遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

能楽資料27-2 『納札 能楽合せ』(2)

2020年12月29日 | 能楽ー資料

先回に続き、『納札 能楽合せ』です。

 

     鞍馬天狗

 

     敦盛

 

       望月

 

     鉢木

 

     石橋

 

       翁

 

       松風

 

    狂言 伯母ガ酒

 

     小鍛冶

 

      鳥追舟

 

先回の分も含めると、全部で20枚の納札です。

能楽が18、狂言が2枚です。

東京の納札と大阪を中心とした関西の納札が、ほぼ半分ずつ、東西対抗の形をとっています。

能楽の曲目と商店名などの関係は無いようです。

今考えると、どうして納札に能楽?

この時代(おそらく大正)は、明治に息を吹き返した能楽が、大きく花を開かせ、能楽愛好者が非常に多かった時期です。

能楽の納札が作られる雰囲気があったのでしょう。

 

それぞれの納札を見ると、枠の描き方が同じです。さらによく見ると、2つの細長い枠の上に能の絵が描かれています。この細長い枠は、一番ポピュラーな大きさの納札、一丁札(4.8x14.4㎝)に相当しています。

2枚の一丁札を繋げて一枚の能絵に仕立て上げたデザインです。

さすがに浮世絵師、熊耳 耕年ですね(^.^)

 

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資料27-1 『納札 能楽合せ』(1)

2020年12月28日 | 能楽ー資料

能楽の納札です。

納札は、千社札ともよばれ、神社や寺に参詣し,その記念に、自分の姓名,住所などを記した札を納めたり,社殿に張るなどするものです。

古くは、巡礼者が霊場に参拝したしるしに納める札のことでしたが、手書きから墨刷り、さらには多色刷りの華やかな品が増え、次第に好事家の愛好品となり、交換会も行われるようになりました。また、本来のおさめ札から、商売の宣伝や名刺代わりにも広く使われるようになりました。

14.6cm x 12.0㎝、厚2.9㎝。大正時代。

蛇腹の両側、表裏に、びっしりと納札が貼ってあります。

 

その中で、今回と次回は、能楽の納札を紹介します。

見開きで、2枚の納札が貼られています。

 

絵の大さ:13.8cm x 9.9㎝

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

絵を描いたのは、熊耳 耕年(くまがみ こうねん)明治2(1869)年- 昭和13(1938)年)。明治から昭和時代はじめにかけての浮世絵師、日本画家で、挿絵画家としても活躍しました。

 

 

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能楽資料26 『音曲玉淵集』を読む

2020年12月26日 | 能楽ー資料

先回に引き続き、『音曲玉淵集』です。

江戸時代に書かれた書物ですが、明治に入ってからも、謡曲や能を習得する場合、大変参考になる本です。

ただ、謡いについて非常に詳細に書かれ、難解な部分も多い大著なので、なかなか読もうという気になれませんでした。

今回、巣籠りで時間は十分あり、少し齧ってみました。

 

この本の全体がつかめるよう目次をのせました。江戸版の一巻は手元に無いので、明治版です(^^;

 

                     

 非常に多くの項目があります。文字が小さすぎて読みにくいですが、一巻、二巻は、主として開合について書かれています。

三巻は、拍子と声の出し方など、四巻は、謡いの勘所、五巻は、ふしなどについて書かれています。

謡いを習う人にとって、この本はバイブルです。しかし、ほとんどのブログ読者には馴染みの薄い内容だと思います。

そこで今回は、多くの人に関心のある事柄について、2点紹介します。

一つは、一巻(明治版)から、日本語の発音の変化、もう一つは、四巻(江戸版)から、和歌と謡いです。

 

『音曲玉淵集』で最も重点が置かれているのは開合です。

開合とは、日本語の発し方であり、一、二巻では、日本語の発声を、唇、口、鼻、顎などとの関係で詳細に解き明かし、その上で、謡曲の言葉を詳しく説明しています。次に示すのはその一部です。

一巻(明治版)

 

一 わう のかな   ウワウトいふように唱ふべし

育王山ア(イワウサン)  祇王(キワウ)  四王天(シワウサン) 鬼王(ヲニワウ)  横道(ワウタウ)
  
有王(アリワウ)  王伯王母(ワウハクワウホ)  青黄(シヤウワウ)  横障(ワウシャウ)
 
    あふ 開  おう 窄  わう ウワウ   如此三つ𪜈分ル
    
より生する音にて、といわんとすれは、先、のひゝきをのづと口内に生する也。然れは、の字を態(わざ)と加ゆるにはあらねと、を分明に唱へんとすれば、自然とのひゝき聞ゆる也。わに心なくして謡へば、育王(アウ)祇王(アウ)に成なり。されとも、是も開合かましく文明に過れは、口内不自由に聞えて悪し。か様の所は口傳を受くべし。

一 軟濁の事   三重濁とも云

は   ひ   ふ   へ   ほ  唇内也
フハ    フヒ            フヘ       フホ

ハ能生の假名也。を母字に置て一音に唱ふ事なり。
但字毎にいふにあらす。如此いふへき所々有。

 

