遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

敗戦特集 7.節米器

2019年08月19日 | 敗戦特集

「節米器」と名がついた品です。

竹製、3.5x19.5㎝。上はオープン、下は節です。

パラフィン紙で包装されていました。

 

 

 赤ラベルに、「国策 節米器」とあります。

その上に、「国策協力」、「節米報国」、「経済第一」とあり、戦時中の節約グッズであることがわかります。

 

  

底の黒ラベルには、「冷熱交流循環応用科学器」と書かれています。

竹の側面には、3段にわたって、4㎝程の縦の切れ目がびっしりとあります。

底には、穴があいています。

 

 

 図のように、米を炊くお釜の中央に立てます。すると、釜の中で対流が起こって、ご飯がうまく炊けるとのふれこみです。

 

 

 ラベルには、本器の特徴が列挙されています。

1.使用簡易

1.節米1割

1.御飯の美味

1.栄養分保持

1.焦付絶無

1.燃料節約

どうやら、内容物が循環するので、焦付きが防げ、結果として、節米、節燃料になるということらしい。

 実際に使ってみてないので、効果のほどはわかりません。

 

赤いラベルには、「帝國國策興業會封印之證」とあります。大仰な名ですが、発売元の名称です。

白いラベルには、「全日本統制連盟 荒物雑貨査定證紙」とあり、小売価格 ¥39、卸売価格 ¥30、製造価格 ¥25と書かれています。

えーっ、39円もする高価な品なの?と一瞬思いましたが、戦前の¥は、銭の記号だったんですね(笑)


笑えるような、省資源省エネルギーの品ですが、今売られている電気炊飯器のキャッチフレーズに、結構、似たものありますす・・・・・対流を促す機構がついていて、おいしいご飯が炊ける。

戦時中の手作り感あふれる品、あなどれないですね(^_^;)


 

 

 

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敗戦特集 6.寺院供出の実態

2019年08月19日 | 敗戦特集

先回のブログで、戦時中、金属類回収令によって、寺の梵鐘の多くが供出され、かわりにコンクリート製の鐘が鐘楼に吊るされた事を書きました。

この事は、割合広く知られていますが、供出の実態はほとんど明らかになっていません。

今回は、貴重な調査を紹介します。さらに、現地を訪れ、鐘以外の供出仏具や供出を免れた梵鐘についてその書きます。

 

この調査は、数年前に、郷土研究家、佐藤和夫氏によってなされたもので、岐阜県垂井町の50寺院の戦時中の供出状況を調べたものです(美濃文化総合研究会機関紙『美濃の文化』No.138、平成29年10月)。

50ヶ寺中、供出された梵鐘は43個、供出免除されたもの2個、不明5個でした。

鐘を供出した後は、鐘楼を安定化させるため、何らかの処置を各寺は行ったはずですが、長い時間がたった今となっては不明の寺が多くありました。

コンクリート製梵鐘4ヵ寺、ドラム缶梵鐘1ヵ寺、石2ヵ寺。他の寺では、鐘楼に筋交いなどの補強を施したと考えられています。

 

供出時には、この写真のように、鐘の供養がなされました。

昭和18年2月7日、梵鐘6個、半鐘1個を南宮大社例大祭に、神輿が置かれる祭礼場に並べられた。僧侶により供養がなされた後、駅から列車で運ばれていったのです。


 

 供出された鐘に対しては、感謝状が一枚、出されました。

 

一方、供出免除された梵鐘も2個ありました。

文部省が、国宝をはじめ、由緒伝来のある慶長以前の中世鐘を、回収の対象外として各県に通達を出したからです。

50ヶ寺の梵鐘の内、供出免除された物は2個。

真禅院:奈良時代製造と思われる梵鐘

願證寺:明暦元年9月10日(1655)鋳造

 

 このうちのひとつ、真禅院の梵鐘を尋ねました。

この寺は、南宮大社内にありましたが、明治の廃仏毀釈時、村人たちの必死の努力で、1㎞先の場所に移転し、難を逃れました。

 

 重要文化財の3重の塔がそびえています。

 

入口近くに鐘楼があります。

 

 造りの様式から、奈良時代の作と考えられています。 

鐘がつぶれる恐れがあるため、つかないようにしているそうです。

 

 


