先回の続きです。
鳥居をくぐって、中腹にある本殿をめざします。
神門からずっと石段が続いています。
両脇には、寄進者の名を記した石柱がずらっと並んでいます。数百本もあるでしょうか。驚くのは、寄進金額の大きさ。私たちの辺りの相場の何倍でしょうか(^^;
小高い山の中腹に、かなり大きな社殿が建っています。
大きな注連縄は、注連石に刻まれた米山の『鳥舞魚躍』に対応する(?)ほどの存在感(^.^)
石段を降りて鳥居へ向かいます。
神門をくぐろうとして、ふと上を見上げると、
恐ろしい形相の木像が二体、社殿方向をむいて立っています。このような像は見たことがありません。大きな神門には、たいてい表側の左右両側に随身を設置しています。これは邪悪なものから神社を守るためのもので、社殿を背に参拝者の方を向いています。ところが、この二つの木像は、神門の裏側で、上部に立ち、社殿方向を向いているのです。参拝者が背後から襲われるをの防いでいるのでしょうか。
下まで降りてきました。道路わきには石標が建っています。
『左道後(?)〇〇』
『右へんろ〇』
ここは、交通の要衝でもあったのですね。
玉垣にも、米山による文字が。
「仙波元太郎」は、久米村福音寺の庄屋で、先にブログで紹介した軍人、能筆家、仙波太郎の父です。
玉垣の右側には、社務所や広場などが広がっています。
その一角に、大きな石碑。
『三輪田元網先生碑』とあります。生前の功績が細かく刻まれ地ます。
三輪田三兄弟の末弟、元網の顕彰碑です。三輪田元網は、幕末、勤王の志士として名を馳せ、維新後は、中央で活躍しました。地元出身の偉人として、このように立派な碑が作られた(大正―昭和)のでしょう。
一方の米山は、
近年建てられた石碑。
二人の世間的な評価の違いですね。
でも、『一杯』とだけ刻まれたこの碑は、
酒と書を愛しながら、生涯一人身で神社を守り続けた米山にふさわしいと思うのです。