遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

小鼓『頼政』、上がりました

2019年11月30日 | 能楽ー実技

小鼓練習曲『頼政』があがりました。


        能『頼政』

能、頼政は、武者を主人公とした修羅物ですが、派手な立ち回りはもとより、シテの舞いもなく、謡と語り、そして、簡単な所作のみで、従三位源頼政の最期を描いた能です。いわば、通好みの能といえるでしょう。

世阿弥作。『平家物語』巻四「橋合戦」(宇治川の戦い)「宮御最期(みやのごさいご)」を典拠としています。

あらすじ:諸国一見の僧(ワキ)が奈良への旅の途中、宇治へ立ち寄ると老翁(前シテ)が現われ、平等院へと導きます。そこで老人は、扇形に残された芝について、源頼政が自刃した跡であると説明し、今日は頼政の命日で自分はその亡霊だといって姿を消します。(前場)その夜、僧の夢の中に頼政の亡霊(後シテ)が戦いの姿で現われ、平家討伐の顛末を語ります。宇治川をはさんでの戦いは、防戦から、敗退となり、頼政は、平等院の芝の上に扇を敷き、辞世の一首『埋れ木の花咲くこともなかりしに・・・』を残し自害したと語り、僧に弔いを頼んで芝の草陰に消え去ります。(後場)

                        河鍋暁翠筆『頼政』(後場)

頼政が、平家との戦いを語っている場面。舞台中央で床几にかけて、戦いの様子を勇壮に物語ります。やがて床几より立ち、辞世の一首を詠んで自害する様を見せ、僧に回向を頼んで、芝の草陰に消えます。

「埋もれ木の。花咲く事も無かりしに。身のなる果ては。哀れなりけり」 


  従三位源頼政像(Wikipediaより)

源頼政:平安時代末期の武将、歌人。弓の達人。源氏(摂津源氏)の出ながら、平治の乱では平清盛につき、信頼も厚く、有能で、武士としては最高位の従三位に就いた。1180年(治承4)後白河上皇の皇子以仁(もちひと)王を奉じて平氏打倒の兵をあげたが、平氏に敗れ、平等院で自害。77歳。このとき、諸国の源氏に配布された以仁王の平家討伐の令旨が源氏再興の原動力となり、わずか4か月後、源頼朝ら源氏の挙兵となる。

 

小鼓で演奏しているのは、後場のクライマックス、クセからキリの部分です。

勇壮に戦いながら、次第に敗走し、最後は自害して果てる老武者、頼政の悲哀と歌人としての風雅が表現できるかどうか、大変力量が問われる曲です。


頼政 クセ

地  さる程に。平家は時をめぐらさず。数万騎の兵を。関の東に遣はすと。
   聞くや音羽の山つづく。山科の里近き。木幡の関をよそに見て。
   ここぞうき世の旅心宇治の川橋打ち渡り。大和路さして急ぎしに
シテ 寺と宇治との間にて
地  関路の駒の隙もなく。宮は六度まで御落馬にて煩わせ給いけり。
   これはさきの夜御寝ならざる故なりとて。平等院にして。
   暫く御座をかまえつつ宇治橋の中の間引きはなし。下は河波。上に立つも。
   共に白旗を靡かして寄する敵を待ち居たり

シテ語り 「かくて源平両家の兵。宇治川の南北の岸にうち望み

      閧の声矢叫びの音   波にたぐえておびたたし      

      味方には筒井の浄妙一来法師。

      橋の行桁を隔てて戦う。橋は引いたり水は高し
      さすが難所の大河なれば
      そうのう渡すべきようもなかっし所に
      田原の又太郎.忠綱と名乗って
      宇治川の先陣われなりと
           名乗りもあえず三百余騎。」


地  くつばみを揃え川水に。少しもためらわず。群れ居る群鳥の翼を並ぶる
   羽音もかくやと白波に。ざっざっとうち入れて。浮きぬ沈みぬ渡しけり

シテ 忠綱兵を。下知していわく
地  水の逆巻く所をば。岩ありと知るべし。弱き馬をば下手に立てて
   強きに水を防がせよ。流れん武者には弓筈を取らせ。互いに力を合すべしと
   唯一人の下知によつて