 さらに、寺院の本堂内で使われていた金属製仏具も供出されたため、その代用品として、陶磁器製やコンクリート製の品が使われました。ほぼ半数の寺院で、これらが確認されました。

その一つ、正行院におじゃましました。

この寺も、南宮大社脇にあります。

 左から、コンクリート製の香炉、花立(2個)です。

花立の高さ、40㎝。とてつもなく重いです。

墨で黒く塗ってあります。剥げが、年月を物語っています。

 

 

 この寺の鐘楼と鐘。鐘は、戦後すぐに再鋳されました。

なお、屋根は、通常の平行にわたされた垂木に対して、垂木が放射状に配置された扇垂木造りで、鐘楼としては珍しい造りです。格式の高さが表れています。


この地方の寺社は、幾たびも、戦火にまみれ、苦難の道を歩んできました。南宮大社も、関ケ原合戦時に焼失しました。南宮山が、毛利勢の陣地であったからです。今の社殿は、その後、家光が再建したものです。

各寺も、いろいろな苦難を乗り越えてきました。戦時中の金属類回収令による梵鐘や仏具類の供出は、寺の歴史の中でも、きわめて特異な出来事です。が、それも創意工夫と忍耐によって乗り越えてきました。今、多くの寺は、檀家の減少や後継者問題で厳しい状態にありますが、きっと、それを乗り越えて、次の時代へ梵鐘を繋いでいってくれると思います。

これが、ここ数日のお寺巡りで得た私の感想です。

 

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敗戦特集。5.コンクリート梵鐘

2019年08月17日 | 敗戦特集

資源の少ない日本では、戦争を継続するために、民間から強制的に金属類を供出させました。昭和16年公布の金属類回収令です。寺の鐘も例外ではなく、大半の寺院の鐘は供出されました。戦争末期には、大晦日、お寺の鐘がならない異常な事態に至ったのです。

 

それから80年近く経った今、お寺の鐘は?

というわけで、お盆明けの昨日15日、岐阜県垂井町の2つのお寺を訪れました。


まず、垂井宿の中心にある本龍寺。

とても立派な鐘楼に、梵鐘が吊り下がています。

 

お寺の庭の隅に目をやると

コンクリート造りの梵鐘です。高さ1m。

戦時中、鐘を供出した後、このコンクリート鐘を鐘楼に吊っていたのです。

鐘がなくては殺風景だからという理由ではなく、鐘が吊ってないと鐘楼が不安定になるからです。

当然、音は出ません。

 

もう一か所行きました。

山手にある祥光寺です。

ここにも立派な鐘楼と鐘が・・・

 

 

少しスリムな鐘のようですが・・・

 

 

近寄って見てみると・・・

ドラム缶です。

ドラム缶に、石とコンクリートを詰めた鐘です。

80年近くも、この鐘楼に吊られているのです。

 

ドラム缶の鐘と向き合うように、明治の濃尾大震災の慰霊碑が立っています。

死者7000人余の濃尾震災犠牲者を弔っています。


鐘楼のドラム缶鐘は、300万人を超える戦争犠牲者を弔い続けているのでしょうか。

 

戦争中の供出で、寺の鐘は音の出ないコンクリート塊に変りました。

戦後、70余年、今、町中では、音がうるさいと苦情が来るので、鐘を鳴らさないお寺が増えているそうです。

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敗戦特集 4.代用品、ガラス戸滑り

2019年08月16日 | 敗戦特集

戦時中のガラス戸滑りです。

金属製の戸車の代用品として作られました。

戦争中、あらゆる面で軍事優先、金属類は武器、兵器の製造に使われ、生活用具には金属がまわされなくなったのです。やむを得ず、木、紙、陶磁器、ガラスなど他の材料が使われるようになりました。

この品は、ガラスでできた戸車の代用品です。陶磁器でできた物もあります。相当量の品が作られたようで、今でも、骨董市などでお目にかかれます。

 

 4種類のガラス製戸滑りです。

左から、木枠付きガラス戸滑り(ウグイス色)小、3.3㎝(ガラス部)5個 ; ガラス戸滑り(青色)大、5㎝、2個; ガラス戸滑り(青色)中、3.9㎝、2個; ガラス戸滑り(濃青)小、3.4㎝、1個

 

ガラス戸滑り(青色)大、2個です。

 両端に、半円上の穴があります。釘で直接とめるためのものでしょうか。

 

 気泡とヌメリ感。やはり、戦前のガラスです。

 

 側面には、模様にも見えるウネリが。

 

 

ガラス戸滑り(青色)、中、2個です。

 いかにも模様に見えますが、やはり製造時についたものでしょう。

 

 

ガラス戸滑り(濃青)小、1個です。

 

 

 

 木枠付きガラス戸滑り(ウグイス色)小、5個です。木枠付きの品は少ない。

「特許 伊丹式戸滑器」とあります。

何が特許なのでしょうか? 