ここには、二つのことが書かれています。

まず、「ワウ」の発音です。「ワウ」と書かれた語は、ワの前にウを付けて、「ウワウ」のように発音するというのです。王伯王母は、「ウワウハクウワウホ」と言うべきなのです。

ですから、あふ、おう、わうの3つは異なる発音で、「あふ」は口を開き、「おう」は口を窄り、「わう」は、ウワウと発します。

 

 

もう一つは、軟濁と言われるハヒフヘホの発音についてです。

は、ひ、ふ、へ、ほに、ふを付けて、フハ、フヒ、フ、フヘ、フホのように発音するというのです。

これは、謡いの中の言葉についてですが、能が成立した室町時代の日本語の発音の仕方が反映されていると思われます。

日本語は、時代によって発音の仕方が異なっています。私たちは、古代の人と同じように喋ってはいないのです。

時代の変化が最も大きかったのが、は、ひ、ふ、へ、ほ、だと言われています。大きく異なるのは唇の使い方です。

奈良時代には、唇を強く合わせて発音したそうです。子音のpを付ける感じです。ですから、ぱ、ぴ、ぷ、ぺ、ぽ、となります。

室町時代には、唇の合せが弱くなって、子音のfを付けたような発音に変わります。ふは(ふぁ)、ふひ(ふぃ)、ふ、ふへ(ふぇ)、ふほ(ふぉ)です。

江戸時代になると、唇はほどんど使わず、現在のようなhで始まる音、は、ひ、ふ、へ、ほ、に変わったと言われています。

『音曲玉淵集』が出された江戸時代中期には、かなり現代発音に近いものになっていたと思われます。この本の著者は、室町時代に成立した能の発音が損なわれるのを憂いて、開合について詳しく説いたのでしょう。

このような日本語の変化は、様々な資料を駆使して推定されています。奈良時代は万葉仮名、室町時代は宣教師が残した記録や『音曲玉淵集』などの著書が重要資料です。

現在では、『音曲玉淵集』は、能楽関係よりも、むしろ日本語音韻学関係でよく引用されるようになりました(^^;

 

一方、四、五巻は、謡いの個別技術の解説だけでなく、多くの和歌を引用しながら、謡いの本質を説いています。

四巻(江戸版)

    見渡せば花も紅葉もなかりけり
            浦の苫屋の秋の夕ぐれ 定家郷
    
此歌ハ音曲の命なりといへり誠に紅粉をぬらされどもおのつから風流の躰成りといへり先春の長暖なる折からのおもしろきより夏の空惣して一とせの哀ハ其時に當りてハ是に増る事あらしと思ふに秋の夕暮の浦の苫屋をみれはいつともわかぬ静なるけしきを感して言語のたえたる所、何のかさりもなくつくろひもなき哀れの含ミたる體なり謡の功勲これに同じ


この歌は、音曲の命なりと言えり。まことに紅粉(こうふん、 紅と白粉)を塗らざれども、自ずから風流の体、成りと言えり。まず、春の長暖なる折からの面白きより、夏の空、総じて一年の哀れは、その時に当たりては、これにまさる事あらじと思うに、秋の夕暮れの浦の苫屋を見れば、いつもと分かぬ静かなる景色を感じて、言語の絶えたる所、何の飾りも繕いもなき哀れの含みたる体なり。謡いの功勲これに同じ。

 

「新古今和歌集」の中の有名な一首ですが、この歌が音曲の神髄を表していると説きます。春や夏の風情をすばらしいと思うけれども、秋の夕暮れの苫屋を見て、その変わらぬ静かな風景にこそ、しみじみとした風流が感じられる。この和歌のように、何の飾りも繕いもないものの中に自ずから成る風流、すなわち、もののあわれこそが謡いのめざすところだと述べています。

謡いは、総合芸術である能の根幹をなすものです。したがって、謡によってもたらされるこのような情感は、能の本質に深くかかわっています。世阿弥のいう幽玄とは、定家の和歌によってもたらされるような心象風景なのかもしれません。

 

                    

 

 

 

 

 

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能楽資料25 稀覯本 『音曲玉淵集』

2020年12月24日 | 能楽ー資料

江戸時代に出された『音曲玉淵集』です。

『音曲玉淵集』は、江戸時代に出された謡曲関係の本の中でも、特に詳しく謡曲の謡い方を説いた秘伝書といわれてきたものです。

本来は全5巻ですが、故玩館にあるのは、二、四、五の3巻です。

また、明治、大正にも『音曲玉淵集』が出版されました。それらも併せて紹介します。

時中庚妥 編 、今村義福述僻案『音曲玉淵集』江戸時代(寛保三年?) 

