遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

故玩館所蔵の高札(下)

2023年03月31日 | 高札

先回に引き続き、故玩館にある高札の概要を説明します。

高札は場所をとるので、故玩館でも日陰者扱い(^^; にもかかわらず、こんなにもあつまってしまいました(^.^)

当然ではありますが、故玩館所蔵の高札14枚には、すべて触書文が書かれています。その内容は様々です。ほとんどに、表題がついています。年月日はすべての高札に書かれています(年がなく、月だけの物が4枚)。発給主体も、御触書の写しと考えられる虚無僧取締札(高札No.4)と個人的な立て札である柿盗人警告札(高札No.6)を除いては、すべてに、書かれています。つまり、何年何月(何日)に、誰の名で発行したかは、高札の一番基本的な要素なのです。


また、高札裏面には、しばしば書き付けがあります。これは、高札を掲示する場合には目に触れないので、高札制度に必須ではありません。所蔵や覚えのために書かれたのでしょう。故玩館の所蔵品のおよそ半数に裏書があります。村名が書かれている場合は、いろいろ有益な手がかりが得られます。

高札を検討する場合、高札板の表面状態の如何により、判読の難易度が変わります。
高札は屋外に長年掲示されるため、風化による損傷を受けるからです。特に、江戸時代の古い高札はその程度が大きく、中にはほとんど判読不可能なものもあります。高札No.2、No.4、No.6は、板自体が脆くなっています。墨書きがしっかり残っているのは、2枚(No.3、No.6)にすぎません。
一方、幕末明治期の高札(No.7ーNo.13は、板の状態、墨書きともに、すべて、良好な状態にあります。
高札の表面は、風雨の影響を強く受けるので、墨書きの文字はすぐに薄くなります。しかし、墨は風化を防ぐ作用があるので、墨書きされた部分は浸蝕されにくく、浮き彫りのように文字が残ります。拓本がとれるほど、文字の凸凹がくっきりする場合もあります(高札No.1)。

ダメ元で和紙を張り付け、タンポで叩いてみました。思ったより鮮明に拓本がとれました。今は石拓でもなかなか許可にならない時代ですから、木材でこんな遊びができるのは、自分の品だからこそですね(^^;

高札No.1 『キリシタン禁止札(正徳大高札)』の拓本

さらに、文字が相当薄くなっていても、横から強い光をうまく当てると陰影がくっきりとして、読めるようになることがあります。いくつかの高札は、そのようにしてはじめて全文が判明しました。故玩館の高札では、高札No.1、No.2、No.4、No.5、No.14がそのような状態でした。特に、火事にあった高札No.14は、表面が黒く焼け、文字があるかどうかさえはっきりしていません。しかし、横から光をあてると文字が浮かび上がり、この高札が明和の徒党強訴逃散禁止札であることが判明しました。この高札は、実に、250年余の時代を経て、よみがえったのです。

高札No.14『火事に遭った高札』正面写真

上の高札に左から強力ライトを当てた場合の写真

触書は幾つかのタイプに分かれます。その中で、徳川幕府の法令は「定」や「覚」で始まるのが普通です。このような触書を書いた高札は、公儀高札とよばれます。高札No.1、No.2、No.14がそれに相当します。「覚」よりも「定」の方が厳しい法令です。
一方、各藩も、種々の高札を発行しましたた。それらは、幕府の公儀高札に対して、自分高札とよばれています。しかし、その実態はまだ十分には把握されていません。今回の高札類の中に、明確な自分高札はありません。
さらに、法令の公布、伝達にとどまらず、治安などに関する情報伝達や注意喚起(高札No.4)など、高札の種類と守備範囲は広いので様々な高札があり得ます。高札作成を指示する過程で作られたと推定される物(高札No.3)もあります。
また、支配者ではなく、各村や町が出す高札(高札No.5)も出現しました。
さらには、公の高札を模して、個人レベルで勝手に出す私的高札(高札No.6)まで現れました。明治時代には、業界団体内部の決まりを記した板札(No.13)もあります。
「定」で始まる定番の高札より、これら雑多な高札や高札まがいの板札の方が、当時の政治、社会状況をあらわしていて、興味深いです。

