メダケ Pleioblastus simonii
イネ科メダケ属の多年生常緑笹。〈女竹〉
日本の昔話に「ならなしとり」というのがあります。三人の兄弟が、母親の病気を治してあげるために、森の奥の沼のほとりに生えているという『ならなし』をとりにいくというお話です
兄弟は順番に森へ入っていくのですが、道なりにゆっくとやがて分かれ道にぶつかり、そこには竹が生えています。一方の道に生えた竹は「イクナッチャ、サヤサヤ」と鳴り、もう片方の道の竹は「イケッチャ、サヤサヤ」と鳴っています。一郎と次郎は、「イクナッチャ、サヤサヤ」と鳴った方の道を行ったがために、沼に自分の影が映って、沼の主に食べられてしまいます。ですが末っ子の三郎だけは、「イケッチャ、サヤサヤ」と鳴った方の道を選んで、無事に『ならなし』をとって帰り、母親の病気を治すことができるのです。
子供の頃にこのお話を本で読んだとき、なぜ一郎と次郎は、「イクナッチャ、サヤサヤ」と言われているのに、間違った方向へ行ってしまったのだろうと、不思議に思ったものでした。そっちに行ってはいけないと言われているのに、まるでそれが聞こえないかのように、ずんずん間違った道を行ってしまうのです。でも大人になり、様々な人生の経験を踏んでくると、何となくその訳がわかってきます。
人生の重要な岐路で、人は時々、どうしようもなく間違ってしまうことがあります。周りがどんなに、そっちへ行ってはだめだよと忠告しても、ある種の思いグセに心を捕らわれていますから、その思いは届かないのです。人と言うものは誰しも、一度は、何の疑いもなく自分が正しいと思っている間違った道を進み、そしてつまずき、暗がりの中に迷い込んでゆかざるを得ないのです。
何が正しいことなのかを本当に知るためには、過ちの苦い経験は不可欠の課程と言っていいでしょう。人はその暗いトンネルをくぐりながら、どこを間違ったのかと、自分自身ととことんまで話し合わねばなりません。でなければ学べないことが、この世界にはたくさんあるからです。そしてそういう陰影は、誰の人生にもあります。
失敗のない人生などありえません。大事なのは、そこで何を学び、どこで引き返して来るかです。意地に凝り固まってそのまま進めば、影の映る沼が待っています。
(2004年7月、花詩集14号)
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