遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

俯瞰地図『岐阜名所圖絵繪』(大正14年)

2025年02月01日 | 故玩館日記

先回のブログで、大正末に発行された『日本交通分縣地図 岐阜』を紹介しました。

今回の品は、同じ頃に出された俯瞰地図です。

表紙は鵜飼の絵、裏表紙には、鵜飼と岐阜城の写真。

本体は、細長い地図(絵図)です。

26.7㎝x77.2㎝。大正14年。

裏には、金華山や長良川の鵜飼など岐阜市の名所の説明が書かれています。

大正14年、岐阜市役所の発行です。

このような俯瞰図は、大正期から戦前にかけて多く描かれました。日本各地の名所や都市がくまなく描かれ、ハンディな観光案内地図として人気を博しました。作者は画家やイラストレーターで、最も有名な人物は大正の広重といわれた吉田初三郎です。彼は生涯で、3000もの俯瞰図を描いたと言われています。今回の品の作者は、北秀(詳細不明)です。

岐阜城のある金華山を中心に長良川と市街地を描いています。南西から北東を眺めた構図です。

非常に明るくポップなパノラマが展開しています。この種の俯瞰図の特徴です。時代を反映しているのでしょうか。

距離や方角の正確さは二の次で、全体を直感的に捉えられるように工夫されています。

南東には名古屋、桑名、伊勢、さらには伊勢湾が広がっています。鉄道(東海道線)を汽車が走っています。上空には飛行機。

この絵の中心部です。

上の山々は、左から、立山、槍ヶ岳、乗鞍岳、御獄山、駒ケ岳。右方(下図では見えない)には、富士山らしき山も描かれています。サービス満点ですね。

もう少し詳しく見ましょう。

金華山と岐阜城。

岐阜城は関ケ原合戦以降、廃城となった(材は、加納城(岐阜駅南1㎞)築城に使用)ままでしたが、明治43年に再建されました。木造トタン葺き、三層三階、日本初の模擬天守です。この図に描かれているのはその建物です。しかし、戦時中に焼失し、現在の岐阜城は、昭和33年に再度、建造されました。木造ではなく、鉄筋コンクリート製(^^;

 

金華山直下の岐阜公園。

現在とほぼ同じ場所、同じ規模です。板垣退助殉難碑や名和昆虫研究所の建物が見えます。近くに、大仏殿(日本最大の紙製大仏)。赤い線は、岐阜駅と郊外の高富を結ぶ市内電車(現在は廃線)の軌道です。

 

少し南西には、公共の建物が多くあります。

ここは、先のブログでも紹介したように、斎藤道三や織田信長が街づくりを行った場所です。斎藤道三が岐阜町の目玉として、西方の美江寺から移した美江寺観音も見えます。

南方の岐阜駅周辺。

金華山麓とは別の市街が、あらたに作られ始めていることがわかります。

 

以前のブログで紹介した明治15年の『岐阜市街地全図』と較べてみます。

やはり、俯瞰図の方がわかりやすいですね。距離や角度などはいい加減なのですが、地形や建物の配置を直感的に把握するには向いています。私たちが覚えていて景色、頭に浮かんでくる情景に近いです。それにしても、これだけ多くの情報を、一枚の絵の中にわかりやすく描きこんでしまう絵師の力量には感心します。

左下の部分、長良橋を渡った所にある織田信長菩提所崇福寺、その下に谷汲山が描かれています。

しかし・・・・

谷汲山は、岐阜市とは西北に15㎞も離れています。西国巡礼第三十三番札所、結願・満願の霊場である谷汲山華厳寺はこんな近くにはないのです。地図をぐにっと曲げて無理やりに描いたのですね。もし、旅行者がこの絵地図を片手に谷汲山をめざしても、永久にたどりつけないでしょう(^^;

 

 

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大正15年 『日本交通分縣地図 岐阜縣』

2025年01月29日 | 故玩館日記

先回のブログで、岐阜市の明治期の地図を紹介しました。この地図が作成された明治15年当時の市街地は、斎藤道三や織田信長が街づくりをした当時から大きくは変わっておらず、岐阜城のあった金華山西麓にへばりつくように広がっていました。

今回の地図は、それから約半世紀後の物です。

53.6㎝x77.8㎝。50万分の一。大正15年2月10日。

『日本交通分縣地図』は、大正12(1923)年から昭和5(1930)年にかけて、東宮(皇太子)成婚記念として、大阪毎日新聞社から、順次、発行されました。

今回の品、『日本交通分縣地図 岐阜県』は、大正15年2月10日、25番目に発行された地図です(下写真)。

なお、この年の12月25日に大正天皇は亡くなり、昭和が始まりました。

今回の地図は、先回紹介した地図とは描き方が大きく異なっています。現在の地図の原型は、明治15‐20年にかけて、陸軍参謀本部測量課が作成した日本地図です。今回の品は、それに沿って作成されています。