故玩館の14枚の高札のうち、次の4枚は稀少な品です。類例がほとんど無いからです。
「塵芥捨等禁止高札」(高札No.5)は、江戸時代の京都の自治や河川環境保護を表す貴重な資料です。
「柿盗人高札」(高札No.6)は、非常に稀な私的高札であり、当時の世相が覗えます。しかも、高札をよく見ると、薄く別の文字が浮かび上がり、この板は、元々は正式の高札として用いられていた物であることがわかります。
「生産所質貸高札」(高札No.13)は、明治初期の業者組織の決まりを述べたもので、他に例を見ません。
「火事にあった高札」(高札No.14)では、かすかに文字らしきものは認められますが、判読は全く不可能です。このような品が現存すること自体が不思議です。

これらの高札のうち、No.2-No.6、No.14の高札については以前のブログで紹介しています。したがって、今後のブログではNo.1、No.7ーNo.13の高札を中心に、高札を通して、幕末から明治に至る日本の激変を見てみたいと思います。

 

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故玩館所蔵の高札(上)

2023年03月29日 | 高札

故玩館には、現在16枚の高札があります。そのうち、内容が重複する2枚を除いた14枚を下表に一覧で示します。

       故玩館所蔵の高札一覧

この内の半数は江戸時代、残りは維新・明治時代の物です。前者では、墨書きの残っている物は2枚しか無く、また、高札表面は風化がすすんでいます。それに対して、後者では、墨書きが少し薄くなっている物もありますが、たいていは鮮明に残っています。高札板自身の痛みも少ない。その理由は、高札制度最終期の物で、時代が新しいこと、屋外に掲示された期間が最長でも6年間と短いこと、の二つによると思われます。 

高札の形は、五角形(駒形)と四角形に大別されます。故玩館所蔵の高札14枚(表1)のほとんどは、横長の五角形(駒形)で、四角は3枚のみです。駒形高札11枚の内、8枚には屋根がついています。四角型の高札には、屋根はありません。吊り金具のついている物は4枚、裏木で補強されている物は5枚あります。裏木や吊り金具の存在と高札の重要度との間に、特に関係は無いようです。
 大きさは、縦26~47㎝、横38~116㎝、厚さ0.9~3.5㎝で、横幅や厚さの違いが大きい。さらに、重さは、0.7~6.2㎏と、非常に大きな差があります。薄くて小さな高札(No.3)と厚くて大きな高札(No.14)では、10倍ほども重さが違います。
 材質は、まちまちです。特に、堅さには非常に大きな違いあります。高札No.5、10、14は堅い木を使っています。高札No.7、8、9、11、12も、しっかりとした材質です。一方、高札No.1、2、3、4、6、13は、緻密でない木を使っています。特に、高札No.6は、非常に柔らかい木でできています。厚さの薄い高札の場合、柔らかな木を、厚くて重い高札の場合には、堅い木を使う傾向が認められます。

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物としての高札

2023年03月27日 | 高札

日本人なら誰でも高札を知っています。でも、それが一体何だったかということについては、時代劇のイメージから先へはなかなか行けません。一方、高札研究のほとんどは、為政者の支配の手段の一つとして、法制史上の観点から行われてきました。これではギャップがなかなか埋まりません。
せっかく手元に何枚かの高札があるので、私のブログでは、物としての高札にできるだけ焦点を当てることにしました。

中世の制札は、やや縦長の五角形(駒形)でしたが、その後、法令の文面が長くなるに従い、横長の五角形(駒形)や長方形(四角)の高札が一般的となりました。
高札の大きさは、縦40~50㎝、横50~260㎝、厚さ2~6㎝ほどです。書かれる文字の大きさや文面の長さなどによって大きさは異なってきます。特に横方向(幅)が、高札の種類による違いが大きいです。また、厚さも数倍の開きがあり、ぶ厚い高札と薄い高札とでは、重厚感が非常に大きく違います。
屋外で風雨にさらされる高札の材料には、檜、梅、松などの丈夫な板が使われます。上部には屋根がつけられるのが一般的です。

