10 木枯らしの駐車場
その頃、要は、校門の石柱の陰で冷たい風を避けながら、環を待っていた。
寒いから教室で待ってろと、環に何度も言われているのだけれど、要はどうしても、雨の日以外は校門で待ってる方がいいと、言い張るのだ。
(ここに立っていると、いろんな音が聞こえるんだ)
がやがやとさわがしい子どもたちの声が、要の前を流れていく。要は体をゆらして寒さをごまかしながら、一身にその声に耳を傾ける。
――ねえ、これからだれのとこで遊ぶ?
――そしたら先生がさ……なあんていうの!
――アイちゃん、あしたから旅行なんだって。
――宿題多すぎ! こんなにやれねえよ!
これは、川だと、要は思う。たくさんの声や音を集めて、どこか広いところに向かって流れてゆく、川……。
川がどんなものかってことくらい、要は知っている。小さい頃に、家族みんなで山奥にピクニックに行って、その時小川で泳いだことがあるからだ。あの時の水の冷たさ、匂い、味、水底の石の感触、首までつかって、全身で感じた川の流れ……みんな、覚えている。
おかあさんは、要に川がどういうものか、言葉で教えてくれた。川は、空から降ってきた雨水を、山が飲み込んで、それを山が身体の中できれいにしてから吐き出して、それが細い流れになって、そんなのがいっぱい集まって、だんだんと大きな流れになり、やがて海という大きな大きな水のかたまりに、たどりつくのだと……。
でも、おかあさんの言葉よりも、もっと深く、要にはわかっていた。川が、何なのか。どういうものなのか。
あの時の、あの感じ。まるで、遠いはるかな所から、シャワーみたいに何かがいっぺんに落ちてきて、川そのものが、突然要の中に、ぐんと入ってきたような、あの不思議な感じ……。まだ小さい要には、何が自分に起こったのか、はっきりとは理解できなかった。ただ、体中が、びりびりとふるえていた。急に体の芯があらわになって、それに冷や水を浴びせられたような、そんな感じだった。そして気づいた時には、川は、ちゃんと要の中にあったのだ。
「おかあさん、おかあさん! 川がね、要のこと、好きだって!」
要がおおはしゃぎで言うと、おかあさんの優しい笑い声が、耳元で答えた。
「カナメは、何にでも好かれるのね」
「うん! 要も、川、好き!」
あの時のことを思い出すと、要はなんだか、うれしいような、泣きたくなるような、ヘンな気持ちになる。いても立ってもいられなくて、ぴょんぴょん跳びあがりたくなったり、大声をあげながら、走りまわりたくなったりもする。
そして今、要は、校門のかげで、息をひそめ、じっと耳をすます。前を流れる音の川に向かって、要は、見えない網をなげるように、神経のレーダーを張る。そして、雑多なその音の流れの中に、まるでせせらぎの中に混じって、かすかに跳ねる小さな魚のような、きらめく音を探すのが、要は好きなのだ。
要は、前にここで、今まで聞いたこともないような、とてもきれいな名前を、つかまえかけたことがある。それは、ほんの一瞬、要の耳にひっかかって、そして、まるで耳の中に、かすかな甘いつぶが跳ねるような、そんなせつない感覚だけを残して、またどこかに消えてしまった……。
あれは、一体、どんな名前だったんだろう? 何度思い返してみても、要には思い出せない。もう少しで、思い出せるような、気がするのに。手を伸ばせば、すぐ届きそうな気さえ、するのに。
(空耳だったのかなあ? ううん、そんなこと、ゼッタイない。ここで待っていれば、きっとまた、見つかるわ。そして、今度こそは、つかまえるんだ!)