種々の記号も、「文」や「⛩」など、我々に馴染み深いものになっています。

興味深いのは、府縣界、市郡界、区町村界などの他に、國界が記されていることです。岐阜縣地図では、ほぼ中央に、飛騨國と美濃國の界が記されています。

飛騨国や美濃国は、元々、律令制度の下でつくられた行政区です。体制が変わっても、その令国名がずっと使われてきました。明治4年、政治体制は幕府や藩から府県に変わりました。しかし、廃藩置県はあくまで政治体制としての藩を廃止して県を設置した政策であり、地名としての旧国を廃止したものではないのです。法律的に旧国を廃止していないので、地名としては今も有効なのですね。念のために、現在使われている日本地図(帝国書院)を調べてみました。国界は旧国界として、一点鎖線で描かれています。但し、国名は記されていません。

『日本交通分縣地図』などという大事業が行われたのは、この頃、日本の国中で、交通体系が大きく変わりつつあったからではないでしょうか。道路は、国道、府県道、町村道別に描かれています。鉄道関係に至っては、鉄道、鉄道未成線、地方鉄道、地方鉄道未成線、電車併用線、電車線路、電車未成線、鋼索線(ケーブルカー)まで区別して載せています。

安八郡神戸町の辺りの拡大図です。一部廃線になった軌道もありますが、赤線で描かれた鉄道は現在も健在。

先日の神戸町ブログの地図と較べてみます。

『日本交通分縣地図 岐阜県』は、交通を網羅した力作です。しかし、やはり濃尾平野は、河川を強調した地図でないと、分かり難いですね。

『日本交通分縣地図 岐阜県』には、岐阜市と大垣市について、市街地地図が載っています。

現在の岐阜市に較べると市街地はまだ相当小さいです。

先回の明治15年の岐阜市街地図と較べてみましょう。

古い町並みはほぼ同じですね。ただ、新しい街が、南へ広がりつつあることがわかります。

一方、大垣市は、ほぼ中央の大垣城(平城)の周りに市街地が広がっています。急峻な山城、岐阜城から南へひらけていった岐阜市とは対照的ですね。

 

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明治十六年 川瀬善一編『岐阜市街地全図』

2025年01月26日 | 故玩館日記

先回のブログで、実業家、文人の原三渓が帰郷した時に詠んだ漢詩を紹介しました。その詩のポイントとなるのは、岐阜市の北部、金華山下の古い街でした。

そこで、岐阜市の古い地図がないかと、故玩館の奥をゴソゴソ探しまわりました。ガラクタの山から見つけたのが今回の品です。かなり希少な物と思います。

36.0cmx53.3cm。明治十六年。

西方から見た岐阜市街です。

濃赤黒部が公共施設、神社、古跡、桃色部は寺院仏閣、墓地を、斜線部が一般家屋を示しています。

北西の濃赤黒部は古城跡(岐阜城跡)です。岐阜城(稲葉山城)は関ケ原後に廃城となり、3㎞南の平城、加納城に代わっています(地図には入っていない)。

市街地は、金華山の西南山麓に広がっています。

 

明治十六年時点で、東西17町、南北19町、戸数2600、人口1万800人です。

戦国時代から江戸時代を経ても、あまり大きくは変化していないことがわかります。

「総名稲葉山、一名金花山」とあります。稲葉山の方が一般的だったのでしょうか。また、金華山ではなく、金花山という表記も今は見かけません。

当時、長良川には小さな木橋が二つ、渡船場が2か所あったことがわかります。

山麓には、稲葉神社と寺社群があります。

その向かい、長良川近くには、名刹、美江寺が。

最初の全体地図を見るとよくわかりますが、稲葉神社と美江寺はあい対しています。この界隈は、斎藤道三が自由市場を設け、市街地をつくろうとした所で、岐阜市の最も古い地域になります。その後、山裾を縫うように市街地が広がりました。先回のブログにあった水琴亭もそこにあります(この地図の時点は移築前、稲葉神社境内にあった)。

なお、初期の街づくりに大きな役割をはたした寺院、美江寺は、戦国時代、天文十(1541)年、斎藤道三が、西方10㎞の美江寺宿(故玩館はその西端)にあった伽藍美江寺から、天平秘仏 、十一面観世音菩薩(奈良時代)を、稲葉山の麓に移して、本尊として建立したものです。

抜け殻となった旧美江は廃寺となり、跡地は美江神社(下写、真正面)となっています(^^;