高札板は、反りや割れを防ぐために、裏木で補強されるのが普通です。高札板の裏側に溝を彫り、細木を差し込むのです。鳩尾状に切り込んだ溝に、凸形の木を差し込む方法、いわゆる「蟻仕口」といわれる方法が一般的です。さらに、きっちりと裏木を高札板に埋め込んで象嵌状態にして物があります。このように丁寧な補強がなされた品は稀です。釘で裏木を打ち付けただけの簡素な高札も多くあります。
高札は、長年、屋外で風雨にさらされるので、反りや割れが生じやすいです。裏木で補強すれば、高札の寿命が長くなります。しかし、全く補強がなれていない高札も少なくありません。  

駒形の高札の多くには、上部に屋根がつけられています。この形が日本の民家を想像させ、高札の威圧感を薄めさせたのかもしれません。
屋根は、単なる装飾ではなく、風雨を防ぐ役目を担っていました。高札場にはそれ自体に屋根が備っていますが、高札にも屋根をつけて、二重に風雨をしのいだのです。
高札表面をよく観察すると、屋根の効果によって、高札板の上部の方が下部より痛みが少ないことがわかります。文字が薄くなっている場合でも、上部の文字は比較的残っていて、読みやすいのです。ところが、下方の文字は薄くなっている場合が多く、判読に苦労します。
また、墨には腐食防止作用があります。特に、木部表面の風化を防ぐ効果が大きいのです。長年屋外に掲示された高札は、痛みが激しく、文字は薄くなります。しかし、墨の防腐作用により、墨書された部分は他の木部よりも剝脱しにくいので、書かれた文字が浮き彫りのようになって、文章が版木のように残るのです。この場合も、上部の文字の方が、下部より鮮明です。
このように、墨書が消えても文字の形の凸凹が残るので、横から強い光をあててやると文字がくっきりと浮かび上がり、判読可能となります。故玩館にある高札のうち、以前に紹介した江戸期の高札の大部分は、このような方法でかろうじて読むことができました。

高札場には、複数の高札が掲示されました。その中でも、正徳大高札のような主要高札は、人目に付きやすいよう、高札場の上部に、その他の高札は下部に掲示されました。

実際に高札がどのように、取り付けられたかは、はっきりしません。高札には、上端に吊り金具がついている物があります。したがって、この金具が使われた事は間違いありません。しかし、高札には相当重い物も多い。強い風にあおられたら、金具だけでは堪えられないでしょう。そもそも、吊り金具がついていない高札の方が多いのです。長い年月、安定して掲示しつづけるために、高札板全体を押さえる機構が必要です。高札場が残っていないので詳細は不明ですが、おそらく、高札場に設営された溝に高札を挟み込んで固定し、金具は補助的に使われたと考えられます。

高札は、幕府などの支配者が設置し、民衆に対して掲げた掲示板です。しかし、日常の維持管理やその費用は、基本的に、町や村の負担でした。
高札の掲示が長期間にわたると、文字が薄くなってきます。その時は、役人に報告し、村方で墨入れをしました。破損、焼失の場合は、藩の裁許を得て、新たに作成しました。

江戸時代、高札は、家が密集した場所に掲げられることが多かったので、しばしば火事にあいました。火事の際の高札について、残された記録は少ない。
以前のブログで紹介した、火事にあった高札は、その焼けただれた表面が、当時の状況を生々しく伝えています。現存すること自体が不思議な品です。
御高札守護役の最も重要な役目は、火事の際、高札をはずして、他所へ避難することでした。
また、中山道垂井宿では、火事の際、直ちに高札をはずして、近くの池に浸して、焼失を防いだと言われているます。

高札に書かれた触書文の体裁や形式も独特です。
高札の文面は、一定の様式に従って書かれているのです。まずはじめに、「定」、「覚」、「写」、「掟」などの表題で、法令全体の規定します。「定」は恒久法、「覚」は一時的な決まりです。このような規定が無い高札もあります。
次に、主文が来ます。内容が多く、文面が長くなる場合、横長の大型の高札になります。

