遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

大正15年 『日本交通分縣地図 岐阜縣』

2025年01月29日 | 故玩館日記

先回のブログで、岐阜市の明治期の地図を紹介しました。この地図が作成された明治15年当時の市街地は、斎藤道三や織田信長が街づくりをした当時から大きくは変わっておらず、岐阜城のあった金華山西麓にへばりつくように広がっていました。

今回の地図は、それから約半世紀後の物です。

53.6㎝x77.8㎝。50万分の一。大正15年2月10日。

『日本交通分縣地図』は、大正12(1923)年から昭和5(1930)年にかけて、東宮(皇太子)成婚記念として、大阪毎日新聞社から、順次、発行されました。

今回の品、『日本交通分縣地図 岐阜県』は、大正15年2月10日、25番目に発行された地図です(下写真)。

なお、この年の12月25日に大正天皇は亡くなり、昭和が始まりました。

今回の地図は、先回紹介した地図とは描き方が大きく異なっています。現在の地図の原型は、明治15‐20年にかけて、陸軍参謀本部測量課が作成した日本地図です。今回の品は、それに沿って作成されています。

種々の記号も、「文」や「⛩」など、我々に馴染み深いものになっています。

興味深いのは、府縣界、市郡界、区町村界などの他に、國界が記されていることです。岐阜縣地図では、ほぼ中央に、飛騨國と美濃國の界が記されています。

飛騨国や美濃国は、元々、律令制度の下でつくられた行政区です。体制が変わっても、その令国名がずっと使われてきました。明治4年、政治体制は幕府や藩から府県に変わりました。しかし、廃藩置県はあくまで政治体制としての藩を廃止して県を設置した政策であり、地名としての旧国を廃止したものではないのです。法律的に旧国を廃止していないので、地名としては今も有効なのですね。念のために、現在使われている日本地図(帝国書院)を調べてみました。国界は旧国界として、一点鎖線で描かれています。但し、国名は記されていません。

『日本交通分縣地図』などという大事業が行われたのは、この頃、日本の国中で、交通体系が大きく変わりつつあったからではないでしょうか。道路は、国道、府県道、町村道別に描かれています。鉄道関係に至っては、鉄道、鉄道未成線、地方鉄道、地方鉄道未成線、電車併用線、電車線路、電車未成線、鋼索線(ケーブルカー)まで区別して載せています。

安八郡神戸町の辺りの拡大図です。一部廃線になった軌道もありますが、赤線で描かれた鉄道は現在も健在。

先日の神戸町ブログの地図と較べてみます。

『日本交通分縣地図 岐阜県』は、交通を網羅した力作です。しかし、やはり濃尾平野は、河川を強調した地図でないと、分かり難いですね。

『日本交通分縣地図 岐阜県』には、岐阜市と大垣市について、市街地地図が載っています。

現在の岐阜市に較べると市街地はまだ相当小さいです。

先回の明治15年の岐阜市街地図と較べてみましょう。

古い町並みはほぼ同じですね。ただ、新しい街が、南へ広がりつつあることがわかります。

一方、大垣市は、ほぼ中央の大垣城(平城)の周りに市街地が広がっています。急峻な山城、岐阜城から南へひらけていった岐阜市とは対照的ですね。

 

コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明治十六年 川瀬善一編『岐阜市街地全図』

2025年01月26日 | 故玩館日記

先回のブログで、実業家、文人の原三渓が帰郷した時に詠んだ漢詩を紹介しました。その詩のポイントとなるのは、岐阜市の北部、金華山下の古い街でした。

そこで、岐阜市の古い地図がないかと、故玩館の奥をゴソゴソ探しまわりました。ガラクタの山から見つけたのが今回の品です。かなり希少な物と思います。

36.0cmx53.3cm。明治十六年。

西方から見た岐阜市街です。

濃赤黒部が公共施設、神社、古跡、桃色部は寺院仏閣、墓地を、斜線部が一般家屋を示しています。

北西の濃赤黒部は古城跡(岐阜城跡)です。岐阜城(稲葉山城)は関ケ原後に廃城となり、3㎞南の平城、加納城に代わっています(地図には入っていない)。

市街地は、金華山の西南山麓に広がっています。

 

