三角関係についての展開は全くありません。作者は、舞台を観る我々観客の側に委ねているのですね。

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能画9.木版画浮世絵『松風(汐汲)』

2022年04月27日 | 能楽ー絵画

今回は、江戸時代の浮世絵版画『松風』です。

26.0cmx38.1㎝(18.4cmx38.1㎝)。江戸時代中ー後期。裏打ち無し。

江戸時代の古い木版摺浮世絵です。よく見ると、上から全体の三分の一位には摺りがありません。実際の絵は、横に細長い構図です。

松の木の下、海辺で汐を汲む若い二人の娘が描かれています。遠景には、小舟や山並みが描かれ、穏やかな内海風景は、瀬戸内海、おそらく須磨の浦を表していると思われます。

 

 

毛髪や手、足など、繊細な表現がみられます。

汐を汲む娘の仕草も、艶っぽい。

水平線の向こうには、大きな朝日が顔を出し、夜明けの汐汲み風景であることを示しています。

 

この木版画、ボロボロですが、能画としては珍しい物です。

というのも、江戸時代、歌舞伎の役者や上演場面を描いた浮世絵版画が非常に多く刷られました。一方、能の木版画は非常に稀なのです。

その理由は定かではありませんが、要は、能が歌舞伎のように大衆的な演劇にならなかったからでしょう。考え得る要因は、以下のものがあげられます。

1.能は徳川幕府の式楽であり、内に閉じていた。

2.能の常設会場はなく、何年、何十年に一度の大規模興業は、特設の舞台を設置して行われた。

3.能の上演形式として、ある演目はその日限りのものであり、連続公演はなかった(現在も同じ)。

ですから、江戸時代の能画は、基本的には絵師への注文品であったわけです。

今回の浮世絵木版画『松風』は、能ではなく、歌舞伎由来かも知れません。なぜなら、江戸時代、能『松風』をアレンジして、歌舞伎、長唄で『汐汲』が作られ、演じられたからです。

気になるのは、松風、村雨の表情。能から離れるにつれ、行平に恋焦がれて狂乱する女の凄みは薄くなり、たおやかな娘の男舞いという要素が強くなっていきます。

今回の品は、娘の乱れた髪に、若い娘の心の内を見ることができるような気がして、能『松風』にちなんだ作ではないかと、勝手に思っています(^.^)

 

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能画8.三宅凰白 素描『松風』、色絵『羽衣』 

2022年04月25日 | 能楽ー絵画

日本画家、三宅凰白の『松風』です。

全体:127.5㎝ x 54.7㎝、本紙(紙本)、41.0㎝ x 34.6㎝。昭和。

【三宅凰白】(みやけこうはく):明治二六(1893)年ー昭和三二(1957)年。京都市生。日本画家山元春挙に師事。文展、日展で活躍。昭和京都画壇の一人。花鳥、人物画を得意とした。

今回の能画は、素描に近いものです。三宅凰白には、この構図の色絵があるので、下絵かも知れません。それを掛軸に仕立てた人はエライ(^.^)

能『松風』で、汐汲車の桶に、汐を汲んでいるところです。能画としては、能舞台の一場面を描いた典型的なBタイプです。しかも、シテのみを描いています。これは、昭和から現代まで、能画の主流パターンです。今、普通に能というと、シテが扇をかざして舞う姿が浮かびますが、このような能画の影響が大きいのではないかと思います。

月明かりの下、汐を汲む女を、地謡が幻想的に浮かびあげます。

「寄せては帰るかたをなみ。寄せては帰るかたをなみ。芦辺の。田鶴こそは立ちさわげ四方の嵐も。音添へて夜寒なにと過さん。更け行く月こそさやかなれ。汲むは影なれや。焼く塩煙心せよ。さのみなど海士人の憂き秋のみを過さん。松島や小島の海人の月にだに影を汲むこそ心あれ影を汲むこそ心あれ。」

  波の寄せ帰る蘆辺に、鶴が鳴き騒いでいます。この寒い夜をどうして凌ぎましょうか。でも、あの夜更の月の澄み渡っていること。おお、汐水を汲むと、それに月が映っている。どうか塩焼く煙をあまり多く立てて、月を曇らさないように気をつけておくれ。海士だからとて、いつもいつも辛い秋を過ごしているばかりでもない。このように月を眺める風流な味わいもあるのです。こうして汐水と一緒に月影を汲み入れるなどは、本当に風流なことです。 (佐鳴謙太郎『謡曲大観5巻』)

女たちは、汐といっしょに月影を汲んでいたのですね。

地謡が謡います。

「月は一つ。影は二つ満つ汐の夜の車に月を載せて。憂しともおもはぬ汐路かなや。」

空に月は一つだけれど、水桶の月影は二つ。満潮の夜、車に月をのせて帰る汐汲みも辛くはない。

二人は、汐汲み車に月をのせて、塩屋に運びます(先回の月岡耕漁の絵)。そして、そこには、一夜の宿を請う僧が待っています。

月影は、行平の面影をも暗示しているのでしょう。このように幻想的な場面には、写実的な描写よりもラフなスケッチの方が、見る側の想像力を掻きたてる余地が大きいと思われます。日本画では洋画ほど素描は重要ではないでしょう。しかし、能のように、すべてをギリギリまでそぎ落とし、演者の内面を抑制して表現する演劇では、観る側の想像力に多くが委ねられます。そのような能の特質を考えると、詳細な表現よりも、多くを描きこまない素描の方が、むしろ能舞台によく対応しているように思えます。

