遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

高取焼菱形水差

2024年06月16日 | 高札

故玩館の隅にころがっていた水差しです。

少し古い品です。どうしてウチにあるのかわかりません。

最大径 11.8㎝、底径 9.5㎝、高 13.7㎝。明治?

底に、「東堂」(「東雲」?)の印銘があります。

高取焼に特有の釉薬が美しい。

しかし、土は、典型的な高取焼の土色(薄褐色)とは少し異なります。

すわ、新物か!?・・・・しかし、そうでもないようです。

内側の底には、目跡が5つあります。内側に別の器を入れて焼いた跡です。燃料の薪が貴重であった古い備前焼や美濃焼では、まま見られます。しかし、比較的新しい今回の品のような陶磁器では、例をみません。

ひょっとしたら、内底の目跡は、一生懸命に古陶磁を演出したものかもしれませんね(^.^)

蓋も少し歪みのある菱形です。木の塗りからすると、100年近くは経っています。このような手間のかかる物をわざわざ設える日本人の美意識は、なかなかのものですね。

内側目跡による古陶磁の演出が本当だとすれば、立派な木蓋を備えて必死に茶陶であろうとするこの品に、何とも言えない親近感をおぼえる私です(^.^)

 

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今に生きる高札『お寺の掲示板』

2023年06月15日 | 高札

 江戸時代から続いていた高札制度は、明治に入ってまもなく終わりを迎えました。高札場は、その後しばらく、明治政府や県令の布達を掲示するために使われましたが、やがて撤去されました。では、高札は、完全に歴史上のものとなってしまったのでしょうか。
それらしきものを探しに、近くを自転車でまわってみました。

小さな神社の入り口に、文字通りの高札が立っていました。文面は、高札そのものです、朽ちやすい木板が、石材に代わっていますが。

もう少し行った所のお寺です。駐車場脇に、掲示板がありました。心に写るような金言、名言が書かれています(私も写ってます(^^;)。

 
実は今、お寺の掲示板が注目を集めています。財団法人、仏教伝道協会は、お寺の掲示板に書かれた言葉を集め、掲示板コンテストを行っています。
その一部を紹介します。

  『隣のレジは、早い。』
       (東京都延立寺)

『NOご先祖、NOLIFE』
        (京都府龍岸寺)

『猫をしかる前に 魚をおくな』
          (静岡県鳳林寺)

『大丈夫だよ 生きていけるよ』
            (東京都正徳寺)

『ボーッと 生きても いいんだよ』
        (石川県恩栄寺)

『やられても やり返さない 仏教だ』
             (東京都築地本願寺)

『人のことを憎み始めたら ヒマな証拠』
               (東京都仏教伝道協会)
 
『生きにくいウィズコロナ 心はいつもウィズブッダ』
                     (京都府龍岸寺)

『のぞみはありませんが ひかりはあります 新幹線の駅員さん』
                                     (千葉県本妙寺)

 

「輝け!お寺の掲示板大賞」(主催・(財)仏教伝道協会)で、大賞になった言葉です。

2018年第一回大賞
『おまえも 死ぬぞ 釈尊』
             (岐阜県願蓮寺)

2019年第二回大賞
   『衆生は不安よな。阿弥陀動きます。』
                   (福岡県永明寺)
2020年第三回大賞
    『コロナよりも怖いのは人間だった 神奈川県ドラッグストア店員』
                   (熊本県明導寺)

2021年第4回大賞    
『仏の顔は 何度でも』
     (広島市超覚寺)

2022年第5回大賞
『武器を捨て 数珠を持とう』
            (京都市龍岸寺)
       
2022年の大賞『武器を捨て 数珠を持とう』を作ったのは、龍岸寺住職の息子さん(10歳)だそうです。

 

 