 

 よーく見ると、ガラスの両側はテーパーになっています。木に台形の切り込みを入れて、ガラス部を嵌め込んであります。

 

 こんな形で使います。ピッチりと嵌め込まれているので、戸が動いても緩むことはありません。

これが特許なんでしょうね。

 

ガラスだけの戸滑りもよく見ると、全部、両端がテーパーになっています。

木の薄い部分は、2-3㎜の厚さです。切り込みは、かなり精密な仕事がなされています。また、木部の両側には、釘を打つための穴もあけてあります。これなら、ガラスと釘が触れ合わずに、ガラス戸車を戸に取り付けることができます。

家にある古い戸に、この木枠付きガラス戸滑りを取り付けて使ってみました。結構、滑ります。少し油を垂らしてやれば、もっとスムーズに動きます。乱暴に開け閉めしなければ、ガラスが割れることはないようです。


戦争に金属を使われ、やむを得ずガラスで代用した戸車ですが、日本人の創意工夫はこんなところにも生かされていたんですね。

 

 

 

 

 

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敗戦特集。 3.防水マッチ箱

2019年08月15日 | 敗戦特集

これは何でしょう?

火の用心とあります。

 

 

裏面には、勇ましいスローガンが。「護れ大空」

 

 

穴があいています。

磁器でできた品です。大きさ、4x6.3㎝。片手にすっぽりと収まります。

 

 

どうやら、マッチ入れの様です。

 

 

マッチ棒を入れて、振れば出てきます。

防水マッチ入れですね。

 

側面はザラザラした磁器の面。そこを擦ってみると・・・

 

 

ちゃんと火がつきました。



これは、軍事用でしょうか。

調べてみると、昭和18年、軍命令により防水マッチの量産が開始されました。防水マッチは、マッチの頭部を蝋で覆った製品です。マッチ自身を防水加工した品です。軍では、兵士のタバコや野営用に、防水マッチを配布していました。

それに対して、この品は、ただマッチ棒を入れておくだけの物です。防水の効果は蝋に劣ります。が、使うときに蝋を取り除く必要がなく、簡便です。たぶん、民生用に作られたのだと思います。

日本では、すでに、明治初期からマッチが製造され、以来、戦争中、そして戦後も、マッチは日常生活になくてはならない品でした。

ところが、20年ほど前に、私はあることに気がついて愕然としました。20歳くらいの若者のうちのかなりの人たちが、男女を問わず、マッチを擦れないのです。聞くと、マッチを使ったことがない、マッチをするのが怖い、と言うのです。

考えてみれば、彼らが生まれたころから、日常で、マッチをする機会がなくなってきたのです。マッチを擦れなくても困ることはない。キャンプファイヤーもチャッカマンでOK。

 

当然、マッチ棒で遊んだこともありません。

彼らには、マッチ棒のパズル、新鮮だったようです。

 

小学生の頃、よく遊んだパズル:

 

マッチ棒2本を動かして、豚を振り向かせる・・・・・

 

 

 

正解は・・・

 

 

マッチ棒2本を動かして、豚さんをペチャンコに・・・・

 

 

大人の仲間入りする頃によく遊んだパズル:

彼女を誘ったら、その返事は・・・・

 

 

マッチ棒2本を動かして・・・

 

 

たあいもない遊びです。

スマホ時代に、何とアナログな!?

ちょっと待って下さい。時代は目まぐるしく変わりますが、人間はそう簡単には変わらない。DNAレベルの変化が起こるには、数万年の時間が必要です。科学技術により生活は激変していきますが、人間の方はほとんど変わらないのです。

 

たかがマッチ、されどマッチ。

マッチをすって、ほのかな光で、先の戦争や今の日本を照らしてみると、ある芸術家の青春の歌が浮かんできます。


「マッチ擦る つかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの祖国はありや」

                           寺山修司

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