要は、持っていた杖をにぎりしめると、また耳に神経を集中した。
と、不意に、茶碗が割れるような音をたてて、鈴の音が急速に近づいてきた。
「かなめ! はやく!」
環は乱暴に要の手を取ると、そのまま強引に引っ張って走りだした。
「お、おねえちゃん!?」
驚いた要は、思わず環の手を引きもどそうとした。でも環は、まるで引きちぎるような力で、要を引っ張り返した。要は転びそうになりながらも、なんとか体制を取り直し、環について走った。
「おねえちゃん、待って! 痛いよ、痛いよ!」
要が声をあげても、環は一向に速度をゆるめない。まるで何かにおびえてるみたいに、声もたてずに走り続ける。要は息を切らせながらやっとの思いで走っていたけど、二つ目の信号をわたり切った所で歩道の段差につまずき、ばたんと転んでしまった。
「あっ!」
要の白杖が手を離れて、転がった。環は要が泣き出すひまも与えずにあわてて抱き起こすと、要の服についた土をぱんぱんとはらい、杖を拾って手渡した。
「さあいくよ」
そしてまた、有無を言わさず引っ張ろうとする環の手をはらい、要は気持ちを投げた。
「待ってよ。何をそんなに急いでるの? 要、おねえちゃんみたいに速く走れないよ」
環は黙りこんだ。目の見えない要には、今環がどんな顔をしているのか、当然わからない。ただ、なんとなく、いらいらした気持ちが空気の中に溶け込んできているのが、わかるだけだ。
環は、きょとんと宙を見つめる妹の目を、憎々しげに見た。胸の底で、不穏な感情の渦が、ぐるぐるうず巻いている。自分一人だけだったら、さっさと家に逃げ帰れるのに。
環は、こわかった。ほんのさっき、怒りにまかせて自分がしでかしてしまったことが、信じられなかった。まるで、何か別のものが自分にとりついたように、言葉と体が勝手に動いた。いつ、和希の取り巻きたちが自分を追いかけてくるかと思うと、気が気でないのだ。でも、環は、低い声の中に、気持ちをぐっと押さえこんで、言った。
「……ごめん。ゆっくり歩くよ」
すると要が安心したように笑って、言った。
「うん。でも、ここはどこらへんなの? 要、途中から全然わかんなくなっちゃった」
環は周囲を見回した。五十メートルほど先に、柿の木のある家が見えた。裸の黒い枝ばかりになった梢に、暗い赤色をした柿の実が、一つだけ残っている。
「もうすぐクロの道だよ」
環はぼそりと言うと、要の手を握って、ゆっくりと歩きだした。
あの柿は、どうして残ってるんだろう? 環は、なんとなく柿の実を見すえながら、一歩一歩、踏みしめて、歩いた。じりじりした気持ちの炎が、薄い幕のように自分に張り付き、じわじわと皮膚を焼いているような気がした。そして炎は、環をあざ笑いながら、得体の知れない黒い煙りを、どこかから呼ぼうとしている。
よく見ると、柿は半身を食われて、まるで何かの遺骸のように半ば朽ちて、枝にぶら下がっていた。環は目を細め、奥歯をかんだ。近づくにしたがい、柿の実は、環の目の中で、次第に大きく、ふくらんでいった。重い風邪の高熱の中で、天井がぐるぐると回って見える時のように、周囲の風景を巻き込みながら、おばけのように、大きくなっていく……。
不意に、環は立ち止まった。あごをそらして、見あげる黒い実の向こうに、どんよりした灰色の雲が、のしかかっていた。
突然、頭の奥で、何かが、きんと、はじけ飛んだ。そして、どこか知らない虚空へ、風のように、魂が、さらわれるように、思った。
「おねえちゃん、どうしたの?」
止まったまま、なかなか歩きださない環に、要が言った。たけど環は答えない。要が環の手をぎゅっとにぎろうとすると、不意に、環が、要の手をふり離した。
「おねえちゃん?」
突然放り出された要の手が、環を探して空中をさまよった。やがて環の低い声が、少し離れた所から聞こえた。
「……行きなさいよ」
「え?」
一拍の沈黙が、小石のように要の耳につまった。環の声が、蛇のように周囲をとりまいて、じわりと要のまわりの空気をしめつけた。
「一人で、行きなさいよ。もう、ここにきて半年以上経ってるんだから、一人でだって帰れるでしょ?」
要は、環が一体何を言っているのか、しばし理解できなかった。ただ、前はすぐそばに感じた環の気配が、今、幕を一枚はさんだ向こうに行ってしまったかのように、遠く感じられた。要はどうしていいかわからなくなり、環の声がする方に手を伸ばした。
「でも、でも……」
あせる要に、環はくぐもった声で言い続けた。
「いいかげんにしてよ。いつまでも人に甘えないで。現実はそんなに甘くないんだからね。自分でやらなきゃ、他人はだれも助けてくれないのよ。わたしだって、いつまでも、あんたの世話ばかりしてるわけにいかないんだから!」
「だって、クロが……」
要はとうとうべそをかきはじめた。だけど環はフンと顔をそむけ、豆を投げつけるように冷たい言葉を吐いた。
「クロはつないであるって、何度も言ったでしょ?」
環は再び要の手を取ると、乱暴に引っ張ってクロの道の前まで連れて行き、要の体を通りの入り口に向かって立たせた。
「ほら、ここがクロの道。こっちにまっすぐ行って、あとは二回道を曲がるだけよ。今までに何回も通ってるんだから、もうわかるわよね。じゃあ、わたし、もう行くから」
「ど、どこ行くの?」
要は、再び離れた姉の手に何とか取りすがろうとしたが、環は巧みにそれをよけた。
「どこだっていいでしょ! わたしにはわたしの用があるの!」
それだけ言うと、環は要をおいて、もと来た方向に向かって走りだした。胸の中で、何かがこすれて、悲鳴をあげるような音をたてた。痛みさえ感じたけれど、環は気づかぬふりをした。環は、石をかみつぶそうとでもするように、ぎりぎりと奥歯をかんだ。そして、足を地面から引きちぎるように、走った。途中で、ふとふり向くと、ずいぶんと走ったような気がするのに、まだじっとこっちを見ている要の小さな顔が見えた。環ははっと、要が鈴の音を見ているのだと、気がついた。
「何よ、こんなもの!」
環はカバンから鈴をもぎとると、それを道端の溝の中に投げ捨てた。そして、そのまま、ふり返らずに走り続けた。
(もう知るもんか!)
木枯らしが、切るように、環のほおを打った。
いったい、どこを、どう走ってきたのか、環は覚えていない。何回かめちゃくちゃに道を曲がって、住宅街を突っ切ると、突然目の前に大きな鳥居が現れた。鳥居の向こうには小さな森があり、小ぎれいな参道が、奥の小さな社に向かって、白く伸びていた。
環はなんとなく鳥居をくぐると、正面のお社の前に、しばしたたずんだ。古びた賽銭箱の向こうで、だれのために作ったのか理解できない建物が、沈黙を中に閉じ込めたまま、静かにたたずんでいる。環は何かに導かれるように賽銭箱の前まで歩いた。石段を上り、目の前に垂れ下がった綱に手をのばすと、拝殿の暗いガラス戸に、ふと自分の顔が映った。
ガラスの中の自分は、きっと口元をかたく結び、見開いた目が風に乱れた髪の奥からぎろりとのぞいていた。まるで山姥みたいだった。見ているうちに気分が悪くなってきて、環はぷいとガラス戸から目をそらした。
石段をけってお社の前から下りると、砂袋のような心臓が、ぜいぜいとあえいだ。歩きだそうとしたが、どこへ行けばいいのか。環はぼんやりと鳥居の向こうの景色を見た後、ようやく決意して、参道を右にそれ、しばらく砂利をざりざりと踏んで歩いた。やがて、頭の上を常緑樹の梢がおおい、足の下は土の道になった。森の中の獣道のような細い土の筋が、お社の横をゆるやかに回りながら、神社の裏に向かって伸びていた。