右から、二、四、五巻。

木版でびっしりと書かれています。右から、二、四、五巻。

 

 二巻

 

 四巻

 

五巻

 

五巻末

奥付無し。

 

『音曲玉淵集』は、時中(三浦) 庾妥 (つぐやす)が、享保 12 (1727) 年に著した書ということになっています。しかし、現存するほとんどの『音曲玉淵集』は、寛保三年(1743)、今村義福が当時流布していた『音曲玉淵集』を編み直したものです。そして、宝暦十二年(1762)以降、何回か版を重ねています。明治以降に、再刊された『音曲玉淵集』も、宝暦版をもとにしているようです。なお、享保十二年版や寛保三年版に奥付があったかどうかは不明です。

 

今回の品ですが、5巻末には、奥付がありません。

そして、特徴的なのは、いずれの巻も、表紙に、凸凹で幾何学模様を著した肌色の厚紙が使われていることです。

このような本は、一般の書より高級品とされています。

ひょっとしたら、寛保三年版かもしれません。

この模様が流行った年代が分かれば、特定できるかもしれません。

前所有者の蔵書票が貼ってあります。大正2年当時から、この3巻だけだったのですね。

 

明治にはいってからも、『音曲玉淵集』は出されました。

国会図書館のデジタルこコレクションにあるのはこの本です。

大和田建訂『音曲玉淵集』江島伊兵衛発行、明治32年(明治36年6再版)、315頁。

 

 

木版から活版に変わりましたが、ほぼ、江戸版の表記を踏襲しています。

 

 

さらに、大正に入ってすぐ、『音曲玉淵集』が発行されました。

丸岡桂校訂『音曲玉淵集』観世流改訂本刊行會、大正元年、268頁。

 

発明家にして能楽研究家、観世流謡本の大改訂を志した丸岡桂の手になる本です。

 

 

ゴチを多用して、理解しやすいように工夫されています。

 

 

このように、故玩館所蔵には、『音曲玉淵集』が、江戸版、明治版、大正版揃っています。この3種を較べてみます。

江戸版

 

明治版

 

大正版

文章は全く同じなのですが、雰囲気が大分違います。

しかし、わかり易さは、やはり近代の版が勝っています(あたりまえですが((笑))。

これらの『音曲玉淵集』は、ずいぶん以前に入手しました。けれども、なかなか手強くて、ほとんど読んでいません。

それでは宝の持ち腐れ。思い切って、少しだけ齧りました。

結果は次回のブログで(^.^)

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能楽資料24 稀覯本 『謡曲拾葉抄』

2020年12月22日 | 能楽ー資料

江戸時代、謡曲の解説書として発行された『謡曲拾葉抄』です。

以前のブログで、豊臣秀次の命によって編まれた初の謡曲解説書『謡抄』を紹介しましたが、『謡曲拾葉抄』は、初めて「謡曲」という語を使った本として知られています。

内容は、『謡抄』をさらに発展させ、観世流百一番の謡曲に、詳細な注釈を加えたものです。江戸時代はもちろん、今日に至るまで、謡曲を解釈する際、基本となる書物です。

犬井貞恕『謡曲拾葉抄』京都 銭屋七良兵衛、明和九年

 

全20巻の内、三、四,九、一四、一七、二十の6冊しかありません。

しかもよく見ると、このうちの三、九巻の2冊と他の4冊とでは、表紙が異なっています。

 

三、九巻の表紙には、朱橙色の格子模様があります。

題字の紙は、黒の枠で囲まれています。

 

  三巻(加茂、竹生嶋、忠度、兼平、實盛)

いかにも古活字のように見えますが、明和九(1772)年の発行ですから、版木です。

 

九巻(姥捨、檜垣、鸚鵡小町、卒塔婆小町、関寺小町)

重い曲目ばかりが並んでいます。

 

旧所蔵者の巨大な朱印が押されています。

 

これら2冊が、果たして明和九年の『謡曲拾葉抄』か、確信がもてませんでした。

おまけに、表紙の格子模様は擦れて一部消えているように見えるし・・・

 

で、例によって、デジタル資料を探した結果、ありました(^.^)

『謡曲拾葉抄』九巻(早稲田大学デジタルコレクション)

私の物とほぼ同じです。上の2冊は、明和九年の 『謡曲拾葉抄』と考えて良いようです。

同じような場所に、旧所蔵者の印があります。こちらは少し控えめ(^^;

表紙の格子文は、やはり部分的に消えている。

 

おかしいと思いながら、私の『謡曲拾葉抄』の表紙を、再度、詳しく見てみました。三巻、九巻とも、同じように消えています。

ルーペで観察すると、どこにも擦れた痕は見当たりません。

はじめから、白の部分には朱格子が無いのです。

何と表紙は、霞模たなびく朱格子模様だったのです(^.^)

 

じゃあ、残りの4冊は何?

表紙には、何の模様もありません。

紙質も先の2冊と少し違います。

 

最終巻です。

見た所は、先の明和版とほとんど同じです。

 

なるほど合点、これは、山本長兵衛の版木を、檜常之助が譲り受け、明治になってから発行した『謡曲拾葉抄』でした。

なお、明治42年には、活版印刷で、『謡曲拾葉抄』( 國學院大學出版部)が出版されています。

良書は、装いを変えながら何度も発行されるのですね(^.^)

 

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