遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

三輪田米山の石文・日尾八幡神社(2)

2024年05月31日 | 文人書画

先回の続きです。

鳥居をくぐって、中腹にある本殿をめざします。

神門からずっと石段が続いています。

両脇には、寄進者の名を記した石柱がずらっと並んでいます。数百本もあるでしょうか。驚くのは、寄進金額の大きさ。私たちの辺りの相場の何倍でしょうか(^^;

小高い山の中腹に、かなり大きな社殿が建っています。

大きな注連縄は、注連石に刻まれた米山の『鳥舞魚躍』に対応する(?)ほどの存在感(^.^)

石段を降りて鳥居へ向かいます。

神門をくぐろうとして、ふと上を見上げると、

恐ろしい形相の木像が二体、社殿方向をむいて立っています。このような像は見たことがありません。大きな神門には、たいてい表側の左右両側に随身を設置しています。これは邪悪なものから神社を守るためのもので、社殿を背に参拝者の方を向いています。ところが、この二つの木像は、神門の裏側で、上部に立ち、社殿方向を向いているのです。参拝者が背後から襲われるをの防いでいるのでしょうか。

下まで降りてきました。道路わきには石標が建っています。

『左道後(?)〇〇』

『右へんろ〇』

ここは、交通の要衝でもあったのですね。

玉垣にも、米山による文字が。

「仙波元太郎」は、久米村福音寺の庄屋で、先にブログで紹介した軍人、能筆家、仙波太郎の父です。

 

玉垣の右側には、社務所や広場などが広がっています。

その一角に、大きな石碑。

『三輪田元網先生碑』とあります。生前の功績が細かく刻まれ地ます。

三輪田三兄弟の末弟、元網の顕彰碑です。三輪田元網は、幕末、勤王の志士として名を馳せ、維新後は、中央で活躍しました。地元出身の偉人として、このように立派な碑が作られた(大正―昭和)のでしょう。

一方の米山は、

近年建てられた石碑。

二人の世間的な評価の違いですね。

でも、『一杯』とだけ刻まれたこの碑は、

酒と書を愛しながら、生涯一人身で神社を守り続けた米山にふさわしいと思うのです。

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三輪田米山の石文・日尾八幡神社(1)

2024年05月29日 | 文人書画

これまで、私の持っている三輪田米山の作品を紹介してきました。

米山の書には様々なものがありますが、雄渾豪放な文字を大書した作品に人気があります。

しかし、先回の『升高必自下』に見られるように、溢れほとばしる筆のエネルギーを、紙が受けとめ、墨の形象として残すのは、和紙ではかなり苦しいのも事実です。

一方、米山の作品を、石に彫り込んだ石文が、米山の故郷、伊予南東部には数多く残されています。神名石、注連石(しめいし)、鳥居、墓石など百基以上が、村々の神社や寺など六十数か所にわたって存在しています。

三輪田米山の石文をまとめた本も出されています。

私も、一昨年、米山の地、松山市郊外の日尾八幡神社を訪れ、石文をこの目で見てきましたので、報告します。

 

神社の鳥居の前に立ちます。

確かに本の写真と同じ景色ですが、実際にこの地に立つと、圧倒的な存在感に身が引き締まります。

神名石『縣日尾八幡大神』

米山石文の白眉は、何といっても、注連石(しめいし)。

『鳥舞』と

『魚躍』です。

『鳥舞魚躍』

 「瓠巴鼓琴、而鳥舞魚躍」(列子、湯問篇)から来ています。
 瓠巴、琴を鼓せば、鳥舞ひ、魚躍る(瓠巴は琴名人の名)

翻って、「鳥舞魚躍」は、鳥が空を飛び、魚が水に躍る様子から、万物が自然の本性に従って自由に生きること、さらには徳のある良い治世を表しています。

米山の願いだったのでしょうか。

この二つの石文の前にたたずんでいると、何とも言えない感動が湧き上がってきます。

三輪田米山の作品の中で、最高の作品だと私は思います。

鳥居横の広場には、米山碑が建れられています(近年作)。

『鳥舞魚躍』などの石文と異なり、米山が亡くなってから遺された書をもとに作られたものでしょう。

しかし、

石文は、『一杯』と刻まれています。四、五升もの酒で酔いつぶれる寸前に揮毫して名作をのこした米山にふさわしいものですね。

日尾八幡神社は、天平年間創建の由緒ある神社です。

この地方は、かつて久米村とよばれていました。

村誌をひもといてみると、「三輪田大神久米麿、高市古麿などを斎主と定め、竣工した」とあります。三輪田氏は、創建から関りがあったのですね。以後、神社は、この地方を治めていた久米氏の管轄下にあったようです。その後、戦国時代の混乱をへて、加藤嘉明(賤ケ岳七本槍の一人)が松山城を築造する際、城の東を鎮守する八幡宮として整備し、以後、歴代城主の保護を受けました。

米山をはじめ、三輪田三兄弟が国学や漢籍、和歌、そして書などに深く通じていたのは、神官職の三輪田家と松山藩との長いつながりがあったからでしょう。

 

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三輪田米山の書10.『升高必自下』

2024年05月27日 | 文人書画

三輪田米山の書も、二けたになりました。ブログもやっと区切り。しかも、超難物の名品です。

全体:57.2㎝x181.5㎝、本紙(本紙):44.7㎝x123.0㎝。明治。

三輪田米山は、生涯、数万点もの書をのこしたとも言われています。

その中で、今回の書は、優品に属する物だと思います。

書籍や目録では見たことがありません。

大げさに言えば、新発見(^.^)

しか~~~し、これが読めないのです

この品を入手してから10年、悶々とした日々を過ごしたのでありました

「神斎宵山」?「神斎督日」?

