遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

源氏物語横笛四方盆と能『落葉』

2021年06月28日 | 漆器・木製品

輪島塗源氏物語横笛四方盆です。

21.4x21.2㎝、高2.3㎝。明治―戦前。

 

これまでの盆と同じく、沈金で絵と和歌が描かれています。

源氏物語37帖『横笛』の一場面です。

一管の笛と笛袋が描かれています。

歌口と7個の指孔がありますから、雅楽で用いられる龍笛でしょう。平安時代の公家にとって、横笛(龍笛)の素養は必須であり、源氏物語や謡曲には、すばらしい音色の名管とともに笛の名手が何人も登場します。

 

今回は、そのような名管をテーマにした品です。


 「横ふえの
    しらへは
      ことに
  かわらぬを
     むなしく
       なりし
  ねこそ
    つきせね」

源氏物語第37帖『横笛』の中の和歌です。

源氏物語も後半になると、人物間の関係はますます複雑になり、何が何だか分からなくなります(^^;

第37帖のこの場面に登場するのは、源氏ではなく、その子の夕霧(28才)です。

源氏の息子、夕霧は、友人の柏木が亡くなった後、その妻、落葉の宮を見舞います。そして、落葉の宮の母、一条御息所は、柏木が愛用した笛を夕霧に託します。

この時に、夕霧が詠んだ歌がこれです。

横笛の 調べはことに 変はらぬを むなしくなりし 音こそ尽きせね
(横笛の音色は特に昔と変わりませんが、亡き人を悼んで泣く声は尽きません)

この日、夕霧はそのまま帰るのですが、結局、二人は仲むつまじくなります(^^;

なお、落葉の宮は俗称です。彼女は、朱雀帝(源氏の異母兄)の娘、女二宮なのです。
柏木は、妹の女三宮に惹かれていたのですが、源氏に先をこされ、やむなく姉の女二宮を妻にしました。しかし、女三宮をわすれることができません。
 「もろかずら落葉をなにに拾いけん、名はむつましきかざしなれども」(『若菜(下))
 (桂と葵の髪飾りの様に、仲睦まじい姉妹ではあるが、どうして落葉の様に劣った姉、女二宮を妻にしたのだろう)

このように、夫に、ボロカスに言われ、「落葉の宮」とよばれるようになったのです。

 

落葉の宮を主人公にした能が、『落葉』です。実は、私、この能を知りません。謡曲でもやったことがありません。

能『落葉』は、金剛流に伝わった能で、他では、喜多流で演能されるのみです。

旅僧が、山城国小野の里にやってきます。この地は、かつて浮舟が住んだ場所であり、僧が浮舟を弔い成仏させようとしていると、里女(シテ)が現れます。そして、手習いの君(浮舟)しか供養しないのかと問い、ここは、女二宮が隠棲しようとした落葉の宮の旧跡であると告げます。そして、女二宮の一生を説いて、彼女も供養してほしいと言って姿を消します。(前段)
あの里女は女二宮の亡霊が化身したものであったのかと僧が夜通し仏事を営むと、ありし日の姿で女二宮があらわれ、仏事の効力による成仏を喜んで舞を舞い、去っていきます。(後段)

横笛の和歌は、後段、落葉の宮が序の舞を舞い、能が最終段階に入った時に詠まれます。

シテ「横笛の。調べは殊に変わらぬを。
地「空しくなりし音こそつきせね。音こそつきせね。音こそつきんせね。
シテ「もとより此身は落葉衣の。袖をひるがへし。
地「嵐も木枯しも。
シテ「はげしき空なるに。
地「さやけき月に妄執の夕霧。身一つに降りかかり。目も紅の落葉の宮は。せんかた涙に咽びけり。
シテ「されども逆縁の御法を受けて。
地「されども逆縁の御法を受けて。罪科も脆き落葉の音は。ほろほろはらはらと。時雨にまじりて行く雲の。棚引く山より明け渡れば。時雨と聞きしも跡絶えて。落葉と聞きしもあとはかなくて。山風ばかりや残るらん。

