遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

南京染付芙蓉手中皿と初期色絵芙蓉手大皿

2024年06月08日 | 古陶磁ー全般

久しぶりに古陶磁です。

径 20.6㎝、高台径 11.2㎝、高 3.3-3.9㎝(歪み)。中国、明末ー清初。

中国明末頃の芙蓉手染付中皿です。

高台に砂、高台内は放射状に削られています。

典型的な明末の陶磁器です。

円と八角形で縁どられた見込みには、草花があしらわれ、岩上の鳥、そして上方にもう一羽の鳥、二羽が呼び合っています。

縁には、草花、幾何、目出度?模様が連続しています。

 

一方、以前のブログで、初期色絵芙蓉手大皿を紹介しました。

この大皿と今回の染付芙蓉手中皿を較べてみました。

 

縁芙蓉手模様:

 

見込みの図柄:

同じではありませんが、類似点が多くあります。

特に注目されるのは、初期色絵芙蓉手大皿の左上にある紫釉の部分です。

本歌、染付芙蓉手皿では、もう一匹の鳥です。

初期色絵芙蓉手大皿でも、同じ位置に何かがあります。

これは一体何かわかりません。ひょっとしたら、もう一匹の鳥?、それとも何か物体?

初期の伊万里焼には、中国の陶磁器を手本にした物が散見されます。芙蓉手皿は中国が発祥ですから、それを写した品がみられるのは自然です。さらに、染付けと違って、色絵芙蓉手皿は伊万里に特有の品ですから、日本流にアレンジが加えられても不思議ではありません。

この紫釉部分が何か、もう少し検討が必要ですね。

伊万里の色絵芙蓉手皿は、たいてい、初期柿右衛門と銘うたれ、法外な値段がついています。確かに今回の品も、細黒線で輪郭が描かれ、色釉がさされています。しかしこの程度の黒縁取りなら、初期の色絵皿にはいくらでも見られます。デザインも中国の芙蓉手をほぼそのままもらってきていて、大胆に和様化されているわけではありません。

伊万里の色絵芙蓉手皿が、なぜ、初期柿右衛門と言われるのは、わかりません。

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山田喆『白瓷花瓶』

2024年06月04日 | 古陶磁ー全般

陶磁器作家、山田喆(てつ)の白瓷花瓶です。

高 25.3㎝、径(最大) 20.2㎝、口径 11.9㎝、底径 16.8㎝。重 3.85㎏ 。1958年。

【山田喆(やまだてつ)】明治三一(1898)年ー昭和四六(1971)年。越後にて生まれるが、すぐに岐阜市加納、瑞雲寺に入る。寺を継いだ後、上京し、山田家の養子に入る。関東大震災後岐阜へ戻り、作陶を始める。昭和7年、単身京都へ移り、石黒宗麿、富本憲吉らと交わりつつ、陶芸の道を究める毎日を送った。

底附近に「喆」の銘があります。

凛として、隙のないフォルムながら、どことなく温かさを感じる壷です。

 

例によって、この品が表紙(グラビア?)を飾る書籍と共箱が見あたりません(^^;

代わりに、成書がありました。

昭和三三(1958)年の作であることがわかります。

置かれた場所によって変わる顔。

光の具合によっても、たたずまいが変わります。

山田喆という陶芸家を知る人は、多くないと思います。

かくいう私も、数十年前、この品を入手するまではその名を聞いたことがありませんでした。

しかし、通人の間では、高い評価を受けた人であったようです。

数多くの陶磁器を残したわけではありませんが、作品の範囲は、極めて多種多様です。宋などの中国陶磁器や高麗・李朝の朝鮮陶磁器研究に基づき、黒釉、柿釉、白瓷、瑠璃、色絵、染付けなど、様々な器を製作しました。

一方で、家(寺院)を継いだ後、一時、社会運動に参加、仏門を出るなど、思想的遍歴を重ね、さらには、書画や俳句を嗜む文人でもありました。

陶芸の道だけではなく、人生の求道者でもあったのですね。

喆は哲の古字です。一見平凡に見える彼の作品が、不思議な温かさと哲学的深みをたたえているのはそのためなのでしょう。

戦前、岐阜の骨董屋で求めた李朝の白磁壷に魅せられ、愛蔵したしたそうです。今回の品は、その影響を受けて作陶した作品かも知れません。

なお、走泥社の創始者の一人、前衛陶芸家、山田光は、山田喆の長男です。

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古九谷写『葉型陽刻色絵山水紋変形皿』

2024年04月27日 | 古陶磁ー全般

先日のブログで、『葉型陽刻色絵網漁人図変形皿』を紹介しました。しかし、この品は、はたして古九谷なのか、古九谷写しなのか、はたまた、悪意のある贋物なのか、判然としませんでした。

この皿を入手してから数年後、同じような皿をみつけました。それが今回の品です。

13.7㎝ x 16.4㎝。高台 8.7㎝ x11.0㎝。高 2.4㎝。明治。

楕円形の変形皿です。大きな葉形の陽刻があります。中央の縦形のキャンバスには山水紋が描かれています。

先日のブログで紹介した『葉型陽刻色絵網漁人図変形皿』と同手の皿です。

葉形模様の配置が違うように見えますが・・・

180度回転すれば、同じ配置です。

この二つは単なる模様違いの同手皿か?

せっかくですから、少ししつこく(^^;二つを較べてみることにしました。

まず、今回の品は以前の物より少し大きいです。そして高さが少し低い。扁平です。

また、素地が今回の品は白いです。さらに、染付けは併用されておらず、赤絵のみの絵付けです。

高台の違いは大きいです。

以前の皿の高台はやや内向きに作られていますが、今回の品は垂直な高台で、少し低いです。

先の皿は見込みが厚く、端は薄くなっています。

光にかざすと陽刻の葉脈も見てとれます。

今回の皿は、全体が薄造りです。はっきりとはわかりませんが、陽刻の葉脈はどうも無いようです。

以前の品(向こう側)の高台畳付には、融着を防ぐためでしょうか、細かい砂が付いています。今回の品(手前)には、付着物は全くありません。

この皿の周囲には、鎬が3か所あります。二つの皿でその位置は同じなのですが、凸凹の具合が微妙に異なります。

以前の皿(上側)と今回の皿(下側)を較べると、下の皿では鎬の数が少ないように見えます。その理由は、両端の稜線が下側でははっきりしない(無い?)からです。

また、今回の品には、以前の皿の右上にあった一本の稜線がありません(5枚目の写真)。

裏側面の折松葉模様自体は同じですが、描線の走りに大きな違いがあります。

上側はピュッと走った直線的な松葉紋なのに対して、今回の品では筆の運びが遅く、でこでこした曲線になっています。描きなれていないのですね。

どうやら、今回の品は、少し手抜きをして、以前の品の写しを作ったと考えてよいでしょう。

染付を併用せず、赤絵のみを使った絵付けや簡略化された地紋の放射線なども、そのことを裏付けています。

以上の事柄を総合すると、今回の皿は、以前紹介した『葉型陽刻色絵網漁人図変形皿』と同時代に造られた物ではなく、近年の作であろうと推定されます。

絶対的な製作年代を特定することは困難ですが、このような手の込んだ変形皿が江戸前期に造られたとは考え難く、1700年代に入ってからの作でしょう。その意味では、『葉型陽刻色絵網漁人図変形皿』は、骨董屋が言う江戸中期の古九谷と言ってよいのかもしれません(^.^)   一方、今回の品、『葉型陽刻色絵山水紋変形皿』は、明治以降につくられた写しと思われます。

 

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古九谷?写?『葉型陽刻色絵網漁人図変形皿』

2024年04月23日 | 古陶磁ー全般

今回の皿は、古九谷かその写しか、いまだ決めかねている品です。

13.0㎝ x 15.8㎝。高台 8.6㎝ x10.8㎝。高 3.2㎝。江戸時代前期?

色絵と染付けが併用された変形皿です。

二本の染付線の内側には、漁から帰る(へ行く?)人物が二人描かれています。あまり見かけたことの無い図柄です。

両サイドには一枚ずつ葉が陽刻白抜きされ、葉脈も表されています。

茶色の地の部分は鎬になっています。

かなり手のこんだ造りです。

少し高めの高台はやや内向き。

中央には福の銘が書かれています。二重圏の外線の半分は脱落しています。

高台の櫛歯紋はしっかりと描かれれています。

問題の多い折松葉紋も、今回の品にはめずらしくスピード感があります。

この品は、古九谷と言ってもいいかも知れません。

二人の人物が描かれた見込みの絵は、あまり見たことが無いなあと思いながら、大阪阪急百貨店骨董街、滝川峰晴堂の図録(昭和49年)を繰っていたら・・・・

似たような図柄の皿が載っていました。

おお、これはいけそう。

ということで、ずーーッと、奥にしまってきました。

ーーーーー To be continued -----

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古九谷写『貼花梅鶯紋長方皿』

2024年04月21日 | 古陶磁ー全般

今回も、古九谷とコピー品の狭間を彷徨う日陰者です。

12.7㎝x16.8㎝、高台 7.6㎝x11.6㎝。高 2.8㎝。江戸後期ー明治。

少し陶器がかった胎土の器に、様々な色模様が施された変形四方皿です。

見込みには、梅に鳥(鶯でしょう)が凸型で表されています。

周囲は、古九谷風の色絵が帯状に囲んでいます。

色釉の剝脱が激しいです。

皿側面の模様もそれらしい雰囲気。

この手の皿は、骨董市でも時々見かけます。

江戸中期の古九谷皿として売られていることが多いです。

この品もその一つ、古九谷なら江戸前期のはずだが!?と思いながら、何も言わずに品物を抱えて骨董市を去った内気な初心者の私でした(^.^)

さて、コレクター人生も最終コーナーになった今、この皿をもう一度眺め直してみました。

型押しか彫りの陽刻だとばかり思いこんでいた梅に鶯の凸模様は、どうも普通の陽刻とは様子が違います。

どうやらこれは、粘土の模様板を張り付けた、いわゆる貼花ですね。

貼花は、伊万里初期、超上級品に対してわずかに試みられた技法で、今回のような品に用いられるはずはありません。

日本が大きく変わる時代、江戸後期から明治にかけて、いろいろな焼物が作られるようになりました。そのような中、貼花と古九谷様式を組み合わせたこの品が作られたと考えるのが妥当でしょう。

日陰者にもそれなりの居場所を用意してやるのが、ビンボーコレクターの最後のおつとめか・・・・(^.^)

 

 

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