「神」を崩しても、右に﹅が残るはずだし、米山の他の書では確かに﹅が打たれています。「宵」や「督」も、ピッタリの崩しではない。最後の文字など簡単すぎてよけいにわからなくなります

こりゃあタイムアウトか。もはや恥をさらす覚悟で、ブログ読者諸氏の知恵を借りるしかない・・・と開き直り、ブログを書き始めました

そして、ふと、最初の文字は「神」ではないのかもしれない。他の可能性は?・・・・と考え直したところ、「升」が候補にのぼりました。さらに最後の文字は、ひょっとして「下」では?などと、謎解きをすること数時間。ついに、解けました。

『升高必自下』(しょうこうひつじげ)
 
孔子編といわれる五経の一つ、『書経』のなかにある一節です。

「若升高必自下、若砂邇必自邇」

高きに升(のぼ)るに必ず下(ひく)き自(よ)りするが若(ごと)くし、遇(とお)きに捗(のぼ)るに必ず邇(ちか)き自(よ)りするが若(ごと)くす。

遠くに行くには、必ず近くからスタートするのと同じく、高みへのぼるには、必ず下から始めなければならない。

高い目標をかかげ、行動する際には、謙虚さと地道な努力が必要だという教えです。

四文字ではなく、五文字だったのですね(^^;

実は、この掛軸、大変傷んでいます。

焼けや小傷は仕方ないとしても、文字の剥離が見られるのです。

すは、贋物!?

でも、印刷物の一部が剥がれるなんて聞いたことがありません。それに、どうみても時代を経た掛軸です。印章の肉の色も褪せています。

そこで、じっくりと観察しました。

白くなっている部分の右端は、墨があった痕跡が薄い曲線になって残っています。確かに剝れたのですね。

剝れた左上の箇所を拡大すると、

紙の上にのっている墨がなくなって、紙の地が表に出ていることがわかります。

この掛軸は、無地の部分に、多くの小傷があります。

上側の白い繊維がなくなって、下地が出ています。

それに対して、墨が剥がれた箇所では、白い繊維はそのまま残っています(一つ上の写真)。

ですから、筆で書いた墨だけが、紙から脱落したわけです。

これは一体どうしたことか!???

書をしたためる和紙は、墨の滲みを防ぐため、膠を塗ってあるそうです(ドーサ引き)。絵の場合は、さらに胡粉を塗ります。

今回の用紙は、拡大してみると、表面に紙の繊維が白く広がっています。おそらく、胡粉を混ぜた膠液を塗ってあるのではないでしょうか。その効果で、たっぷりと墨を含ませた米山の筆を、滲むことなく受け止めることが出来たのでしょう。しかし、その分剥離しやすく、一部がペロリと捲れ、脱落してしまったというわけです。

作品としては疵物ですが、米山の書らしい品とも言えるので、このまま大切にしたいと思っています(^.^)

 

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三輪田米山の書9.紀貫之『ちはやふる』

2024年05月25日 | 文人書画

私の持っている三輪田米山の書の中で、一番、年老いた時の作品です。

 

 

『ちはや布留神乃い可幾尓はふくつも
 秋丹ハあへすうつろひ尓々り』 米山八十六翁書

「ちはやふる神のいかきにはふくつも
 秋にはあへすうつろひにけり」(紀貫之『古今和歌集』巻五、秋下)

「千早振る神の斎垣に這う葛も
 秋にはあえず移ろいにけり」

神社の垣根に生えている生命力の強い葛も、秋の移ろいには逆らえず、木々の紅葉と同じように葉色が変わってしまった

三輪田米山は、88歳まで長生きした人です。今回の品は、最晩年に近い、86歳の書です。以前に紹介した85歳の書『夏衣』に較べると、心なしか、トツトツとした感じが増しています。また、文字の横張りもおとなしくなったような気がします。

最晩年、88歳の書も残されているので、何とか頑張って入手したいと思っています(^.^)

さて、今回の書は、古今和歌集、紀貫之の和歌をしたためた物です。例によって、この歌を艶めいて解釈する説もありますが、ここは素直に、上述の意とするのが良いと思います。

神聖な神社の垣根にまとわりつく葛だから、神の力を得て、いつまでも緑色を保っているはずだ。しかし現実には、秋になると、季節の移ろいには抗しきれず、他の木々や草花と同じように、衰え、色が変わってしまった。

この葛は、神職の家に生れ、星雲の志を持ちながらも、長子として、家と神社を守る道を、ずっと一人で歩まざるをえなかった米山の姿そのものではなかったでしょうか。

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三輪田米山の書8.自作短歌『春きたか』

2024年05月23日 | 文人書画

掛軸ではなく、短冊に書かれた自作和歌です。

短冊:6.0㎝x36.4㎝。明治。

 

『春き多可 をやミし庭を ひとり見て
  ゐ可んとすれは 薫流梅ヵ香  常貞』

「春来たか 親見し庭を 一人見て
 行かんとすれば 薫る梅が香 常貞」

「春き(幾)多可」か「春さ(左)多可」か、随分迷いました。字からすると、どちらでもOK。でも、「春定か」では、句が薄っぺらくなるので、ここは「春来たか」でしょう、と判断しました(^.^)

「常貞」は、米山の本名です。日常的な文章や作品の落款には、名を用いたようです。

伊予松山郊外の片田舎、中央で活躍する弟たちを想い、神官として一人、神社を守りながら、平凡な毎日を送っている米山の心のうちがわかります。

先回の自作俳句『とんぼうや』とともに、私が好きな米山作品です。

米山の本拠地「日尾八幡神社」。この句で詠まれた庭が、麓のこの辺りをさすのか、階段を上がった本社周りを指すのかはわかりません。

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