横笛の和歌をうたったのち・・・・・・
自分の身は落葉のようなもので、嵐、木枯らしがはげしかった空に月明かりがさしても、夕霧に対する執心が身から離れず、目を赤くして涙にくれています。
しかしながら、不意の御追弔を受けて、落葉がはらはらと散るように、罪科も時雨まじりの雲の様に去っていきます。雲がかかった山から明けていくと、時雨と聞こえた音も落葉と聞こえた音もあとかたなく消えて、山風ばかりが残っています。

能『落葉』は世阿弥の作です。地元の人間の形を借りた主人公(ここでは、里女)が、僧に自分の身の上を語り、その夜、僧が亡き人を供養している時に、亡霊が現れ、舞いをまって成仏し、去っていきます。このような夢幻能は、世阿弥の得意とするところで、派手な劇的要素はありません。中でも特に、『落葉』では、主人公が自分の境遇を淡々と語る事に終始しています。言い換えれば、源氏物語をなぞっているとも言えます。女二宮を落葉にたとえた柏木の歌も出てきます。主人公、落葉の宮が、柏木や夕霧に対して抱いていた自然な感情を、ほぼそのまま表しています。夢幻能であっても、人物の性格、感情設定に一捻りを加え、ストーリーを設定する世阿弥の能にしてみれば、能『落葉』はかなり珍しいものだと思います。落葉の宮が、スポットライトの当たることのない、地味な女性であったからこそ、能でとりあげようと考えたのではないでしょうか。。この能の冒頭、シテ、里女は、旅僧に対して、浮舟だけでなく、落葉の宮の旧跡も弔ってくれと頼みます。これは、世阿弥の言葉でもあったと思いたいです。

 

輪島塗源氏物語盆ー謡曲シリーズはこれで終わりです。

 

おまけ:

角度を変えながら見ると、木目が浮かび上がります。どのようなな塗物であっても、木製の器には、かすかに年輪などが凹凸となって表れます。プラスチック製との違いはここにあります。また、丸い盆や椀なら、轆轤挽きされているので、器体は、中心から周縁にむかって次第に薄くなっています。プラスチックは、すべて均一です。

 

宇宙船に誘われるET(^.^)

 

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源氏物語賢木四方盆と能『野宮』

2021年06月24日 | 漆器・木製品

輪島塗の黒漆四方盆です。

21.4x21.6㎝、高2.3㎝。明治―戦前。

 

沈金で絵と和歌が表されています。

源氏物語十帖『賢木』の一場面です。

 

鳥居と垣根は、六帖御息所が隠れた野宮を表しています。大きな木は、榊でしょう。

 

「神かきハ
  しるしの
    すきも
     なきものを
 いかにまかへて
     をれる
      さかきを」

 

葵上との争いにやぶれ、源氏との間が遠くなってしまった六条御息所は、斎宮に従って伊勢へ下向することにしました。そして、野宮(斎宮へ下向する前に身を清めるために留まる所)に隠れるように滞在しているところへ、源氏が逢いにやってきます。小芝垣の塀に囲まれた一角の黒鳥居をくぐり、榊の枝を折って差し出した源氏に対して歌をおくります。

神垣に しるしの杉もなきものを いかにまがえて 折れる榊を」(ここの神垣には、目印となる杉がないのに、どうお間違えになって榊を折り、私を訪ねておいでになったのですか)

疎くなった源氏に対して、六条御息所はいやみを言いながら、クールに接しています。

なお、「しるしの杉」とは、古今集にある次の歌にある杉をさしています。

「わが庵は 三輪の山もと 恋しくは とぶらひ来ませ 杉立る門」古今集982 詠人知らず(私の粗末な家は三輪山の麓にあります。恋しくなったら、どうぞ訪ねて来て下さい。門脇にある杉を目印にして)

それに対して、源氏は歌を返します。


「 少女子(おとめご)が あたりと思へば 榊葉の 香をなつかしみ とめてこそ折れ」(少女子がこの辺にいると思うと、榊葉の香りが懐かしく、探し求めて折ったのです)

こうして源氏は、御簾の内に入ることができました。

あとは、例によって例のごとく(^.^)

 