末尾には、法令が発布された年月日と発給主体(発行者)名が書かれます。奉行、人名、行政機関名などです。
第2発給者の名が加えられたものもあります。幕府(奉行)や太政官などの発給主体により出された法令主文に、「右之通被仰出候間堅可相守者也」などの文面をつけ加え、その後に、追加発給した領主、縣名などを記した高札です。詳しくは次回のブログで。
年月日については、高札が最初に発行された年月日が使われます。その後、改訂があっても、年月日は変わりません。これは、高札の重要な点です。その代表が、正徳元年の大高札であり、江戸時代が終わるまで、約200年間、正徳元年五月日のままでした。

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高札と高札場

2023年03月25日 | 高札

以前のブログで、故玩館で所蔵している高札のいくつかを紹介し、江戸時代の高札についていろんな側面から考えてみました。
引き続いて、今回からは、幕末~明治にかけての高札を中心に紹介し、高札制度が終焉する過程を追ってみたいと思います。

まず、高札と高札場について大まかにおさらいしておきます。
高札とは、法令・禁令などを人々に周知徹底させるために墨書した木板です。宿場、街道の分岐点、関所など、人目につきやすい場所に掲示され、人々に法令、そして、支配者の意向を伝えました。
高札(古くは、制札)は、奈良時代末期からすでにあったと言われています。室町時代、戦国時代をへて、次第に国中に広がり、江戸時代に高札制度が完成しました。
徳川幕府は、高札を法令公布の主要な方法と位置づけ、全国津津浦々にまで行き渡らせて、人々に法令遵守を迫りました。高札はまた、徳川幕府の権威を象徴するものでもありました(『高札ー支配と自治の最前線』大阪人権博物館、1998年、武原万雄「高札研究をめぐる現状と課題」明治大学博物館研究報告第12号、123-148、2007年)。
やがて、徳川幕府は倒れ、王政復古の新体制ができましたが、新政府は、これまでの高札制度をそのまま利用して、民衆への法令公布を行いました。なおかつ、新しく発給された高札も、その内容のほとんどは、徳川治世を踏襲したものだったのです。しかし、諸外国の反発や印刷技術の発達などにより、明治政府にかわってからわずか6年で、長い歴史をもつ高札制度は終わりを迎え、高札もその使命を終えました。

江戸の大高札場(歌川芳虎「東京日本橋風景」(明治3年))

次に、高札場についてです。
各種の高札が出されるようになると、高札は、高札場にまとめて掲示されるようになりました。高札場は、往来の激しい道筋や人々が集まりやすい場所に、一段高く設置されました。宿場には、必ず、高札場が設けられました。各村にも高札場が設置されました。幕府の中心地、江戸には、42カ所もの高札場があったといいます。
高札場の大きさは、その重要度によって様々です。街道の起点や主要地には、大きく立派な高札場(大高札場)が、地方の小村にはささやかな高札場が作られました。
大高札場の中には、10枚以上の高札を掲げたものもありました。
たとえば、岩国藩柳井奉行所横には、大きな高札場があり、その守護役が決められていました。御高札守護役大野家には、関係文書が数多く残されています(『御高札守護役 大野家文書』柳井市立柳井図書館、2003年)。その中には、高札場普請の概要が記されているものがあります。それによると、主柱5本(太さ5寸角、長さ壱丈壱尺)を立て(壱尺七寸五分ほど埋めて)、貫(巾3寸)を間隔二尺壱寸で3本渡し、上部に三尺壱寸五分の屋根をつける。両端の主柱の間隔は、弐丈三尺弐寸五分。寸法通りに作れば、できあがりは、高さ3m、横幅7mほどの巨大な高札場となります。そこへ、16枚の高札を3段に掲示したといわれています。
幕府は、高札と高札場の管理責任を藩に命じ、藩は日常の管理を各村に負わせました。維持管理の経費や手間等、村には相当の負担でした。
大きな高札場には、前述のような高札守護役が定められていたらしいのですが、詳しい事はわかっていません。
文字の読めない人々に読み聞かせるのは村方三役(名主(庄屋)、組頭、百姓代)の仕事でした。また、高札の文面や各種御触書の記録を残すのも、彼らの任務でした。