明治十六年時点で、東西17町、南北19町、戸数2600、人口1万800人です。

戦国時代から江戸時代を経ても、あまり大きくは変化していないことがわかります。

「総名稲葉山、一名金花山」とあります。稲葉山の方が一般的だったのでしょうか。また、金華山ではなく、金花山という表記も今は見かけません。

当時、長良川には小さな木橋が二つ、渡船場が2か所あったことがわかります。

山麓には、稲葉神社と寺社群があります。

その向かい、長良川近くには、名刹、美江寺が。

最初の全体地図を見るとよくわかりますが、稲葉神社と美江寺はあい対しています。この界隈は、斎藤道三が自由市場を設け、市街地をつくろうとした所で、岐阜市の最も古い地域になります。その後、山裾を縫うように市街地が広がりました。先回のブログにあった水琴亭もそこにあります(この地図の時点は移築前、稲葉神社境内にあった)。

なお、初期の街づくりに大きな役割をはたした寺院、美江寺は、戦国時代、天文十(1541)年、斎藤道三が、西方10㎞の美江寺宿(故玩館はその西端)にあった伽藍美江寺から、天平秘仏 、十一面観世音菩薩(奈良時代)を、稲葉山の麓に移して、本尊として建立したものです。

抜け殻となった旧美江は廃寺となり、跡地は美江神社(下写、真正面)となっています(^^;

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原三渓『七絶 帰郷詩』

2025年01月23日 | 文人書画

実業家、原三渓の漢詩です。

 

全体:44.9㎝x202.6㎝、本紙(紙本):31.2㎝x129.7㎝。大正―昭和。

 

 

金華山下路
回首欲帰遅
白髪慈親在
寒風且勿吹

金華山の下路
首(こうべ)を回(めぐら)して帰らんと欲すれど遅し
白髪の慈親在り
寒風且(しばら)く吹く勿(なか)れ

金華山下の道を、頭をまわして帰ろうと思ったが、つい遅くなってしまった。里には、白髪の優しい両親が待っている。寒風よ、しばらくは吹いてくれるな。

 

親思いであった三渓は、実業家として成功をおさめた後も、しばしば、実家の両親のもとを訪れています。

この詩は、その時、詠んだものです。しかし、三渓は、どうして夜遅く、金華山下の道を実家へと急いだのでしょうか。その謎を解く鍵は金華山にあります。

金華山(稲葉山)は、東海道線の北2㎞ほどの所にあります。当然、岐阜駅からも北に2㎞。ところが、三渓(富太郎)の両親が待つ実家は、駅から南へ3㎞ほど、反対方向なのです。親孝行の三渓がまっすぐに実家に帰らず、夜遅くまで何をしていたのでしょうか?

金華山はよく知られているように、山頂には岐阜城(稲葉城)があります。戦国時代、国盗りの中心になった所です。ここを拠点として、山麓に街づくりをおこなったのが斎藤道三、織田信長はそれを引き継ぎました。街は、金華山の西麓、長良川との間の比較的狭い地域で、岐阜市で最も古い場所です。

このあたりは、幸いにも、空襲での焼失をまぬがれ、古い家屋が残っています。そのうちの一つが水琴亭(元治元年創業)です。昭和4年、原三渓らによって今の場所に移築され、現在も料亭として営業しています。三渓は、横浜の三溪園にある臨春閣を模した部屋を造り、壁画や襖絵などにも自ら筆をとりました。彼は帰郷時、思い入れの強いこの水琴亭で過ごすことが多かったのです。