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隣町神戸町を訪れる2~関ケ原へ急ぐ家康、九死に一生

2025年01月20日 | 故玩館日記

先回のブログで、実業家文化人、原三渓の祖父、高橋杏村の地、岐阜県安八郡神戸町を紹介しました。

故玩館の隣町であるこの地は、古代、中世の歴史を語る逸話や場所が多く残っているだけでなく、関ケ原の戦いにも関係した所でもあります。

先回紹介した日吉神社や善学院の近くの集落のはずれに、だまって通り過ぎてしまうほど小さな神社があります。

慶長5年(1600年)9月14日、徳川家康は、岐阜から陣営地赤坂に向かいました。この時、休んだのがこの場所です。

この時、石田三成を含む西軍主力は、ここから4㎞ほど南の大垣城に本拠をかまえていました。

用心深い家康は、なるべく西軍から離れた北のルート(東山道)を西へむかったのです(下地図、黄線)。

一方、東軍主力は、中山道を西へ向かいました(下地図、赤線)。

そして、両者は、地図の左方の東軍の陣営、赤坂宿岡山(地図上見えない)に集結したのです。

ところがこの時、比較的安全な北ルートをとった家康隊は、島津の鉄砲隊の奇襲を受け、ほうほうの体で白山神社辺りに落ちのびたと言われています。

この時、家康が腰を掛けた石☟

旗をかけた松は現在無し。

地元民から差し入れられた柿を食べて、戦勝を確信したという逸話が残っています。

家康が通ったという東山道は、現在、その痕跡もありません。当時から、交通の主力は、数㎞南の中山道(名称はなかった)筋に移っていたと思われます。廃れかかった古道を敢えて選んだ家康の用心深さにはあらためて驚かされます。

 

神戸町は、以前に紹介した書家、日比野五鳳の生誕の地でもあります。町では、日比野五鳳記念美術館を建て、春、秋の2回、公開をしています。

横には神戸町役場があり、そこには、代表作の巨大レプリカがあるので、いつでも見られます。

神戸町は、バラの栽培が盛んで、バラ公園もあります。庁舎まえには、巨大なバラのモニュメント。

神戸町は隣町なので、故玩館の辺りとそれほど大きな違いのない風景(バラ栽培も含めて)がひろがっています。

しかし、どう考えてみても、歴史的遺物などは神戸町の方が多い。これはなぜだろうか?

考えられるのは地理的状況のわずかな違いです。

濃尾平野は、西北東を高い山に取り囲まれていて、長い年月の間に上流からの土砂が堆積してできた平野です。そこを、木曽川、長良川、揖斐川の3河川が流れています。

左手を模型(上が北)にすれば、左(西)から揖斐川、長良川、木曽川です(傷は癒えたが、まだうまく握れません(^^;)  

濃尾平野は、周りをぐるっと高い山に囲まれた、巨大な擂鉢状の平野です。南北に傾斜しているだけでなく、西方と左方も高くなっています。ですから、西濃地方では、水は北から南だけでなく、西から東へも流れます。隣町の神戸町とは揖斐川を隔てているだけなのですが、それでも西方の神戸町の方が高い。揖斐川が氾濫すれば、水は故玩館側へ多く押し寄せます。つまり、洪水の頻度が高い。有史以来、何十年に一度は巨大な洪水にみまわれてきたはずです。その繰り返しで、ほとんどが流失し、隣町との差がついてしまったと考えられるのです(^^;

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古伊万里文字尽小皿

2025年01月06日 | 故玩館日記

酒田の人さんぽぽさんのブログで、梵字がデザイン化された江戸前期古伊万里皿が、相次いで紹介されました。例によって、一足遅れで参入の遅生です(^^;

径 14.1㎝、高台径 9.2㎝、高 3.1㎝。重 177g。江戸前期。

高台に小欠けがありますが、釉がのっています。

裏底には角福、そこに針支え跡一つ。

造りや染付の色調から、いわゆる藍九谷に分類される品といってよいでしょう。

今回の品の特徴は何といっても文字。

見込みには大きな文字。

周囲には、4種類の文字が、中央の大きな文字を取り囲むようにびっしりと配置されています。

裏面にも2種類の文字がグルっとめぐらされています。

この皿に描かれた文字は、いったい何を表しているのでしょうか。

文字には意味があるはずです。今回の文字尽小皿には多くの文字が書かれているので、何か手掛かりが得られるかと思い、色々調べましたが、全くダメでした(^^;

梵字という確証さえ得られませんでした。

以前に、同じように中央に文字が書かれた初期伊万里小皿(下写真、右)を紹介しました。

両者を並べてみても、謎は深まるばかりです。

これまで、この手の文字は、梵字とされてきました。

しかし、案外、他の文字、例えば、篆字をデザイン化したものかもしれません。Dr.Kさんの陽刻輪花皿の是武字などは、その例でしょう。いずれにしても、中国の陶磁器を含めて、さらに検討が必要ですね。

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