遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

村瀬秋水『巻物『大雅画法』写』

2024年12月29日 | 文人書画

古い巻物です。

広げると、かなりの長さになります。

28㎝x466㎝。江戸後期ー明治初。

一筆書きのような書体です。このような書法があるのでしょうか。

「逸氣芨毫」  逸氣;気持ちがたかぶる事。

芨はよくわかりませんが、「気持ちが高ぶって筆をとった」という意味でしょうか。

その後に、いくつかの絵が描かれています。

最初は、「五代松石」。

どこかで見たことのあるタッチだと思いました。調べてみると、文人画を大成した池大雅の絵手本、『大雅画法』の中に似た絵がありました。

村瀬秋水が、文人画の大家、池大雅の画法を学ぶために、絵手本を写したのですね。

以下の絵も、『大雅画法』に元絵がありました(上が村瀬秋水、下が『大雅画法』)。

「元人層巒」

「叔明亂麻」

「竹巖新霽」

「仲圭谿居」

「碧梧翠竹山房」

「長頭馬牙」

「亂麻」

「高房山房」

『大雅画法』に載っていない絵もありました。タイトルがついていないので、村瀬秋水オリジナルの画でしょう。

池大雅と妻、玉瀾は、ともに、世俗的な事柄には無頓着で、二人で絵画三昧の清貧生活をおくりました。大雅は、自分が亡くなった後、玉瀾が画業で生きていけるよう、多くの絵手本を残しました。その中の一つ、『大雅画法』は、大雅の死後30年ほど後に、関係者が出版した絵手本です。村瀬秋水は、池大雅の70年後に生れています。直接的な影響は受けていませんが、大雅の残した絵手本を写す中で、大雅の画法を身につけていったのでしょう。

そういう眼でこれまで紹介した村瀬秋水の山水画を見てみると、明らかに池大雅の描法が反映されていることがわかります。

『水墨淡彩 寒江獨釣図』

『水墨淡彩 養老瀑布図』

 

 

 

 

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村瀬秋水『水墨淡彩 養老瀑布図』

2024年12月27日 | 文人書画

先回に引き続き、江戸後期から幕末、明治初期に活躍した美濃の南画家、村瀬秋水の山水画です。

全体:64.1㎝x211.5㎝、本紙(紙本):48.0㎝x170.7㎝。明治五年。

有名な養老の滝を描いた水墨画です。

古くから歌に詠まれ、画題としても多く取り上げられてきました。さらに孝行息子のお話しも、さして大きくないこの滝を全国版に押し上げました。

瀧脇の楼には、文人墨客が集い、浮世の憂さを晴らしたそうです。

ブログで2回にわたって紹介した水墨画は、いずれも村瀬秋水、晩年の作です。先回の『寒江獨釣図』は、地元、美濃の長良川に、今回の『養老の滝図』は、西濃、養老山地など身近な風景を基に、文人が隠棲する理想郷を求めた村瀬秋水は、地味ながらも、美濃を代表する文人画家といえるのではないでしょうか。

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村瀬秋水『水墨淡彩 寒江獨釣図』

2024年12月24日 | 文人書画

江戸後期の文人画家、村瀬秋水の水墨山水画です。

全体:41.6㎝x192.5㎝、本紙(紙本):39.8㎝x137.5㎝。江戸時代後期。

【村瀬秋水】(寛政六年(1794)年ー明治九年(1876)年)美濃國武儀郡上有知(こうずち)村(現、岐阜縣美濃市上有知)の大庄屋の生れ。江戸時代後期の南画家。頼山陽の高弟であった兄、藤城とともに、家業に従事。兄の死後は、美濃の山中に隠棲し、画仙と称して画業に専念し、枯淡の作品を多く残した。

厳しい冬の山河。

静まり返った川面に小さな釣船が一艘。

静寂の冬景色の中で、蓑傘の釣師は自然のなかに溶け込んでいます。

実はこの絵は、古来から描かれてきた有名な画題、『寒江獨釣図』です。

そして、『寒江獨釣図』は、唐の詩人、柳宗元の詩「江雪」に基づいて描かれています。

今回の品には、村瀬秋水がその詩を讃として掛軸上部に書いています。

七言絶句「江雪」
千山鳥飛絕
万徑人蹤滅
孤舟蓑笠翁
獨釣寒江雪

千山、鳥飛ぶこと絶え
万径、人蹤滅す
孤舟蓑笠の翁
独り釣る寒江の雪

千山;多くの山々
万径;多くの道
人蹤(じんしょう);人の足跡。人の往来。

すべての山から鳥の飛ぶ姿が絶え、
あらゆる小径には人の足跡が消えた。
一艘の小舟に、蓑笠をまとった老人が一人、
降りしきる雪の中で釣り糸を垂れている。

村瀬秋水は、今回の作品だけでなく、他にも『寒江獨釣図』をいくつか描いています。彼の愛した画題だったのですね。

今回の水墨画は、冬の長良川、特に、美濃市~関市辺りの情景を想い起させます。美濃の山奥に隠棲して書画三昧の生活をおくっていた村瀬秋水にとって、この絵は、彼の心景であるとともに、眼前に広がる真景でもあったのではないでしょうか。

 

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渋沢栄一 七言絶句『偶成』

2024年12月21日 | 文人書画

実業家、渋沢栄一の自作漢詩です。

渋沢栄一 七言絶句「偶成」、色紙(18.1㎝X21.0㎝)。昭和。

【渋沢栄一】天保十一(1840)年―昭和六(1931)年。実業家。武蔵国血洗島の豪農の生れ。一時、倒幕運動に参加したが,後に一橋家に仕え幕臣となる。慶喜の弟、昭武のフランスの万国博使節団に加わり,ヨーロッパの近代的社会経済見聞した後、多くの近代的企業会社を興し、日本の近代化を推進した。

 

七言絶句「偶成」(「春花落尽」)                  

春花落尽忽秋霜
一瞬朝暉変夕陽
休説世間人事劇
観来造物亦多忙
  青淵録奮作

春花落ち尽くせば、忽(たちまち)秋霜。
一瞬の朝暉、変じて夕陽。
説くを休(や)めよ、世間人事の劇(はげ)しきを。
観来すれば、造物も亦(また)多忙。

偶成(ぐううせい);ふと出来上がった詩。
朝暉(ちょうき);朝日の光。
夕陽(せきよう);夕日。
人事(じんじ);世間の出来事。
劇(はげし);めまぐるしい様。
観来(かんらい);見てみれば。
造物(ぞうぶつ);自然。

春の花が散れば、たちまち秋霜が降りる。
一瞬の朝日も、すぐに夕日に変わる。
世間の出来事がめまぐるしいなどと言うなかれ。
見てみれば、自然だってはやく移り変わっているではないか。    青淵(栄一の号)、旧作を記す。

 

明治四二(1909)年、実業界を大方退いた渋沢栄一は、8月19日、渡米実業団一行を率いて東京を出発し、横浜よりミネソタ号に乗船、シアトルに向かいました。今回の漢詩は、横浜を出発する際に詠まれた『遊米雑詩』の中の一部です。他の漢詩のほとんどが、旅に関するものであるのに対して、今回のブログで取り上げた作品は「偶成」と題されているように、ふと心に浮かんだ人生の機微をうたったものです。実業界を主導し、がむしゃらに日本の近代化をしてきた渋沢ですが、一線を退き、長旅に船出する時、これまで自分が歩んできた道程を振り返って感慨に耽っていたのではないでしょうか。

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染付磁胎七宝草花鳥紋鉢

2024年12月18日 | 陶磁胎七宝

磁胎七宝の鉢です。

口径 16.1㎝、高台径 6.8㎝、高 8.1㎝。重 467g。明治。

平凡な器形の磁器鉢に、泥七宝が施された品です。

ウッカリすると、清あたりの中国製磁器かと、素通りしそうな品です(^^;

緑青色の地は、これまで紹介してきた陶磁胎七宝に多く見られたハート形ではなく、丸い植線で埋め尽くされています。

扇形の大きな窓には、牡丹の花。

反対側の窓は、ツバメに柳があしらわれています。

二つの窓の間は、花幾何学紋が散りばめられています。

これまで紹介してきたほとんどの陶磁胎七宝と違って、器形に凝っていなので、平凡な感じがする作品です。

けれども、見込みには、いっぱしの絵付けが・・・

楼閣紋ですね。

磁器の特性を生かして、しっかりと、染付けが併用されています。

おまけに、底にはおなじみの「大明成化年製」の銘が。

平凡な鉢が、一気に、レアものの仲間入りを果たしました(^.^)

 

 

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