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生産所の掟札

2023年06月13日 | 高札

今回の品物は高札ではありません。高札と非常によく似た物で、生産所の掟札です。
生産所(生産会所)とは、明治初期、殖産振興を目的として設けられた金融機関です。明治元年十一月頃から、日田、大阪、函館などで地元の有力者によって設立された組織です。当初は、質屋と両替商を兼ねていました。しかし、資料に乏しく、詳しい事はわかっていません。

生産所質貸掟高札(高札№13)は、この質貸しの掟を記したものです。

29.1㎝x 、厚 53.6㎝。重 1.32㎏。明治3年10月。                                         

       
一質貸之儀者品々出所を相糺し可申ハ
 勿論無據手詰り候処よ里質物持参
 致し候事ニ候得ハ正路之取引専一之事
一不正之所常々恵念致し居訝ケ敷
 相見候ハゞ取押置可訴出事
 附不正之品と心付預り置候ハゞ鑑札
 取上咎可申付事
一無鑑札ニ而質貸致し候ハゞ見聞次第可訴事
一質貸六ケ月限之事
一仲間之内組々ニ而年行司役両人
 相立毎年七月参会之上不正路之
 取扱等無之哉堅取締可致不用
者ハ鑑札取上可申事 
   明治三庚午年
      十月     生産所

(裏面)
一鑑札譲引之節年行司
 押印之事
 表書之通相改申渡候條々
 添以相守可申者也 

(意訳)
     掟
一質貸しについては、品物の出所を調べるべきことはもちろん、拠り所無く、金に困窮した所から品物を持参した場合、 正しい方法での取引に力を注ぐこと。
一不正の所を常々気にかけておき、不審な物を見た場合には差し押さえて、通報すべきこと。
  附、不正の品と気づきながら預かり置いたばあい、鑑札を取り上げること。
一無鑑札で質貸しを行っているのを見聞きしたら、直ちに通報すること。
一質貸しは、六ヶ月に限ること。
一仲間の内、組々で年行司を二人立て、毎年七月に集会をもって、不正な取引等がなかったかを厳しく調べ、不届き者は、鑑札を取り上げること。
   明治三庚午年
      十月     生産所
(裏面)
一鑑札を譲り渡すときは、年行司が印を押すこと。
表書きの通り改め、申し渡す事柄を守るべきものである。


この生産所板札には、「掟」と書かれていますが、いわゆる高札ではありません。屋外に掲示された形跡はなく、生産所内に掲げられていたものでしょう。書かれている内容も、生産所の会員向けの決まりであり、質貸し業が、円滑に行われるようルールを定め、会員に周知徹底するためのものであったと考えられます。
この板札には、地名など手がかりになるものはありません。しかし、品物の出所からすると、岐阜県内の物と考えられます。しかも、生産所は全国にそれほど数多く作られたわけではありません。生産所に関する正確な資料やデータは乏しいですが、岐阜県では、加納藩が設置した長刀堀生産所(JR岐阜駅の南南東1㎞)が唯一知られています。

生産所は後に、太政官札を用いた金融業も担うこととなりました。太政官札は、日本初の全国に通用する紙幣です。新政府は、戊辰戦争による財政難の解決と産業振興を目的として、慶応4年4月、通用期限13年の太政官札を発行しました。しかし、それまでの藩札に対して、金銀銭との交換を保証しない不換紙幣に人々が慣れていない事に加え、政府への信用がまだ十分でなかったため、流通は困難を極めました。そこで、政府は生産所に太政官札を融資し、その運用を行わせたのです。そして、一般へ貸し付けを行い、利子をとる銀行業も行ったのです。
しかし、明治15(1882)年の「日本銀行条例」などの制定により、円を通貨とする新しい貨幣制度が定着し、太政官札の使命が終わるとともに、生産所もその役割を終えました。

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高札板を書いたのは誰?