源氏物語『賢木』のこのくだりをもとに、世阿弥が作った能が『野宮』です。

   木版画『野宮』、明治。

【あらすじ】晩秋の頃、京都の嵯峨野にある野宮の旧跡を、旅の僧(ワキ)が訪れます。すると、若い女(シテ)が現れ、ここは、昔、六条御息所が斎宮になる皇女とともに籠った場所で、葵上に源氏を奪われ、傷心して伊勢へ下向する身なのだと語り、姿を消す。(前段)

その夜、僧(ワキ)の前に、ふたたび六条御息所の霊(シテ)が若い女の姿であらわれ、源氏との思い出や牛車で葵上との諍いに敗れたことなどを語り、昔を偲んで舞いをまったあと、車にのり、成仏して、迷いの世界から抜け出ていく。(後段)

 

源氏物語「賢木」の歌が登場するのは、前段です。


ワキ「これは諸国一見の僧にて候。我このほどは都に候ひて。洛陽の名所旧跡残なく一見仕りて候。また秋も末になり候へば。嵯峨野の方ゆかしく候ふ間。立ち越え一見せばやと思ひ候。
これなる森を人に尋ねて候へば。野の宮の旧跡とかや申し候ほどに。逆縁ながら一見せばやと思ひ候。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ワキ「われこの森の陰に居て古を思ひ。心を澄ます折り節。いとなまめける女性一人忽然と来り給ふは。いかなる人にてましますぞ。
シテ「いかなる者ぞと問はせ給ふ。そなたをこそ問ひ参らすべけれ。これは古斎宮に立たせ給ひし人の。仮に移ります野の宮なり。然れどもその後はこの事絶えぬれども。長月七日の今日は又。昔を思ふ年々に。人こそ知らね宮所を清め。御神事をなす所に。行方も知らぬ御事なるが。来り給ふは憚りあり。とくとく帰り給へとよ。
ワキ「いやいやこれは苦 しからぬ。身の行末も定なき。世を捨人の数なるべし。さてさてここは古りにし跡を今日ごとに。昔を思ひ給ふ。いはれはいかなる事やらん。
シテ「光源氏この処に詣で給ひしは。長月七日の日けふに当れり。その時いささか持ち給ひし榊の枝を。忌垣の内にさし置き給へば。御息所とりあへず。神垣はしるしの杉もなきものを。いかにまがへて折れる榊ぞと。詠み給ひしも今日ぞかし。
ワキ「げに面白き言の葉の。今持ち給ふ榊の枝も。昔にかはらぬ色よなう。
シテ「昔にかはらぬ色ぞとは。榊のみこそ常磐の陰の。
ワキ「森の下道秋暮れて。 
シテ「紅葉かつ散り。
ワキ「浅茅が原も。 
歌地「うらがれの。草葉に荒るる野の宮の野の宮の。跡なつかしきここにしも。その長月の七日の日も。今日にめぐり来にけり。ものはかなしや小柴垣。いとかりそめの御住居。今も火焼屋のかすかなる。光は我が思い内にある色や外に見えつらん。あらさみし宮所あらさみしこの宮所。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

能『野宮』はかなり長いのですが、源氏物語「賢木」の和歌に直接関係する場面は前段の中ほど。僧が若い女に、事のいわれを尋ね、それに対して、女が光源氏が野宮を訪問してきた下りを述べるところです。
ワキ「いやいやこれは苦 しからぬ。・・・昔を思ひ給ふ。いはれはいかなる事やらん。」(いやいや私は不都合な者ではありません。・・・昔が思い出されるというのはどういう事なのですか)に対して、シテ(女)は答えます。

女】光源氏がこの所に詣でなさったのは、九月七日の日、今日にあたります。その時光源氏がすこしばかりお持ちになった賢木の枝を、社の垣の内にさして置かれたので、六条御息所は、とりあえず、「神垣はしるしの杉のなきものを、いかにまがへて折れる榊ぞ」と詠まれたのも今日に当たります。
僧】本当に面白いお話ですね。今、あなたがもっていらっしゃる榊の枝も、昔と変わらない色ですねね。
女】昔に変わらない色とは、榊だけです。榊はいつも常盤色ですが、その陰の下道は、秋が過ぎると紅葉が散り出して、浅茅が原の草葉もうら枯れて行き、野宮のあたりは全く荒れてしまうのです。