   さばかりの大河なれども一騎も流れず此方の岸に
   をめいてあがれば味方の勢は。我ながら踏みもためず

   一町ばかり覚えずしさうて
   切っ先を揃えて。ここを最後と戦うたり

   さる程に入り乱れ。我も我もと戦えば
シテ 頼政が頼みつる
地  兄弟の者も討たれければ
シテ 今は何をか期すべきと
地  唯一すじに老武者の
シテ これまでと思いて
地  これまでと思いて平等院の庭の面。これなる芝の上に
   扇を打ち敷き鎧脱ぎすて座を組みて。刀を抜きながら
   さすが名を得しその身とて


シテ 「埋もれ木の。花咲く事も無かりしに。身のなる果ては。哀れなりけり」


地 跡弔い給え御僧よ。かりそめながらこれまでとても。他生の種の縁に今
  扇の芝の草の陰に。帰るとて失せにけり立ち帰るとて失せにけり

 

小鼓独調『頼政』(14分)、よかったら、聞いてみてください。

 https://yahoo.jp/box/BFBVbC

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長崎螺鈿菓子箪笥

2019年11月28日 | 漆器・木製品

長崎螺鈿の菓子箪笥です。

最初見た時は、中国の品かと思ったのですが、中国にはこのような形式の箪笥はないので唐物ではなく、幕末に長崎で作られた長崎螺鈿とするのが妥当でしょう。

           13㎝x13㎝x15.5㎝

 

                                             正面

 日本的な花鳥風月からは少し外れているように見えますが、やはり和物でしょう。


 

波や囲み模様には、極薄の青貝が使われています。

遠くの山や岩、太古石などは、細かく砕いた青貝を蒔いてあります。

 

               上面

 

              背面

 

               右面

 

 

               左面

 

抽斗は3段です。

先に紹介した枝垂れ柳に燕紋の菓子箪笥のように、窓のあいた凝った造りではありません。後ろに窓がないので、抽斗を引き出すための取っ手がついています。

 

この長崎螺鈿を最初に見た時は、和物とも唐物ともつかない中途半端な品だと思いました。

しかし、詳しく見てみると、随所に趣向を凝らした細工がなされており、小さな品の中に、雄大な風景を描いているのです。

長崎螺鈿は一般に、平板な絵柄が多いのですが、この品は奥行きをもって描かれ、漆黒の闇の中に、楼閣山水図がボヤッと浮かび上がってきます。

やはり菓子箪笥はちがいます。小さな品ですが、その中に、キラリと光るものが含まれているのですね。     

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唐物螺鈿文箱

2019年11月26日 | 漆器・木製品

中国製の螺鈿漆器の文箱です。

いわゆる唐物螺鈿の上手品です。

          20cm x 24.8cm x 5.2㎝

 

内側にはトレーがあります。

硯箱かもしれません。

 

 

 

非常に細かい細工がなされています。

 

人物の表情も生き生きとしています。

 

しかし、全体に、相当傷んでいます。

このままでは、螺鈿がどんどん剥がれてしまいます。

やむをえず、黒と透明のカシューで私が止めました(^^;)

 

内トレーは良い状態です。

この手の唐物螺鈿の特徴は、虹色の光沢です。

非常に薄い螺鈿が貼り付けてあります。

光沢には透明感があります。これが、以前紹介した、長崎螺鈿との違いです。

 

文箱を横から見ると

上から見た時(最初の写真)に比べ、赤く光る部分が増えます。

角度によって、見える色が変わるのです。

これは、光の反射を意味しています。

長崎螺鈿の色は、貝の裏側に彩色した絵具であるのに対して、唐物螺鈿では、非常に薄い青貝の反射光によるものなのです。

だから、見る角度によって色が変わるし、透明感のある神秘的な色合いが得られるのです。

この色の妙を、絵具で簡単に作りだし、量産化をはかったのが、長崎螺鈿だったのですね。ただ、その色は少しくすんでいます。

 

箱の側面には、草花の模様がデザイン化されています。

このような模様は、琉球漆器にも多く見られます。琉球漆器も、中国の漆器を倣って作られたのです。

長崎螺鈿といい、琉球漆器といい、唐物の影響は大変大きいのですね。

 

 

 

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光秀は生きていた?!