2023年06月11日 | 高札

故玩館の高札のうち、最も多いのが五榜の掲示です。故玩館所蔵の高札14枚(同じものを含めると16枚(^^;)の内、6枚(同じものを含めると8枚(^^;)が五榜の掲示です。せっかく数が揃ったのですから、これらを比較して、何かを導くことができないか、頭をひねりました(^.^)

最も役に立つ手掛かりは、高札の裏書きです。裏書きのある物は約半数、主に、高札の掲示場所(地名)が書かれています。
裏書きの地名から判断して、第二札徒党強訴逃散禁止(大野郡政田村、高札№8、)、第三札切支丹禁止(山縣郡古市場村、高札№9)、第二・第三合併札(弓懸村、高札№10)、第四札(大野郡更地村、高札№11)、第五札(下松倉村、高札No.12)の5枚は、岐阜県内に掲示された高札です。

第二札徒党強訴逃散禁止(大野郡政田村、高札№8)

第三札切支丹禁止(山縣郡古市場村、高札№9)

第二・第三合併札(弓懸村、高札№10)

第四札(大野郡更地村、高札№11)

第五札(下松倉村、高札No.12)

そして、筆致からすると、この内の2枚、第二札(高札№8)と第三札(高札№9)は、同一人物(役人)によって書かれたと推定されます。第二札徒党の禁止は大野郡政田村(現、本巣市)、第三札切支丹禁制は山縣郡古市場村(現、岐阜市)に掲示されました。

さらに、資料にあたると、この二枚の高札は、全文が、笠松縣が第二発給主体となった高札とほぼ同一の書体で書かれていることがわかりました。特に、「定」、「太政官」の「政」と「官」の字に特徴があります。

(『岐阜県の明治維新』岐阜県博物館、平成8年より)

 これらの高札を比較してみると、笠松縣を含めた美濃地方の中東部各村の高札は、同一の人物(笠松縣の役人)が書いたことがわかります。これまで、五榜の掲示の高札板を、誰が書いたか不明でしたが、これによって、一定の地域を、一人の人物が受け持って、墨書きしたことがわかます。
江戸時代、中山道のバイパス、美濃路の笠松宿は、木曽川水運の中心として重要な場所に位置し、天領となって、郡代陣屋(日本全国に4か所)の一つが置かれていました。慶応四年四月十五日には笠松裁判所が設置され、美濃、飛騨の天領を管轄しました。なお、この裁判所は、明治初の地方行政、司法機関であり、翌年、そのまま笠松縣となりました。同時に、大垣藩、岐阜加納藩をはじめ美濃の諸藩はそのまま存続していて、この体制は明治四年十一月の廃藩置県まで続きました。ですから、五榜の掲示の五枚の高札は、実際に作製され、掲示された時期によって、発給主体が複雑に変化するのです。
そして今回、五榜の掲示第二札、第三札の書体を検討することにより、明治初期の有力機関、笠松縣が美濃の中央地域の高札を管轄していたことが明らかとなりました。

一方、第二札、第三札を合併した高札(高札№10)は郡上郡弓懸村の品で、墨書した人物は前2枚の高札を書いた人物とは異なります。

また、第四札(高札№11)は大野郡更地村(現、本巣市) 掲示物で、第二札、第三札を書いた人物とは異なる人によって書かれています。西美濃に属するこの地は、大垣藩領であり、明治に入っても、中濃を管轄していた笠松縣とは異なる役所の管轄下にあったと思われます。なお、江戸時代、美濃地方には、尾張藩領地の村がかなり多くあり、明治になってからも行政的区分は複雑で、五榜の掲示5高札の第二発給主体が尾張藩である物が散見されます。


さらに、第五札は、書体が他と大きく異なっています。この高札は、葉栗郡松倉村の掲示物と思われます。ここは、江戸時代、天領だったので、明治に入り、笠松縣になったはずですが、笠松縣の役人が書いた第二札、第三札とは書き方が全く違います。多数の高札なので、笠松縣に所属する何人かの役人が、分担して書いたのかもしれませんね。