源氏が折って差し出した榊は、いつも変わらず青々としているが、私の居る野宮は、秋には草茫々と荒れてしまう。同じように、私の心も寂しく荒涼としたものだと六条御息所は言いたかったのでしょう。

後段は、加茂の祭りの際、物見に来た葵上と六条御息所の車の止め場所めぐる争いが中心です。葵上の従者たちによって、片隅へと追いやられてしまいます。源氏をめぐる二人の立場を象徴するような出来事ですが、このように情けない自分の身の上も、前世に犯した罪のむくいによるものであるから、神仏にすがって、迷いの心を絶ちたいと去って行きます。

このように、能『野宮』は、晩秋の荒涼とした野宮を舞台にして、六条御息所のはかない身の上を、しみじみとした情感のなかに描き出す名作です。

六条御息所を主人公とした能には、もう一つ、『葵上』があります。やはり、世阿弥の作です。題名は『葵上』ですが、実際には登場しません。舞台に置かれた小袖が、病床の葵上を表します。この能では、辱めを受けた六条御息所が、恨みと嫉妬が昂じて鬼女となり、病床の葵上に襲いかかろうとする物語です。

一人の女性を主人公にして、全く対照的な二つの名作を作り上げた世阿弥は、やはり天才ですね。

 

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野菜の垂直栽培、中間レポート

2021年06月22日 | ものぐさ有機農業

夏野菜類も、大分育ってきました。

以前、野菜を縛って育てる垂直栽培について、ブログで紹介しました。

とにかく、茎を縛って垂直にすれば、植物モルモンがうまく働き、無農薬、無肥料で、すばらしい収穫が見込めるというものです。

そんなウマイ話があるのかと、誰でも思います。私も半信半疑。とにかくやって見ない事には話しになりません。ただ、全部をその方法で育てると、結果を評価することができませんので、野菜の半分弱を縛って育て、通常の栽培法とで違いが出るかを見てみようと思いました。

今回は、その中間報告です。

 

トマトは、大中小、合わせて10本です。そのうち、4本が垂直栽培。

 

垂直栽培の場合は、基本的には側枝を除去せず、そのまま縛って育てます。したがって、枝を全部取り除く通常栽培法のトマトよりも、枝葉のボリュームはずっと大きくなります。

左:通常栽培   右:垂直栽培

大きな違いは、葉の状態です。

左の葉は、かなりカサカサで巻いています。下部の葉から順にこの状態が広がります。これは、毎年見られる現象ですが、一種の老化でしょうか。

それに対して、右側の垂直栽培の方のトマトは、ピンと張った青い葉が茂っています。

実り具合はまだ比較できませんが、おそらくなり続ける期間に差が出るのではないでしょうか。

ナスは大長ナス10本のうち、手前の4本が垂直栽培です。まだ、これといった違いは見られません。

 

一番大きく違いが出たのが、唐辛子、ピーマンの類です。やはり、10本のうち、4本を縛って育てました。

二つの穴があいていますが、これは枯れた苗を撤去した後、ネギをいれたものです。

他にも・・

現在進行形で萎れて、風前の灯なのが2本。

結局、10本のうち、4本は青枯れ病にやられました。この辺りの畑には、昨年もピーマン類を植えたのですが、全滅でした。

今回、生き残った(今のところ)6本のうち、4本は垂直栽培です。

縛ることによって、生長点で作られたホルモンが根に下り、根の発育を促して、有害菌の攻撃をかわしたのだと思います。

 

カボチャは、まだこれから。垂直にすることはできないので、同じ方向にツルをまとめて育てていきます。

別の畑では、サツマイモも比較実験をして、垂直栽培の効果を検討中です。

結果が楽しみです(^.^)

 

 

 

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沈金源氏物語夕顔四方盆と能『半蔀』

2021年06月20日 | 漆器・木製品

今回の盆は、源氏物語『夕顔』です。

21.2x21.4㎝、高2.4㎝。明治ー戦前。

 

