二彩唐津の壷(甕)です。
右回りに、90度ずつ。
最大径 35.0㎝、口径 32.8㎝、高台径 14.1㎝、高 33.7㎝。江戸前ー中期。
鉄釉と緑釉で、大胆に松が描かれています。
民芸陶器の代表格です。
このような品は、かつては、弓野焼、あるいはそれを継承した二川焼と呼ばれていました。しかし、その後、佐賀県武雄市を中心に、同様の品を焼いた窯が次々と見つかりました。さらに、伊万里焼と重複している窯も発見されました。
ですから、もはや、◯◯焼の名称にはおさまりきらなくなり、二彩唐津と呼ばれることが多くなりました。しいて言うなら、武雄系鉄絵緑釉松紋壷でしょうか。
これまで紹介してきた刷毛目模様の唐津と同様、鉄分の多い土ですが、もっとガサガサした感じがします。
ものすごい迫力の松です。
松の巨木?それとも、岩上の松?
もはや、松かどうかさえ問題にしていない!?(^^;
焦げた鉄釉と控えめに打たれた緑釉の組合せは、黄瀬戸を思わせます。
経年の小傷が無数にあります。さらに、穴の部分には、雨漏りも。
このような壷は、江戸時代から明治まで、長く焼かれてきました。今回の壷は、そのうちで、初期に属する品だと思われます。
実はこの壷は、40年程前、能登半島輪島の骨董屋で入手した物です。店の親爺がいうには、地元の寺で最近まで使われていたとの事。本当のウブですね。他にも、いくつか欲しい品がありました。迷った挙句、ロシア紙幣が嵌め込まれた宝石箱?と麦藁手の小皿を一緒にゲット。
親爺さんが言うには、輪島には江戸時代から、各地の珍しい物が集まったそうです。その理由は、富山の薬売りが、輪島塗の漆器を薬と共に全国各地に売り歩き、かわりにその地の名産品などを仕入れて、輪島に持ち帰ったからだそうです。この壷のような大きな物は、日本海の海運で運ばれたのでしょうが、江戸時代の物産の流通を考える上で、興味深い話でした。
さて、この壷は持って帰るには大きすぎるし、どうしたものかと思ううちに、親爺さんはさっさと梱包をしているではないですか。しかも、持ち手もついて完璧。こうなってくると、自分で運ばねばなりません。能登から岐阜へ、7kgもある大荷物を電車を乗り継いで運んだのでした。
おまけに、駅で冷や汗。帰りの切符を買った後、家への土産をあれこれ物色し、おおこれだという銘菓をを手にして、いざ支払いとなった時、ポケットの中には、100円玉が数個しか残っていないことに気がつきました。骨董の買い過ぎ^^) ATMなぞどこにもなかった時代、もう一品増やしていたら、家に帰れなくなっていたところでした(^^;
この壷、その後10年間ほど、年に2回、表面に白い粉がふいてきました。舐めてみると辛い。塩です。お寺では、塩入れに使っていたのですね。
故玩館のような江戸造りの家には、この壷は合います。どこへ置いても違和感がありません。最近は、玄関から入った最初の部屋、琳派屏風の前に置いています。またブログで書きますが、花を活ける時、生花はダメです。屏風が破れます。かといって、造花ではお笑いだし。
年末、例のスーパーレディの姉から、ツクバネの切枝をもらいました。
年があけても、葉が青々としています。造花ではないのに、不思議です。
こんな感じで1か月経ちました。ツクバネはいつまでもつのでしょうか(^.^)