小鼓練習曲『頼政』があがりました。
能『頼政』
能、頼政は、武者を主人公とした修羅物ですが、派手な立ち回りはもとより、シテの舞いもなく、謡と語り、そして、簡単な所作のみで、従三位源頼政の最期を描いた能です。いわば、通好みの能といえるでしょう。
世阿弥作。『平家物語』巻四「橋合戦」(宇治川の戦い)「宮御最期(みやのごさいご)」を典拠としています。
あらすじ:諸国一見の僧(ワキ)が奈良への旅の途中、宇治へ立ち寄ると老翁(前シテ)が現われ、平等院へと導きます。そこで老人は、扇形に残された芝について、源頼政が自刃した跡であると説明し、今日は頼政の命日で自分はその亡霊だといって姿を消します。(前場)その夜、僧の夢の中に頼政の亡霊(後シテ)が戦いの姿で現われ、平家討伐の顛末を語ります。宇治川をはさんでの戦いは、防戦から、敗退となり、頼政は、平等院の芝の上に扇を敷き、辞世の一首『埋れ木の花咲くこともなかりしに・・・』を残し自害したと語り、僧に弔いを頼んで芝の草陰に消え去ります。(後場)
河鍋暁翠筆『頼政』(後場)
頼政が、平家との戦いを語っている場面。舞台中央で床几にかけて、戦いの様子を勇壮に物語ります。やがて床几より立ち、辞世の一首を詠んで自害する様を見せ、僧に回向を頼んで、芝の草陰に消えます。
「埋もれ木の。花咲く事も無かりしに。身のなる果ては。哀れなりけり」
従三位源頼政像(Wikipediaより)
源頼政:平安時代末期の武将、歌人。弓の達人。源氏(摂津源氏)の出ながら、平治の乱では平清盛につき、信頼も厚く、有能で、武士としては最高位の従三位に就いた。1180年(治承4)後白河上皇の皇子以仁(もちひと)王を奉じて平氏打倒の兵をあげたが、平氏に敗れ、平等院で自害。77歳。このとき、諸国の源氏に配布された以仁王の平家討伐の令旨が源氏再興の原動力となり、わずか4か月後、源頼朝ら源氏の挙兵となる。
小鼓で演奏しているのは、後場のクライマックス、クセからキリの部分です。
勇壮に戦いながら、次第に敗走し、最後は自害して果てる老武者、頼政の悲哀と歌人としての風雅が表現できるかどうか、大変力量が問われる曲です。
頼政 クセ
地 さる程に。平家は時をめぐらさず。数万騎の兵を。関の東に遣はすと。
聞くや音羽の山つづく。山科の里近き。木幡の関をよそに見て。
ここぞうき世の旅心宇治の川橋打ち渡り。大和路さして急ぎしに
シテ 寺と宇治との間にて
地 関路の駒の隙もなく。宮は六度まで御落馬にて煩わせ給いけり。
これはさきの夜御寝ならざる故なりとて。平等院にして。
暫く御座をかまえつつ宇治橋の中の間引きはなし。下は河波。上に立つも。
共に白旗を靡かして寄する敵を待ち居たり
シテ語り 「かくて源平両家の兵。宇治川の南北の岸にうち望み
閧の声矢叫びの音 波にたぐえておびたたし
味方には筒井の浄妙一来法師。
橋の行桁を隔てて戦う。橋は引いたり水は高し
さすが難所の大河なれば
そうのう渡すべきようもなかっし所に
田原の又太郎.忠綱と名乗って
宇治川の先陣われなりと
名乗りもあえず三百余騎。」
地 くつばみを揃え川水に。少しもためらわず。群れ居る群鳥の翼を並ぶる
羽音もかくやと白波に。ざっざっとうち入れて。浮きぬ沈みぬ渡しけり
シテ 忠綱兵を。下知していわく
地 水の逆巻く所をば。岩ありと知るべし。弱き馬をば下手に立てて
強きに水を防がせよ。流れん武者には弓筈を取らせ。互いに力を合すべしと
唯一人の下知によつて
さばかりの大河なれども一騎も流れず此方の岸に
をめいてあがれば味方の勢は。我ながら踏みもためず
一町ばかり覚えずしさうて
切っ先を揃えて。ここを最後と戦うたり
さる程に入り乱れ。我も我もと戦えば
シテ 頼政が頼みつる
地 兄弟の者も討たれければ
シテ 今は何をか期すべきと
地 唯一すじに老武者の
シテ これまでと思いて
地 これまでと思いて平等院の庭の面。これなる芝の上に
扇を打ち敷き鎧脱ぎすて座を組みて。刀を抜きながら
さすが名を得しその身とて
シテ 「埋もれ木の。花咲く事も無かりしに。身のなる果ては。哀れなりけり」
地 跡弔い給え御僧よ。かりそめながらこれまでとても。他生の種の縁に今
扇の芝の草の陰に。帰るとて失せにけり立ち帰るとて失せにけり
小鼓独調『頼政』(14分)、よかったら、聞いてみてください。