旧知の人々との宴が盛り上がり、気がつけばすっかり夜もふけてしまった。あわてて冬の夜道を、両親の待つ実家へと急ぐ三渓。今回の漢詩は、年老いた両親を慈しむ彼のこころのうちを良く表していると思います。

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

隣町神戸町を訪れる2~関ケ原へ急ぐ家康、九死に一生

2025年01月20日 | 故玩館日記

先回のブログで、実業家文化人、原三渓の祖父、高橋杏村の地、岐阜県安八郡神戸町を紹介しました。

故玩館の隣町であるこの地は、古代、中世の歴史を語る逸話や場所が多く残っているだけでなく、関ケ原の戦いにも関係した所でもあります。

先回紹介した日吉神社や善学院の近くの集落のはずれに、だまって通り過ぎてしまうほど小さな神社があります。

慶長5年(1600年)9月14日、徳川家康は、岐阜から陣営地赤坂に向かいました。この時、休んだのがこの場所です。

この時、石田三成を含む西軍主力は、ここから4㎞ほど南の大垣城に本拠をかまえていました。

用心深い家康は、なるべく西軍から離れた北のルート(東山道)を西へむかったのです(下地図、黄線)。

一方、東軍主力は、中山道を西へ向かいました(下地図、赤線)。

そして、両者は、地図の左方の東軍の陣営、赤坂宿岡山(地図上見えない)に集結したのです。

ところがこの時、比較的安全な北ルートをとった家康隊は、島津の鉄砲隊の奇襲を受け、ほうほうの体で白山神社辺りに落ちのびたと言われています。

この時、家康が腰を掛けた石☟

旗をかけた松は現在無し。

地元民から差し入れられた柿を食べて、戦勝を確信したという逸話が残っています。

家康が通ったという東山道は、現在、その痕跡もありません。当時から、交通の主力は、数㎞南の中山道(名称はなかった)筋に移っていたと思われます。廃れかかった古道を敢えて選んだ家康の用心深さにはあらためて驚かされます。

 

神戸町は、以前に紹介した書家、日比野五鳳の生誕の地でもあります。町では、日比野五鳳記念美術館を建て、春、秋の2回、公開をしています。

横には神戸町役場があり、そこには、代表作の巨大レプリカがあるので、いつでも見られます。

神戸町は、バラの栽培が盛んで、バラ公園もあります。庁舎まえには、巨大なバラのモニュメント。

神戸町は隣町なので、故玩館の辺りとそれほど大きな違いのない風景(バラ栽培も含めて)がひろがっています。

しかし、どう考えてみても、歴史的遺物などは神戸町の方が多い。これはなぜだろうか?

考えられるのは地理的状況のわずかな違いです。

濃尾平野は、西北東を高い山に取り囲まれていて、長い年月の間に上流からの土砂が堆積してできた平野です。そこを、木曽川、長良川、揖斐川の3河川が流れています。

左手を模型(上が北)にすれば、左(西)から揖斐川、長良川、木曽川です(傷は癒えたが、まだうまく握れません(^^;)  

濃尾平野は、周りをぐるっと高い山に囲まれた、巨大な擂鉢状の平野です。南北に傾斜しているだけでなく、西方と左方も高くなっています。ですから、西濃地方では、水は北から南だけでなく、西から東へも流れます。隣町の神戸町とは揖斐川を隔てているだけなのですが、それでも西方の神戸町の方が高い。揖斐川が氾濫すれば、水は故玩館側へ多く押し寄せます。つまり、洪水の頻度が高い。有史以来、何十年に一度は巨大な洪水にみまわれてきたはずです。その繰り返しで、ほとんどが流失し、隣町との差がついてしまったと考えられるのです(^^;

