遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

高札と高札場の行方

2023年06月07日 | 高札

先回のブログで、日本の高札制度があっけなく終了したことを書きました。では、高札制度廃止後の状況は如何であったのでしょうか。
明治6年2月末に、高札撤去の太政官布告が出た翌月、各縣令は高札撤去の布達を出しました。しかし、それらは統一されたものではありませんでした。高札や高札場の処置について、明治政府から明確な指示がなかったのでしょう。明治政府にとって、高札の始末など、どうでもよい事であったのかもしれません。

岐阜縣の場合、次の布達を出しています。


明治六年三月(日付無し)岐阜県令布達 第三十一号 
「掲示高札取除キ右跡ヘ御布告並達書類ヲ掲示セシム」


「五榜の掲示を取り除き、その後の高札場には、布告や布達などを掲示せよ」
との布達です。太政官布告と同じく、高札の処置については何も述べていません。

一方、栃木縣では、全く異なった対応をしています。
 

杤木縣令布達書、明治六年第廿三號  15.2㎝x22.1㎝、5丁。

『太政官布告』や『内外新報』と同じ体裁です。活版印刷で糸綴じである点が異なっています。      

「先般諸御布告書掲示其外之儀ニ付御達有之候就テハ左之通可相心得事
一各村町宿ニ有之従来ノ高札場ハ自今張出場ト可相心得事
 但是迄高札場脇ヘ別ニ張出場ヲ拵ヘ有之文取除候儀ハ可勝手事
一是迄ノ高札取除候上ハ戸長副立合ノ上一切可致焼却事
 但焼却致シ候上ハ其段可届出事
(読み下し)
先般、諸御布告書掲示其ノ外ノ儀ニ付キ、御達コレ有リ候。就テハ左ノ通リ相心得ベキ事
一各村町宿ニコレ有ル従来ノ高札場ハ、自今、張出場ト相心得ベキ事
 但シ、コレ迄高札場脇ヘ別ニ張出場ヲ拵ヘコレ有る文取リ除キ候儀ハ、勝手スベキ事
一コレ迄ノ高札取リ除キ候上ハ、戸長副立合ノ上、一切焼却致スベキ事
 但シ、焼却致シ候上ハ、其ノ段届出スベキ事

 「これまでの高札は、戸長、副戸長立ち会いの下で、すべて焼却せよ」というのです。しかも、「焼却したら、届け出よ」とまで述べています。
このように2つの県の対応には、非常に大きな違いがありますが、その理由は不明です。
両県ともに共通しているのは、高札場の処置についてです。従来の高札場を壊すのではなく、各種掲示物を張り出す場所として活用するのです。

杤木縣の布告には、高札場の役割が、高札の掲示から布達書の掲示に変わるにあたっての触れ書きが続いています。

 一以来御布告書張出シ候ハ、三十日間ヲ不過
内ハ次ノ御布告書ヲ其上へ張掛掩蔽候儀ハ
不相成前二掲示有之分ノ地ヲ避ケ其下段或
ハ右傍へ相掲ケ可申事
一御布告書之儀是迄多クハ張下ケ二致シ候様
相見へ候處自然風雨等二被曝反張破裂文字
難相辨廉モ有之二付以来ハ紙ノ大サニ適シ
候板ヲ拵へ置紙ノ下二糊シ堅固二貼付候
伹塗板等相用ヒ候儀ハ其地ノ可為便宜事
一司法省壬申第四十六號御達ノ儀ハ己二相掲
ケ有之候トモ緊要ノ事二候条更二大字二書
寫致シ張出場第一上段歟二相掲ケ可申事
一近来御布告書張出方等閑遂二其侭閣キ候歟
或ハ遷延致シ候向モ有之哉二相聞へ甚以不
相済事二候条以来ハ尚一層注慮致シ及布達
候次第何事二不限早速張出シ候様可致事
右之通相達候条可得其意モノ也
   明治六年三月    杤木縣令鍋嶌幹

(読み下し)
一以来御布告書張出シ候ハ、三十日間ヲ過キヌ
内ハ次ノ御布告書ヲ其上へ張掛掩蔽(えんぺい)候儀ハ
相成ラズ。前二掲示コレ有分ノ地ヲ避ケ其下段、或
ハ右傍へ相掲ケ申スベキ事。
一御布告書之儀コレ迄多クハ張下ケ二致シ候様
相見ヘ候處、自然風雨ナドニ被曝シ、反張破裂文字
相辨ジ難キ廉(かど)モコレ有二付、以来ハ紙ノ大サニ適シ
候板ヲ拵へ置キ、紙ノ下二糊シ堅固二貼リ付ケ候。
伹シ、塗板等相用ヒ候儀ハ、其ノ地ノ便宜為スベキ事。
一司法省壬申第四十六號御達ノ儀ハ、己(すで)二相掲
ケコレ有リ候トモ、緊要ノ事二候条更二大字二書
寫致シ、張出場第一上段カ二相掲ケ申スベキ事。
一近来、御布告書張出方等閑(なおざり)遂二其侭(そのまま)閣(開?)キ候カ、
或ハ遷延致シ候向モコレ有ル哉二相聞へ甚ダ以ッテ
相済マヌ事二候条、以来ハ尚一層注慮致シ及ビ、布達
候次第何事二限ラズ早速張出シ候様致スベキ事。
右ノ通リ相達シ候条其意得ルベキモノ也
   明治六年三月    杤木縣令鍋嶌幹

掩蔽(えんぺい):覆い隠す
廉(かど)モ:いきさつも

このように、高札場に紙の布達書を張り出す場合の要領や注意点を事細かに指示しています。


しかし、その後、各地の高札場は次第に使われなくなり、やがて壊されて、現存する物はほとんどありません。その理由は、高札場が街道筋の一等地に設置されており、その後の道路拡幅や開発などにより、取り壊されていったからだと思われます。
また、明治6年3月5日の司法省布達第27号により、諸令は、地方裁判所前、戸長宅前、県庁門前前などに掲示することになった事も、高札場が衰退していった理由にあげらるでしょう。

コメント (6)
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