プラチナ世代のマラソン旅行

時悠人chosan流処世術

★カキがノロわれた!

2006-12-19 10:23:36 | 日記・エッセイ・コラム

 全国的な拡がりを見せている「ノロウイルス」。まだまだ勢いを増す傾向にあり、不気味だが、とんだとばっちりを受けているのが「牡蠣」。これからが旬に差し掛かり出荷に追われる筈のカキ生産地では大打撃を受けている。

 カキが原因で感染した症例が発生していないのに、感染力が強いとの理由で敬遠されているとか。かつての「かいわれ」騒動を思い起こすが、安全な物を食べたいとの思いは物理ではないだけに生産者にはお気の毒だが、難しい問題だ。

 さて、ノロウイルス感染の予防策の「手洗い」だが、これが簡単なようで正しい手洗いとなると意外と難しい。5年前の入院生活中、「手の洗い方」を指導された経験があるが、手厳しいものだった。石鹸等の洗浄剤を使えば良いというものではなく、洗う時間が重要で、30秒間ではダメ。「手の平から甲」、「指の間」や「爪の間」まで、ていねいに1分間以上を心掛けることだ。

 最近では、トイレを使った後に手を洗わない人が増えてきていると言うデータもあるとか。トイレのドアノブに付着したノロウイルスが感染源に。他人に迷惑をかけないだけでなく、自己防衛のためにも、この機会に手洗いを励行することをお勧めしたい。


★メディアの被害妄想狂

2006-12-16 11:14:52 | 日記・エッセイ・コラム

 海外旅行から帰ると、「日本は平和でいい国だな」と、この国に生まれたことに感謝したものだが、今回は違った感傷に陥っている。時差ぼけや異質の文化に接触したカルチャーショックなどではなく、もっと心の深淵にヘドロがへばりついて身動きできないようなもどかしさだ。そして、その原因が分からないことが余計、無力感を増幅させる。いや、そうではなく、分かっているのに認めたくないと言った方が正確なのかも知れない。

 ドイツに滞在中、イラク情勢や中東諸国のニュースが毎日流れた。日本国内では、報道されたことがないイラク国内での治安状況の変化を目の当たりにした。言葉が理解できないだけに、視覚で捉えると余計、悲惨に映った。NHKでさえ時々、報道する程度である。こういったニュースの扱い量の差は、地理的な条件での違いなのかも知れない。

 しかし、海外と日本とでは、マスコミの報道姿勢が根本的に違うようにも思えるのだ。以前、サマワでの自衛隊の復興支援活動が流れたが、一時期、まったく報道されなかった時期があったことをご記憶だろうか。そして、撤退時期に合わせたかのようにサマワでの活動成果が発表されたので、具体的にどれだけ復興したのかと不思議に思ったものだった。

 メディアの発達で、海外のニュースが伝わるようになってきたが、それはその気になれば情報が入手出来る仕組みになって来ただけのこと。日本では、ある種のメディア操作が誰かによって確実に行われていないのか?以前から、マスメディアの報道偏向を不安視していたが、タウン・ミーティングのやらせ質問問題で、首相以下、関係者の処分が発表されたニュースを見て、さらに気が重くなった。


★冬の到来!”ぶり起こし”

2006-12-05 10:05:50 | 日記・エッセイ・コラム

 12月に入り、当地金沢は急に冷え込みはじめ、いよいよ寒く長い冬の到来だ。まだ、降雪は無いが、空いっぱいにたち込めたどんよりした雲を切り裂くように走る稲妻と、地を揺るがすように腹の底まで響く雷音は、何度経験しても克服できない恐怖だ。

 地元では、この冬雷を”ぶり起こし”と呼ぶが、脂が乗って美味いブリ漁が活気を帯びる季節のプロローグでもある。遠方の人は、「カニや甘エビが美味い季節になったな」と羨むが、私には単なる商業ベースの話題でしかない。確かに、カニやエビが美味い季節だが、近海もので安くて美味い魚は他にも沢山ある。

 とりわけ、テレビのグルメ番組で、軽薄なタレント達が褒めたたえるさまは茶番を通り過ぎて不愉快になる。日頃、ロケ弁やコンビニ弁当で満足している連中には、旬の魚の美味さが本当にわかるのだろうかと、思ってしまうのだ。

 と、いつもひねくれた見方をすると反省しつつ、ブログをしばらく休憩したい。明日6日から15日まで、充電期間とするつもりでいる。


★「赤ちゃんポスト」の功罪

2006-12-02 10:30:32 | 日記・エッセイ・コラム

 熊本市の某病院が開設した「赤ちゃんポスト」が、関係機関に波紋を呼んでいる。さまざまな事情で子育てができない親が、乳児を託すことができると歓迎する意見と、子捨てを助長する危険性があるとの反対意見もあり、複雑な問題を内包している。

 宗教的バックボーンを持つこの病院の善意であることは疑いないが、日本の文化や現実を考え合わせると、いささか不安になる。それは、個人の善意がともすると自分が望まぬ方向に進み、反対の結果につながる現実を何度も体験したからだ。

 「動機の善=結果の善」になれば理想的だし、住み良い社会になる。が、現実には、「動機の善⇒結果の悪」や「動機の悪⇒結果の善」の場合もある。政治の世界などは、後者の代表格で、結果でしか評価されない。私自身、そのことに気付いた時から会社で上司に言い訳はしないように心掛けた。その後、経営責任者になった時、部下には「動機の善≠結果の善」と叱咤激励し、愚痴や言い訳は酒の場でしか言わせなかった。

 最悪なのは、動機の善が結果の悪につながる場合だ。「赤ちゃんポスト」が安易に出産し、子捨てに利用されると当該病院だけの問題では収まらない。乳児遺棄罪とその幇助罪などの刑法問題にも波及しかねない。何よりも、罪の無い赤ちゃんの命と、その子が成人した後の心の内を慮ると、軽々に判断しかねるが、現代社会の縮図がだぶり気が重くなる。


★師走の風情

2006-12-01 08:54:31 | 日記・エッセイ・コラム

 今日から12月。「師走」とは、日頃、落ち着いている先生でさえ、走り回るほどあわただしく忙しい思いをする月と親に教えられた。が、還暦をとっくに過ぎた今頃になって、この語源を疑い出したのだから自分でも困った性分だと思う。

 世間一般に定着している定義に異を唱えるのは無用と承知しつつ、最近の先生は1年中、せかせかしている様子が気になり調べてみた。 師匠の僧がお経をあげるために、東西を馳せる月と解釈する「師馳す」というのが有力説とか。これは平安時代に遡る故事だけに説得力があるが、当時と現代では忙しさの尺度が違いすぎてピンとこない。

 ほかには、「年が果てる」意味の「年果つ」が変化したとする説や、「四季の果てる月」を意味する「四極(しはつ)」からとする説。更には、「一年の最後になし終える」意味の「為果つ(しはつ)」からとする説などがあるが、共通項は「最後の月」にあるようだ。ならば、親の教えを尊重して置く方が親孝行と言うものだ。

 最近では、学校の給食費を滞納する生徒宅を集金回りする先生が多いとか。寒風が吹く師走の町を、コートの襟をたてて足早に掛取りに回る先生の姿を想像するだけで、気の毒になる。とても、”美しいニッポン”の原形ではない。師走の風物詩にならないように、「児童手当と給食費を相殺支給する」方策を早急に検討すべきだ。