高札は、支配者の意向、そして威光を示し、伝達する手段であったわけです。ですから、高札制度の興隆、衰退は、権力の趨勢を反映しているといえます。また、時には、高札をめぐるいろいろな出来事から、世相や時代の雰囲気を感じ取ることができることもあります。

故玩館にある高札は種類も数も限られたものではありますが、物としての高札をつぶさに観察しながら、事としての高札を考えていきたいと思っています。

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唐物茶棚

2023年03月23日 | 漆器・木製品

かなり古い茶棚です。

幅 46.0㎝、奥行 34.5㎝、高 77.3㎝。中国、明ー清。

中央に収納部を備えた茶棚です。骨董屋の店先で私を待っていました。聞けば、高齢の趣味人の所から出た品とのこと。こんなのが一つ欲しかったので、私には珍しく即決となりました。さすがに野口先生では歯が立たず、福沢諭吉先生何人かのお世話になりました(^^;

左面:

右面:

背面:

あちこちに痛みがあり、目立たないように漆を塗りました。螺鈿の剥がれは、白塗りでお茶を濁しました(^^;

元々、かなり凝った造りなので、素人補修でもなんとか様になりました(^.^)

 

中央部は、2枚の戸をスライドさせて物を出し入れできるようになっています。扉の把手は蝶の形になっていて、玉製です。

文字の部分は、写真では白ペイントのように見えますが、

近づくと確かに螺鈿であることがわかります。

では、いったい何が書かれているのでしょうか。

天板の文字はわかりません。

中段:

福     自
天     来
丹     鳳
朝     陽

福自天来・・・雲の中に蝙蝠が飛ぶ図。吉祥画題。
丹鳳朝陽・・・朝日に鳳凰図。吉事、平和の象徴。

下段:

呈 (祥)
富 貴
芝 仙
祝 寿

呈祥は龍鳳、富貴は牡丹、 芝仙は霊芝を表し、長寿を祝う。 

左面:

春 風
満 坐    (すべての人々)
十 里  
荷 香  (荷=蓮)

春風がそこの人々すべてに吹きわたり、蓮の香りが十里にもわたって香る。

右面:

雲  中
白  鶴
左  琹(琴)
右  書

雲中白鶴・・・世俗を超越した高尚な境地にいる人。雲は高潔な境地のたとえ。
左琹(琴)右書・・・琴と書とともにある文人生活を表現。

棚物入扉:

倦夜 杜甫
  
竹涼侵臥内
野月満庭隅
重露成涓滴
稀星乍有無
暗飛蛍自照
水宿鳥相呼
萬事干戈裏
空悲清夜徂

竹涼(ちくりょう)は臥内(がだい)を侵し
野月(やげつ)は庭隅(ていぐう)に満つ
重露(ちょうろ)涓滴(けんてき)を成し
稀星(きせい)乍(たちまち)に有無
暗きに飛ぶ蛍は自ら照らし
水に宿る鳥は相呼ぶ
萬事は干戈(かんか)の裏
空しく悲しむ清夜の徂(ゆ)くを


竹林の涼気が寝室に入って来て、
野の月の光は庭の隅々にまで満ちている。
草葉の露は集まって滴となり、
まばらに浮んだ星がまばたいている。
暗闇の中に飛ぶ蛍は自分のまわりだけを照らし
水に宿る鳥は互いに呼び合っている。
しかし、静かで平和な自然の営みがある一方で、
世の中には戦いが渦巻いている。
私は空しく悲しむ。清らかな夜がふけていくのを。

 

この品を入手した時は、螺鈿の具合から、中国か李朝の品物か判断が付きませんでした。しかし、書かれた詩句を読んでみると、中国の品、それも文人にふさわしい物であることがわかりました。

これはもう、この茶棚に道具類を置き、煎茶をすするより外はありませんね(^.^)

 

 

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