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

隣町神戸町を訪ねる1 ~原三渓の祖父、高橋杏村

2025年01月17日 | 文人書画

ここのところブログで、日本美術を愛した実業家、原三渓の春景山水画と三渓が大きな影響を受けた母方祖父、南画家、高橋杏村の花鳥画を紹介してきました。

高橋杏村は、江戸後期、美濃國神戸(ごうど)村(現、岐阜県安八郡神戸町)で活躍した画人です。

実は、神戸町は、故玩館からは数㎞程西の隣町です。しかし、子供の頃はほとんど馴染みがありませんでした。というのも、大河、揖斐川とその支流、根尾川を越えなければ、そこへは行けなかったからです。昔は橋が無く(渡船はあった)、向こう岸へ行くには、上流か下流へぐるっと迂回せねばなりませんでした。近年は、何本も橋が架かり、あっという間に向こう岸(^.^)

そこで、高橋杏村ゆかりの場所を訪れました。

まず、善学院というお寺です。ここには、高橋杏村顕彰碑があります。この碑は、忘れられつつある祖父を顕彰しようと、原三渓が中心となって、大正10年に建てられました。

善学院は約1200年前の天平年間に創建されました。最澄ゆかりの古刹です。

文化財も多く残されています。

 

 

けっこう、面白い物もあります。

これはもう、大仏ではなく、小仏ですね(^^;

 

高橋杏村の顕彰碑は、広い境内の一角にあります。

高橋杏村顕彰碑。

森鴎外が撰を、揮毫は宮島詠士の手になるものです。

碑面の題は「高橋景羽墓表」、景羽は、高橋杏村の字です。

何とか碑文を読もうと思いましたが、蚊の猛襲を受け、やむなく撤退しました(^^;

草が茂り、地元でもそれほど注目されることなく、訪れる人はまばらです。

原三渓は、どんな気持ちでしょうか。

 

修学院から少し北西には、日吉神社があります。

ここも、最澄ゆかりの場所。

神仏習合の名残をとどめるこの神社は、1200年前、最澄が善学院建立を機に、地元の有力者安八氏に神社を建立するよう要請したのです。以後、親善院は日吉神社の神護寺となりました。

神仏習合を今に伝えているのは、本殿横の三重塔です。

日吉神社、三重塔(国、重文)。高 24.6m。

平安時代の創建でしたがその後毀損しました。現在の三重塔は、永正年間に、文武両道の戦国武将で歌人でもあった斎藤利綱が再建したものです。なお、明智光秀の軍師、斎藤利三(以前は、稲葉一鉄の家臣)は、利綱の甥にあたります。そして、再建された三重塔を70年後の天正十三(1585)年、現在の形に修造したのが稲葉一鉄です。稲葉一鉄の居城、曽根城は、ここから南へ3㎞ほど南の所ですから、ここ、日吉神社辺りも彼の支配域であったわけです。

さて、日吉神社の三重塔と非常によく似た建造物が横浜にあります。

原三渓が造った名勝三渓園の三重塔です。庭園に入ると、まずの目に入るのがこの塔です。大池の向こうの小高い丘の上に、すっくと立っているからです。

三渓園、三重塔(国、重文)。高 23.9m。

この建物は、京都の燈明寺にあった室町時代の三重塔を、原三渓が移築したものです。三渓園の数ある建造物の中で最も古い建築物です。

実は、原三渓は少年時代(当時の名は、青木富太郎)、母の実家がある神戸町の日吉神社を度々訪れていました。上京し、実業家として成功した後も、小さい頃に見た日吉神社の三重塔がずっと記憶から離れなかったのでしょう。

原三渓は、富岡製紙工場などで技術革新や従業員の労働環境改善に取り組むなど、当時としては画期的な経営を行った実業家です。しかし、実業はどこまでいっても俗であることに変わりはありません。そんな中、彼の心の糧になっていたのは、敬愛する祖父や母の里の光景など少年の日の想い出だったのではないでしょうか。名勝三渓園は、実業の世界に身を置きながらも、少年のこころを失わなかった三渓が、自分の美意識のすべてをそそぎ込んで造り上げた理想郷だったのだと思います。

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする