遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

巨鹿城焼摺絵飯茶碗

2022年08月31日 | 古陶磁ー国焼

何の変哲もない飯茶碗です。

径 10.8㎝、高台径 4.1㎝、高 6.7㎝。幕末。

細かな模様が、型摺りで全面に表されています。

 

内側にも摺り模様。

型摺りでは、模様を彫った紙型を器にあてがい、顔料(今回は呉須)を摺りこみ、焼成します。所々に合わせ目があるので、まぎれもなく型紙摺ですね。

縁の欠けを、コクソ漆で埋めたままです。ここから金蒔絵に至るまでの作業が大変。20年近く、放ってあったので漆はカンカンに乾いているはずです。冬の仕事がまた一つ増えました(^^;

さて、この平凡な飯茶碗をどうして買ったのか?

その理由はただ一つ、蓋に描かれた文字です。

「巨鹿(きょろく)城製」とあります。

巨鹿城は、大垣城の別名です。関ケ原の戦いでは、石田三成が最初に陣を張っていた所です。関ケ原へ移動せず、ここを本拠地にして戦ったなら、西軍が勝利したかも知れませんね(歴史にifは無しか(^^;)  江戸時代は、戸田氏の居城として使われ、明治維新をむかえました。地理的に重要な位置にある戸田藩は、維新の動乱に巻き込まれていきました。

その頃、大垣城内で焼かれたのが巨鹿城焼です。城内で使う品を焼いていたと言われていますが、稼働期間が短く、品物もほとんど残っていないので、詳しい事はわかっていません。大垣城横の郷土館(小規模な博物館)で、朝鮮通信使関係の品や別府細工とともに、この品と同じ茶碗が一個だけ、巨鹿城焼として、ポツンと展示されています。

地元では、大垣城が巨鹿城と呼ばれていたと知る人は少なく、巨鹿城焼に至っては、聞いた事すら無い人がほとんどです。加藤唐九郎の原色陶器大辞典にも載っていないマイナーな窯です。

私は、今回の品を、東京の骨董屋の軒下のゾッキ箱(そんな名の箱はありませんが、ハンパ品、疵物などゴチャゴチャ入れてある(^^;)の中から見つけました。

ガラクタハンターも歩けば、巨鹿城焼にあたる(^.^)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

瀬戸飴釉油壷

2022年08月29日 | 古陶磁ー国焼

今回は、江戸期瀬戸の油壷です。

ここしばらく、国焼ということで、地方の小窯や個人作品を紹介しています。今回の品は、大規模生産地瀬戸の物ではありますが、瀬戸物としてはマイナーな油壷なので、国焼のカテゴリーに無理やり入れました(^^;

胴径(最大) 7.8㎝、口径 2.3㎝、高台径 4.6㎝、高 5.3㎝。江戸中期ー後期。

油壷は、女性の髪結い油を入れておく容器です。江戸時代に広く普及しました。最大の産地は伊万里(有田)ですが、各地の窯でも焼かれました。今回の品は、瀬戸焼です。瀬戸の油壷は比較的少ないと思います。

上半部に飴釉がたっぷりと掛けられています。口縁から肩にかけてあしらわれた海鼠釉が、何とも言えない味を醸し出しています。

さすがに瀬戸の陶工、轆轤が冴えています。

 

今では油を入れることはありませんから、

掌の上であそんで楽しみましょう。

それとも、

花を入れて机上に置けば、ゴーヤもしたり顔(^.^)

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ー色情狂に断種施行ー『岐阜新報』(昭和24年10月26日付)

2022年08月27日 | おもしろ古文書

先回のブログで紹介した『御深井(おふけ)釉手付菓子』が入っていた箱に、古い新聞が敷いてありました。

戦後間もない頃の地元の新聞です。

「岐阜新報」!? ・・・・聞いたことあるような、ないような ・・・ 聞いたことありませんでした(^^;

調べてみると、この新聞は、昭和21年に「濃飛新聞」として発刊され、昭和24年9月に「岐阜新報」と改名して、昭和25年1月に終刊となった地方の日刊紙であることがわかりました。現在、岐阜県内にまとまった品はなく、国会図書館マイにクロフィルムとして保管されています。

ま、言ってみれば、戦後、雨後の筍のように出現したカストリ新聞の一つでしょう。

今回の古新聞は、終刊近い「岐阜新報」の一部です。

紙面は、少しくだけた記事が目につきます。

 

裏面(2面):野球に力を入れていたのか、関係記事が多いです。

芸能娯楽:

注目されるのは、けっこう煽情的なタイトルの記事です。

「元代議士長男の詐欺事件」や「哀れ御曹司色情狂の断種」など、旧名士、名家をこき下ろしているのは、この頃の風潮だったのでしょう。

中でも、特に「色情狂断種施行」は、ショッキングです。 

名家の御曹司が出征中、南方でマラリアに罹るも、復員後、幸せな生活を送っていたが、マラリアが再発して色情狂となり、断種された、という記事です。

これは、あの旧優生保護法ですね。

優生保護法は、昭和23年(1948)に制定された法律で、「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護すること」を目的に、遺伝性の知的障害や精神障害などの病気があるとされた人に強制不妊手術などが行われました。この法律は、昭和23年9月11日~平成8年9月25日まで存在し、数万人ともいわれる多くの被害者が出ました。

国によるナチスまがいの優生法が最近まで施行されていたのは驚きです。

こういう法律の恐ろしい所は、優生や不良の定義はどうにでも解釈可能で、時の権力や社会勢力によって、恣意的に運用されたり、拡大解釈されるの可能性が大きいことです。

不良とされる病気や障害も、いつ、どうやって決めたのかはっきりしません。今回の新聞記事は法律ができてからまもない頃の例ですが、マラリアによる脳損傷は後天的なもので、法律の趣旨にさえ合っていません。また、優生保護法で不良とされた障害または病気の中には、網膜色素変性、黄斑部変性、網膜膠腫などの眼病まで含まれていました。私も対象になってしまいます。

「優生」は、さらに重大な問題を孕んでいますす。今話題の旧統一教会の教義にも、優生思想に通じるものがあります。朝鮮半島出身の文鮮明による世界統一構想は、他よりも優れた彼(ら)が世界のトップに立つべきだというものです。ですから、劣った日本人は、金銭で奉仕するのが当然だというのです。

驚いたことに、嫌韓を叫び、美しい日本を標榜していた安倍元総理をはじめとする自民党の国会議員たちは、裏で統一教会と通じていたのです。票?金?権力?ここまでくると、人間のクズとしか言いようがないですね。

 

 

 

 

 

 

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加藤春岱作『御深井(おふけ)釉手付菓子鉢』

2022年08月25日 | 古陶磁ー国焼

今回も幕末に活躍した中部地方の陶工の作品です。

古箱に入っています。

中には、渋い陶器が入っています。その下には古新聞が敷かれています。この新聞については、あらためてブログアップします。

蔓の把手がついた菓子鉢です。

径 17.3㎝、底径 6.3㎝、高 5.0㎝(把手含まず)。江戸後期。

全面に御深井(おふけ)釉がたっぷりと掛けられた器です。裏面は、釉薬の掛けはずしがデザインとなっています。

御深井釉は、美濃、瀬戸で古くから使われてきた灰釉の一種です。長石を加えて透明度を高めた釉は、薄緑色のガラスのような美しさをもっています。

江戸時代、名古屋城の御深井丸でこの釉薬を使った焼物が焼かれ、御深井釉と呼ばれるようになりました。現在では、この手の焼物(今回の品も含めて)を一般に御深井焼と呼んでいます。が、本来は、名古屋城内のお庭焼きを指す名称です。

 

見込みの釉溜まりが、複雑なジカンに映えています。

裏側の釉溜まりは、蜻蛉の眼のようです。

放射状の彫りには釉薬の色がついて、青磁の陰刻と似た効果を出しています。

三足の底には、「春岱」の押印があります。

この品は、幕末の名工、加藤春岱の作であることがわかります。

加藤春岱(享和二(1802)ー明治十(1877))は、尾張赤津の窯元の出です。早くから才能を発揮し、尾張藩の御庭焼にも従事して、藩主から春岱の号をもらいました。

近世屈指の名工といわれ、古瀬戸・黄瀬戸・志野・織部・御深井・赤絵・染付・青磁・三島・刷毛目・安南・萩・高取・唐津・丹波・兎の斑・金流し・銅版などの多種多様な焼物を焼いています。特に、轆轤と成型の技は比類なきものであった(加藤藤九郎『原色陶器大辞典』)そうです。

そんな訳ですから、加藤春岱の品は人気が高く、当時から贋物が作られていました。

では、今回の品はどうか?

私としては、いけているのではないかと思っています(^.^)

理由:
①パッと目には地味だが、よく見ると、細部まで計算された造りになっている。
②人気の高い茶碗ではなく、実用的な器である。
③押印が合う。

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

養老焼錆釉小皿(5枚)

2022年08月23日 | 古陶磁ー国焼

養老焼の小皿(5枚)です。

 

11.6㎝ x 12.0㎝、高台径 5.4㎝、高 3.2㎝。明治、大正。

小振りの皿ですが、何でも受けいる幅の広さをもっています。時々使うので、一枚、縁が欠けています。金継ぎで修理をせねば(^^;

薄造りの皿です。隅に掛けられた海鼠釉が控えめなアクセントとなっています。岐阜の片田舎で作られたとは思えないセンスの品です。

養老焼は、幕末期、尾張の陶芸家、大橋秋二が、自身の還暦祝いとして、菊紋の陶器を養老の地で焼いた事に始まると言われています。その後、明治35年、養老郡牧田村の大工、小谷嘉市が地元で陶土を発見し、養老の滝や菊紋の陶磁器を作り、販売しました。後に、養老駅前に窯を移し、大正中期まで養老焼は続きました。

高台内に、瓢箪型に「養老」の押印があります。いわゆる牧田養老焼です。

轆轤技術やデザインなど、畑違いの大工が始めた焼物とはとても思えません。岐阜の片田舎で興った小窯ながら、職人の心意気が伝わってくる小品ですね。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする