何の変哲もない飯茶碗です。
径 10.8㎝、高台径 4.1㎝、高 6.7㎝。幕末。
細かな模様が、型摺りで全面に表されています。
内側にも摺り模様。
型摺りでは、模様を彫った紙型を器にあてがい、顔料(今回は呉須)を摺りこみ、焼成します。所々に合わせ目があるので、まぎれもなく型紙摺ですね。
縁の欠けを、コクソ漆で埋めたままです。ここから金蒔絵に至るまでの作業が大変。20年近く、放ってあったので漆はカンカンに乾いているはずです。冬の仕事がまた一つ増えました(^^;
さて、この平凡な飯茶碗をどうして買ったのか?
その理由はただ一つ、蓋に描かれた文字です。
「巨鹿(きょろく)城製」とあります。
巨鹿城は、大垣城の別名です。関ケ原の戦いでは、石田三成が最初に陣を張っていた所です。関ケ原へ移動せず、ここを本拠地にして戦ったなら、西軍が勝利したかも知れませんね(歴史にifは無しか(^^;) 江戸時代は、戸田氏の居城として使われ、明治維新をむかえました。地理的に重要な位置にある戸田藩は、維新の動乱に巻き込まれていきました。
その頃、大垣城内で焼かれたのが巨鹿城焼です。城内で使う品を焼いていたと言われていますが、稼働期間が短く、品物もほとんど残っていないので、詳しい事はわかっていません。大垣城横の郷土館(小規模な博物館)で、朝鮮通信使関係の品や別府細工とともに、この品と同じ茶碗が一個だけ、巨鹿城焼として、ポツンと展示されています。
地元では、大垣城が巨鹿城と呼ばれていたと知る人は少なく、巨鹿城焼に至っては、聞いた事すら無い人がほとんどです。加藤唐九郎の原色陶器大辞典にも載っていないマイナーな窯です。
私は、今回の品を、東京の骨董屋の軒下のゾッキ箱(そんな名の箱はありませんが、ハンパ品、疵物などゴチャゴチャ入れてある(^^;)の中から見つけました。
ガラクタハンターも歩けば、巨鹿城焼にあたる(^.^)