塀にまとわりついた夕顔と源氏の和歌が、沈金で描かれています。

 

 

夕顔が絡まった塀。

 

源氏の歌。

「よりてこそ それかともみめ たそかれに ほのぼの見へ(つ?)る はなのゆふ皃 」

 

源氏は、夕顔が絡んだ貧しい家の主のことが気になって、惟光に夕顔を折ってくるように言います。夕顔は、白い扇にのせられ、女からの歌が書かれていました。

「心あてに それかとぞ見る 白露の 光そへたる 夕顔の花」
 (あて推量であなた様かと思いました。白露の光を添えた夕顔の花は)

この歌への源氏の返歌が、「寄りてこそ・・・」です。

「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 花の夕顔 」(もっと近くへよって見れば、はっきりと誰かわかるでしょう。黄昏にぼんやりと見た夕顔の花ですから。)

「もっと近くへ寄ればわかるでしょう」とは、恋多き源氏の自信にあふれた歌ですね(^.^)

 

さて、この歌を引用した能『半蔀』です。

      河鍋暁翠『能楽図説』明治31年

【あらすじ】京、紫野、雲林院の僧が立花供養をしていると、一人の女が現れ、夕顔の花を供えたので、その名を尋ねると、ただ五条あたりの者だとこたえ、花の陰に消え失せた。それは夕顔の亡霊であった。(前段)
五条を訪れた僧の前に、半蔀を押し上げて夕顔が現れ、光源氏との恋を語り始める。そして源氏の詠んだ歌を思い出し、夕顔の花を源氏に差し上げたことが縁で二人は契りを結んだと述べて舞をまう。やがて夜が明け、夕顔の霊は再び半蔀の内へと消え、僧の夢も覚めたのだった。(後段)

 

 

(後段)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
シテ「さらばと思ひ夕顔の。
地「草の半蔀おし上げて。立ち出づる御姿見るに涙の留まらず。
クセ「その頃源氏の。中将と聞えしは。此夕顔の草枕。たゞ仮臥の夜もすがら。隣を聞けば三吉野や。御嶽精進の御声にて。南無当来導師。弥勒仏とぞ称へける。今も尊き御供養に其時の思ひ出でられてそぞろに濡るゝ袂かな。猶それよりも忘れぬは。源氏この宿を。見初め給ひし夕つ方。惟光を招きよせ。あの花折れと宣へば。白き扇のつまいたう焦がしたりしに。此花を折りて参らする。
シテ「源氏つくづくと御覧じて。
地「うち渡す遠方人に問ふとても。それ某花と答へずば。終に知らでもあるべきに。逢ひに扇を手に触るる。契の程の嬉しさ。折々尋ねよるならば。定めぬ海士のこの宿の。主を誰と白浪の。よるべの末を頼まんと。一首を詠じおはします。折りてこそ。
(序ノ舞)
シテ「折りてこそそれかとも見め。たそがれに。
地「ほのぼの見えし。花の夕顔。花の夕顔。花の夕顔。
シテ「終の宿は知らせ申しつ。
地「常にはとむらひ。
シテ「おはしませと。
地「木綿付の鳥の音。
シテ「鐘も頻に。
地「告げ渡る東雲。あさまにもなりぬべし。明けぬ先にと夕顔の宿明けぬ先にと夕顔のやどりの。また半蔀の内に入りて其まゝ夢とぞ。なりにける。

 

五条あたりの貧しい宿のほとりに僧がやって来ます。舞台には、夕顔が絡まった作物が置かれ、シテ、夕顔はその中に入っています。僧とのやりとりの後、シテは、「さらばと思ひ夕顔の」(それならば)と夕顔の花が絡んだ半蔀を上げて、外へ出て、クセを舞います。

「・・・・・・・   猶それよりも忘れぬは。源氏この宿を。見初め給ひし夕つ方。惟光を招きよせ。あの花折れと宣へば。白き扇のつまいたう焦がしたりしに。此花を折りて参らする。(いえ、それよりも何よりも忘れられないのは、源氏の君が初めてこの宿をお見つけになった夕方、源氏の君が惟光をお招き寄せになって、『あの花を折れ』とおっしゃったので、私が白い扇の、端の方を十分に薫物でたきしめ、この夕顔の花を折って載せてさしあげました)
シテ「源氏つくづくと御覧じて。(すると源氏の君はそれをつづづくと御覧になって)
地「うち渡す遠方人に問ふとても。それ某花と答へずば。終に知らでもあるべきに。逢ひに扇を手に触るる。契の程の嬉しさ。折々尋ねよるならば。定めぬ海士のこの宿の。主を誰と白浪の。よるべの末を頼まんと。一首を詠じおはします。折りてこそ。(もしあの時、見ず知らずの私にお尋ねになっても、『これは夕顔の花でございます』とお答えしなかったならば、そのまま何時までも無縁の者として過ぎてしまったことでございましょう。この扇に手をお触れになったのが御縁となって、逢う契りを得たのは、ほんとうに嬉しいことでございます。そして、時折尋ね寄る宿の主―私が、素性の知れない海士の子であろうと、誰であろうと、頼りになってやろうと思召して、一首の歌をお詠みになったのでございます)
地「折りてこそ
(序ノ舞)
シテ「折りてこそそれかとも見め。たそがれに。
地「ほのぼの見えし。花の夕顔。花の夕顔。花の夕顔。(折りとってこそはっきりとわかるのです。夕暮れの薄明かりに見ただけでは、果たして美しい夕顔の花か、よくわかりますまい。私の事も、もっと親しくして下さらなければ、お分かりになりますまい)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

( )の日本語訳は、佐成健太郎『謡曲大観』第四巻2504頁より引用

シテ、夕顔は、クセ舞いの後、「折りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見えし 花の夕顔」と謡いながら、優美な序の舞をまいます。そして、夜明けとともに、半蔀の内に入り、消えていきます。すべては僧の夢のうちに終わります。

このように、能『半蔀』では、源氏物語、二人の出会いの情景が、夕顔の言葉をかりて語られています。源氏の歌「寄りてこそ・・」は、「折りてこそ・・」となり、私が夕顔の花を折って差し上げたからこそ、二人の縁ができたと夕顔は言います。「ほのぼの見つし花の夕顔」は源氏の姿であったのに対して、「ほのぼの見えし夕顔の花」は夕顔の貌です。能『半蔀』は、非常に雅な夢幻能で、夕顔が、夕顔の精に昇華した様をテーマにした能ともいえるのではないでしょうか。

源氏物語『夕顔』から題をとった能には、内藤左衛門作『半蔀』以外に、世阿弥作『夕顔』があります。能『夕顔』では、源氏との美しい想い出ではなく、源氏との逢瀬の時、物の怪によって儚く消えてしまった自分の運命が主題となっています。

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沈金源氏物語紅葉賀四方盆と能『船弁慶』

2021年06月18日 | 漆器・木製品

黒漆に沈金が施された輪島漆器です。

21.5 ㎝x21.2 ㎝、高2.3 ㎝。明治ー戦前。

沈金は、黒か赤の漆地に施されることが多いです。

沈金とは、ノミで塗面に模様を彫り、彫ったあとの凹部に漆をすり込み、そこへ金、銀の箔や粉などを押し込む技法です。

通常は、様々な絵柄模様を描くのですが、この四方盆では、絵の外に平仮名を彫っているのが特徴です。文字の肉厚も含め、滑らかな曲線を彫るのは技術を要します。

 

源氏物語第七帖「紅葉賀」の一場面が、沈金で描かれています。

先回紹介した四方盆と同じく、絵と詞(和歌)からできています。

絵は、紅葉と幔幕、和歌は源氏の歌です。

「ものをもふに
   たちもふ
     へくも
    あらぬみの
 そてうち
   ふりし
     こゝろ
      しりきや」

 

義理の母、桐壺の宮と密かに深い中になった源氏は、紅葉の最中、帝が懐妊した桐壺のために用意した舞の催しで、青海波を見事に舞います。そして、次の日、源氏は桐壺に和歌を送ります。