しばらく行くと、神社の森をかこんだ石の列が途切れて、狭い出入り口になっている所に出た。そこから木々におおわれた境内を出ると、不意に頭の上に高い空が広がり、S字型に曲がった細い路地に出た。路地は少し左に行った所で広い道と交差していて、電信柱の向こうにコンビニの派手な看板が見えた。環は少しためらった後、細い路地の方に入って行った。今は、とにかく、一歩でも家から遠い所に行きたいと、思った。
引っ越してきて半年以上たつけれど、環はこんなにたくさん古い家並みがこの町にあることを、知らなかった。細い舗装道路をはさんで、両脇に小さな木造住宅がぎちぎちと並び、ときどき、とっくの昔に閉業した床屋さんの看板などが、寒空の下でさみしそうにペンキのはげた文字をさらしたりしていた。見知らぬ風景は、不安をかきたてもするが、反面、いきり立っていた自分の心をいくぶん静めるには、役に立った。
いったい、ここはどこらへんだろう? 今は、何時ごろだろう? そんな思いが、ただ黙々と歩いている自分を、半歩後ろから薄い影のようについてきていた。が、環は、半ばやけくそになって、それに気がつかないようなふりをし続けた。どこに行くつもりなのか、何がやりたいのか、そんなことは考えたくなかった。ただ、今は歩き続けていたいだけなのだ。環は無理にでもそう思いたかった。
やがて、いいかげん足も痛くなってきたころ、家と家の間の細い道を抜けて、環は広い駐車場に出た。アスファルトの上に描かれた白い枠の並び方を見て、環はふと、ここは前にどこかで見たことがあると、思った。
駐車場の奥に、二階建の建物があって、あの建物の形にも、見覚えがあるような気がする。どこだったろう? 環がしばし首をかしげて考えていたら、建物の横の、表の広い道に通じた細い入り口の方から、一台の赤い車が駐車場にすべりこんで来るのが見えた。
(あっ!)
車は、奥の建物に一番近い白い枠の中に、ゆっくりと停まった。その車から下りて来た人を見て、環はやっと気づいた。
(ここ、プチ・ノーレの裏の駐車場だ!)
赤い車から下りて来たのは、白いヒゲをはやしたおじいさんだった。地味なグレーのスーツを着て、同じグレーのコートを羽織り、頭にはベレー帽をかぶっている。ヒゲは前に見た時の半分もないけれど、絶対見まちがうはずはない。あれは、あの時のサンタクロースだ。
突然、環の体に、熱い怒りのようなものが走った。環はいきなりわきおこった感情につき動かされるまま、声を投げつけた。
「こんにちは!」
おじいさんは、驚いたようにふり向いた。見ると、駐車場のすみで、全身トゲだらけといった感じの女の子が、寒い木枯らしの中に仁王立ちになって、こっちをぎりぎりとにらんでいる。髪はクシャクシャで、頬はソーダキャンディのように青かった。
「おやおや、どうしたの?」
あの時と同じやわらかい声が、環の耳をくすぐった。でも環は、目の前を飛んだ虫をつぶすように、おじいさんがその声に込めた気持ちを、にぎりつぶした。もうその手にのるもんかと、思った。環は、おじいさんの顔を鋭い爪で引っかこうとでもするように、荒々しくわめいた。
「あんた、ほんとはサンタなんかじゃないんでしょ!」
おじいさんは、また、悲しそうな顔で、環を見た。そして、小さく息を吐いて、行った。
「……思い出した。君はタマキちゃんだね」
「わたし、もう知ってるんだから、あんたの正体!」
「ここは寒いよ。中に入って話をしないかね?」
「ほんとのこと、白状しなさいよ! あんた、ただの人間なんでしょ。難しいこと適当に言って、うそついて、子どもをだましてるんでしょ? サンタなんか、本当はいないんだって、あんただって知ってるんでしょ!」
こちらが何を言っても、環が聞く耳をもたないことに気づいて、おじいさんは目を落とし、しばし考えこんだ。
(つづく)
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