 

比較のため、三宅凰白の通常の日本画、『羽衣』をアップしておきます。

全体:193.4㎝ x 49.5㎝。本紙(絹本):124.3㎝ x 36.0㎝。昭和。

 

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能画7.月岡耕漁『松風』

2022年04月23日 | 能楽ー絵画

今回は、明治の浮世絵師、月岡耕漁の肉筆『松風』です。

27.4㎝x37.8㎝、捲り。明治。

月岡耕漁(つきおかこうぎょ):明治二年(1869)ー昭和二(1927)。明治の浮世絵師、日本画家。能画のジャンルを確立した。

月岡耕漁は、多数の能画を残した、明治能画界の第一人者です。

そのほとんどは、彩色木版画ですが、今回の品は肉筆です。

また、能画のパターンとしては、明治に主流であった、能舞台の一場面をえがいたBタイプです。というよりも、彼があまりに多くのBタイプ能画を描いたので、明治以降の能画の主流がBタイプになったと言ってもよいでしょう(^^;

さて、能『松風』は、文字通り、能らしい能です。優れた能役者たちによる舞台を鑑賞すれば、かならず幽玄の世界に浸ることができるからです。

昔から、「松風、熊野、米の飯」と言われたほど人気があり、日本人の感性に合う名作です(世阿弥作)。

【あらすじ】
旅の僧が、須磨の浦にやってきて、海辺にいわくありげな一本の松を見つけます。地元の男に謂われを聞けば、この松は、在原行平(業平の兄)の寵愛を受けた松風、村雨という二人の海女の旧跡だという。僧は二人を弔った後、塩屋に宿を借りようと主を待ちます。そこへ、汐汲を終えた若い二人の女が帰って来ます。僧が、松風、村雨の旧跡を弔った話をすると、二人の女は急に泣き出し、自分たちは松風、村雨の亡霊だとあかし、行平との恋しい日々を語ります。 姉の松風は、行平の形見の狩衣と烏帽子を身に着け、次第に半狂乱となり、松を行平だと思い込んで、舞い狂います。そして、夜が白々と明けるころ、二人は供養を僧に頼み、姿を消します。気がつけば、松風の狂乱の舞いは夢幻で、松を渡る風ばかりが聞こえているのでした。

松風が、汐汲みから帰って来ます。白い水衣に身を包んでいます。村雨も同じ格好。二人の若い女性の出で立ちは、眩しい美しさです。

舞台には、二人の旧跡であり、在原行平との日々が凝縮した松が置かれています。

汐汲み車も重要な小物。

浮世絵師ですから、確かな筆致です。  

松風は、行平への狂おしい恋心を内に秘めています。月岡耕漁が描く松風の表情に、それを感じられるようにも思えるのですが、いかがでしょうか(^.^)

 

 

 

 

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能画6. 村瀬太乙 墨画『高砂』

2022年04月21日 | 能楽ー絵画

墨絵の『高砂』です。

全体、72.0㎝ x 175.6㎝。本紙(紙本)、59.7㎝ x 128.9㎝。明治12年。

作者は、幕末―明治の儒者、村瀬太乙です。

村瀬太乙(むらせたいいつ、通称、たいおつ)、享和三(1803)年ー明治十四(1881)年。美濃國上有知村(現、岐阜県美濃市)生。頼山陽門。飄逸な墨画と書で知られる。

 

ちょっとみただけでは何が描かれているのかわかりません。

熊手をもった尉と箒を手にした姥が立っていますから、『高砂』の情景ですね。

村瀬太乙は、美濃の大庄屋村瀬一族の一人です。村瀬家からは、学者や文人が多く出ました。その中で、太乙は鬼才と言ってよいでしょう。遅くに頼山陽の内弟子となり、山陽没後は、名古屋へ帰り私塾を開きしました。その後、犬山藩に儒者として仕え、藩校敬道館の教授をつとめました。

彼は、非常に奇行が多い事で有名です。放屁先生の号を用いたことでもわかるように、放屁癖があり、藩主の前でも放屁してはばからなかったといいます(^^;  その一方、世に迎合せず、清貧の中で自分の生き方を貫いた人柄が人々に愛されました。中部地方では、村瀬太乙の書画の人気は高く、生前から贋物が出回っていたそうです。

この戯墨『高砂』は大丈夫。その理由は、うーんと唸るような図柄ではないから(^^;   頼りないような薄い墨色も、自信なくしては使えません(^.^)

「己卯冬十二月 太乙七十七翁戯墨」とありますから、明治12年12月に描かれた物です。

先回の重安の『高砂』も76歳の時の作でした。

一見捉えどころのない墨画『高砂』ですが、奇人太乙の晩年の心境を表しているのでしょうか。

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