「もの思ふに 立ち舞ふべくもあらぬ身の 袖うち振りし心知りきや」
(あなたへの思いにとらわれて、とても舞いなどできそうもない私でしたが、一生懸命に舞いました。その心をわかってくれますか)

桐壺の返歌。「唐人の 袖ふることは遠けれど 起ちゐにつけて あはれとは見き」
(唐人が袖を振り舞ったという故事には疎いですが、あなたの舞い姿には心うたれました)

二人の間の微妙な関係がうかがえますね。

 

この源氏の和歌は、能『船弁慶』では、前段のクライマックス、静が舞いを舞う時のフレーズに取り入れられています。

兄頼朝に追われた義経は、弁慶らとともに都落ちし、西国へ逃れる途中、摂津の国、大物浦に着きます。静も一緒に来ましたが、これ以上同行は無理とされ、都へ戻ることになり、別れの宴がもたれます。

静は、「立ち舞うべくもあらぬ身の~」と涙ながらに、舞い、別れるのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
地謡「波風も。静を留め給うかと。静を留め給うかと。涙を流し木綿四手の。神かけて変わらじと。契りし事も定めなや。げにや別れより。勝りて惜しき命かな。君に再び逢わんとぞ思う行く末

子方「いかに弁慶。静に酒を勧め候え
ワキ「畏まって候。げにげにこれは御門出の。行く末千代ぞと菊の盃。静にことは勧めけれ
シテ「わらわは君の御別れ。遣る方なさにかき昏れて。涙に咽ぶばかりなり
ワキ「いやいやこれは苦しからぬ。旅の船路の門出の和歌。ただ一さしと勧むれば
シテ「その時静は立ち上がり。時の調子を取りあえず。渡口の遊船は。風静まって出ず
地謡「波濤の謫所は。日晴れて出ず
ワキ「これに烏帽子の候召され候え
シテ「立ち舞うべくもあらぬ身の
地謡「袖うち振るも。恥ずかしや
シテ「伝え聞く陶朱公は勾践を伴い
地謡「会稽山に籠もり居て。種々の知略を廻らし。終に呉王を滅ぼして。勾践の本意を。達すとかや

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ワキ、弁慶が、「これに烏帽子の候召され候え」といって烏帽子を差し出すと、静は烏帽子を取って身支度をととのえ、立ち上がる。そして、「立ち舞うべくもあらぬ身の」と謡うと、地謡が「袖うち振るも。恥ずかしや」とつける(舞いなどとても舞えそうにもありません。袖を振り、翻すのも恥かしい)。静は、イロエ、そしてクセ舞を、さらに中の舞を舞い終わると、泣き崩れます。(前段、終)

このように、『船弁慶』前段の重要な部分に、源氏の和歌「たちもうべくもあらぬみの・・・」 をもってくることによって、作者観世小次郎は、静の別れのつらさを舞いで表現しようとしたのでしょう。

後段では、大物浦を出立した弁慶たちは、大嵐に遭遇し、平知盛の亡霊と戦う場面が展開します。しんみりとした静の別れのあとは、一転して、大スペクタクルとなります。
「たちもうべくはあらぬみの」は、この対比を展開するプロローグであった訳ですね。

なお、シテは静、ワキは弁慶、小方は義経です。義経を、子供が演じるわけですから、非常に奇妙です。その理由は諸説ありますが、作者は色恋に焦点を置くのではなく、シテ静の心の内を表現したかった、という説が有力です。実際、舞台上で、小学生くらいの子(女子の場合も多い) が大きな声で、「いかに弁慶。静に酒を勧め候え」と命じる時には、おもわず観客の頬が緩みます(^.^)

能『船弁慶』の主役は誰なのかはっきりしません。役の上では、静と平知盛ですが、実際は弁慶の方が重い役柄ともいえます。また、普通はあまり言及されませんが、『船弁慶』では狂言も非常に重要です。能、謡曲のなかでの狂言については、また別に考えてみます。
いずれにしろ、義経は主役から縁遠い。いかにも、能らしい奇想天外な劇設定です(^.^)

 

 

 

 

 

 

 

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