2019年11月24日 | 故玩館日記

もうすぐ、明智光秀を主人公にしたNHKの大河ドラマが始まります。

エリカ様の騒動(安倍総理の花見買収隠し?)で水がさされたとは言え、いずれ大河ドラマフィーバーで美濃一帯が浮かれることは目に見えてます。少しでもゆかりのある所では、すでにプレイベントが行われています。

 

光秀の前半生は謎に包まれていますから、いろいろな伝説が生まれる余地は十分です。

そんな折、面白そうな場所がありましたので、フィーバーが始まる前に行ってみることにしました。

 

岐阜県美濃地方の中央部、山県市に光秀の墓があるというのです。

山県市は、岐阜市の北東部に広がる人口2万6000余の山里の地です。

 

せっかくなので、まず、墓の近くにある四国山香りの森公園へ行きました。

巨大なドームや遊び場なども備えた規模の大きい公園です。

 

香りの森公園といわれるだけあって、ハーブが多種類栽培され、施設の中では、ハーブを使ったいろいろなモノづくりを体験することができます。横には、カフェも併設されています。

当然、女性に人気の場所ですが、平日は、ほとんど人をみかけません。独占状態。

 

ここはパスして、その奥にある低い山、通称、四国山に登りました。

ここも、誰もいません。

かわりに、苔むした小さな仏が、道端に点々と座しています。

なぜ四国山かというと、山道の脇に、このような石仏が、全部で88体もあり、四国88カ所をギュッとまとめてあるからです

『今から260年ほど前のこと、両親を伴って四国八十八カ所霊場巡りの旅に出た宇野要助は、2人が涙を流して有り難がる姿を見て「こうして実際に霊場巡りのできない故郷大桑の人のためにも」と、ミニ八十八カ所霊場を作りました。』              (山県市ホームページより)

江戸中期に、山を切り開いて、人々のためにミニ霊場をつくった人がいたのですね。

急いで歩けば、1時間ほどで四国参りができてしまうのですから、今でも有難い。

 


頂上付近の眺望。100mほどの低い山です。

光秀の墓は、正面の山の向こう側にあります。


山を越える道はないので、一度南へ下って、ぐるっと迂回せねばなりません。

国道256号線から、山県市中洞集落内の細い道に入り、突き当たった所が、光秀の生誕と死にまつわる白山神社です。

明智光秀は清和源氏土岐氏の流れをくむ美濃国守護土岐氏の支流の武将といわれてます。その関係で、この神社には、光秀の母が産湯を汲んだとされる井戸跡や明智光秀の墓と伝わる「桔梗塚」があります。

 

道は、この場所で行き止まりです。とても狭い。もうすぐ観光客がドッとやってきます。それまでに少しでも駐車場をということで、ショベルカーで突貫工事をしていました。それでも観光バスはとても無理。かなり混乱するでしょう。

光秀の母がうぶ湯を汲んだとされる井戸。

井戸穴らしきものはなく、枠のみ(^^;)


 その横の道を上ります。

 

 すぐにあらわれたのが、桔梗塚。

 

 光秀の墓は五輪塔と石塔です。

 