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明治六年四月『栃木県布達第三十三號』「人相書」

2023年06月09日 | 高札

先回のブログで、高札札廃止後の高札場の行方について、明治六年の栃木県布達書を例に述べました。それは、5丁ある布達のうちの一部(2丁)だと思っていました。しかし、これが、いつもの早合点(^^;  よく見ると、残りの3丁は別の布達でした。しかもなかなか面白い。今回は、この部分、明治六年栃木県布達第三十三號を紹介します。

第三十三号
        人相書
            加賀國第廿區
              大聖寺中新道居住
               石川縣貫属士族
                                    樫田猪三郎
                                     三十五才
一身丈ケ五尺一寸斗
一中肉
一顔長キ方
一色浅黒キ方
一言舌静ナル方
一鼻口常体
一眉毛薄キ放生
一眼並
一総髪二テ摘結
    衣類
一青色袖付雨合羽
一藍紺竪縞上着
一木綿八丈縞似寄シ下着
一紺背割羽織
一白又引
一浅黄色脚絆
一菅笠阻古キ方

         同國第廿區内
            新組町居住
               同縣貫属士族
                                    高野久三郎
                                       四十六才
一身丈五尺三寸斗
一小シク痩セタル方
一顔長ク四角ナル方
一色赤黒キ方
一言舌サハヤカナル方
一眉毛鼻口常体
一総髪二テ小髷
    衣類
一紺色大羅紗蝙蝠合羽
一黒色袖付雨合羽
一白フラン子ル又引
一紺色脚絆
一菅笠伹新シキ方
一脇指一腰
右之者共明治五年十一月十一日加賀國江沼郡
瀬越村大家七三郎方へ押入持兇器強盗相働金
千五百圓餘盗取逃去致シ候二付於各地方官厳
密捜索ヲ遂ケ及捕縛候ハ、速二當省へ可伺出

    明治六年三月     司法郷江藤新平
                              司法大輔福岡孝弟

右御達之上得其意厚ク可致遵奉モノ也
  明治六年四月    杤木縣令鍋嶌幹

 

なんと、これは、強盗犯2人の人相書(手配書)だったのです。写真などなかったこの時代、犯人の特徴をどう描写したのかがわかります。体や顔つきはもちろんですが、喋り方も入っています。さらに、身なりについて事細かに描写しているのも、この時代ならではでしょう。

盗んだ金が千五百圓というのも驚きです。当時の一円が現在の2万円くらいに相当するとすれば、3000万円ほどにもなります。全国手配になるはずですね。

この手配書は、明治六年三月、司法郷江藤新平、司法大輔福岡孝弟の名で出されています。当時、江藤新平は法務関係のトップとして、司法権の独立、司法制度の整備など、日本の近代法体制作りに邁進していました。下級武士の出ながら、俊英としてその能力を高くかわれて、明治政府で重要な地位にあったのです。しかし、彼の性格は、生真面目で直情型、正義感が強く、妥協を許さない天才肌の高潔人間でした。山縣有朋、井上馨ら明治政府高官の腐敗を厳しく追及していました。日の目をみたかったものの、妾の禁止なども構想していたといいます。海千山千の政治家たちとは、とうてい相いれなかったのです。当然、大久保利通とも不仲。征韓論を機に、西郷隆盛とともに下野します。そして、故郷佐賀で、不平士族らの首領に擁立され、政府軍と戦うことになります(佐賀の乱)。破れた後、薩摩の西郷隆盛に援軍を求めますが不調、逃亡先の高知で捕えらえ、反逆者として斬首、晒し首となりました。今回の手配書が出された明治六年三月からわずか一年後、明治七年四月でした。

その3年後の明治十年、西郷隆盛が決起、破れて自害します。

そして、佐賀の乱の際、先頭となって政府軍を指揮した大久保利通も、4年後、明治十一年に暗殺されてしまいます。

この3人は、いずれも40代、働き盛りの時に非業の死をとげています。明治初期、幕末の残り火が、傑出した人材を消していったのですね。

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