『白山神社に隣接する林の中にある桔梗塚は明智光秀の墓とされています。光秀は、本能寺の変の後に身代わりとなった影武者「荒」木山城守行信に恩の「深」さを感じ荒深小五郎と姓名を改めたとされています。その後、関ケ原合戦で徳川家康に従軍しようと藪川(現・根尾川)を馬で越えようとしたときに洪水に巻き込まれ溺死しました。従者たちは光秀の遺品を持ち帰り、墓を建てたと伝えられており、現在も地域住民により毎年供養祭を行っています。
 なお、明智家の家紋は「桔梗紋」で、土岐氏の家紋「水色桔梗紋」から用いたのではないかとされており、この桔梗紋にちなんで「桔梗塚」と呼ばれるようになりました。また、山県市合併当初、市民により選ばれた市の花も「キキョウ」であり歴史が脈々と受け継がれていることを感じられます。』                   (山県市ホームページより)

 
なんと、明智光秀は生きていたのです。山崎合戦で死んだのは、影武者、荒木行信。光秀は、荒深小五郎と名を変え、この地に隠棲したのですが、関ケ原の戦いで東軍に参加しようとして赴く途中、薮川で溺死した・・・・これが、この地に伝わる光秀伝説です。

確かに、ここをまっすぐ西へ20kmほど行けば、根尾村の薮川(根尾川)に行き当たります。根尾川については、以前のブログで紹介した私のホームグランドなのですが、水が高ければ馬で渡るのはとても無理です。それに、数えてみると、この時点で、光秀は74歳、戦は無理でしょう。東軍に組する理由もよくわかりません。義経のチンギスハン伝説に似ていますね。
 
しかし、シーンとして誰もいない隠里のようなこの場所にしばらく留まっていると、光秀は生きていたのではないかという気がして、老武者の顔が浮かんでくるのです。薮川で溺死したというのも、荒唐無稽な話ですが、何となく光秀らしい。少なくとも、落ち武者狩りで農民に討たれるよりは(^^;)

 


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瀬戸ルス釉瓶掛

2019年11月22日 | 古陶磁ー全般

ルス釉が全面に施された瓶掛けです。

どうやって嵌め込んであるのかわかりませんが、しっかりとした木の台がついています。

             高22.4㎝、口径26㎝

 

貼花で見事な龍が

 

獅子耳、二つついています。

 

大型本にも、この瓶掛けは載っています。

 

この本(1973年発行)では、緑釉貼付雲竜文瓶掛となっています。

今は、緑釉に対して、ルス釉の名称が一般的となりました。

江戸時代、18世紀後半から幕末にかけて、瀬戸で使われた呂宋釉(るすゆう)は、 同じ緑釉の「織部」よりも、 発色が良く、 透明感が高く、均一な緑色の焼き物が得られるため、瀬戸の焼き物に広く使われ、全国的なヒット商品となりました。



均一度が高いことは平板でもあり、味わいに乏しいとも言えます。量産品ということもあって、織部の緑釉と比べ、一等低いものとされてきました。
しかし、最近、ルス釉の焼き物を再評価しようという動きが出てきています。科学的分析もなされ始めています。
 

ところが、ある日、B級雑鉢置場に・・・・

この瓶掛けが置かれているではありませんか。

かつて、アライグマが出入りしていた場所です。

 

しかも、中には土と苗が入っています。

わるびれた風もなく

「杜若の苗を植えるには、底に穴が開いていない鉢がいいんだって。これがピッタリ。」

杜若に水はつきもの。

「なるほど」と、妙に納得したのであります。

 

この瓶掛け、今は骨董市でも不人気ですが、その昔は結構な値段だったんです。

確か、私が古物に手を出しはじめて3つ目の品。遠い遠い昔のことです。

家での地位は、床の間脇 ⇒ 廊下の隅 ⇒ 土間 ⇒ 外 という運命をたどってきました。それでも、鉢カバーとして玄関横の地位をかろうじて保っていたのです。

しかし、ついに植木鉢へ降格。場所もB級置き場。

まあ、蘭鉢などには驚くような品もあることだし、と自分を慰め・・・・・

ここはひとつ貸しをつくったことにしておきましょう。


でも、相手に借りたという意識がなければ、貸したことにはならない?(^^;)

 

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