ハマダイコン R.sativus var.hortensis f.raphanistroides
海岸に生えるダイコンの花。元は野菜の大根が野生化したものと言われます。
何年か前のことでした。私は、ひとりで戦わなくてはならない壁と、ぶつかっていました。長い人生、何度かそういうことがあります。誰に頼ることもできない、孤独の中で自分とだけ対話しながら、おのが人生の課題と戦わねばならない日々。
その頃、私は一本のハマダイコンと出会いました。散歩道の途中で、堤防の切れた隙間を入って行くと、テトラポッドを積んだ海岸があり、目の前に小さな海が広がります。対岸の島が目の前に迫る狭い海。ほおをなでていく潮風。語りかけるような波の音。誰もいない場所で、私は自分自身と話をするために、よくそこで、海や空を見ながら長いことたたずんでいました。その傍らで、花は、テトラポッドの隙間に根差し、半分枯れたようなみすぼらしい姿で、十字の紫がかった白い花を、いくつかぽつぽつとつけていました。
なんでこんなところで、咲いているのか。咲いても、誰も見てはくれないだろうに。真面目くさった顔で、冷たい海風と、ひたひたと根をいじめる潮に耐えながら。たったひとりぼっちで。
その頃の、自分自身のことと、重なったんでしょう。私は、その花が終わるまで、毎日のように、そのハマダイコンに会いにゆきました。誰も見ない花、わたしだけは見てあげよう。そして語りかけてあげよう。その語らいの中で、この拙い詩はできたのでした。
「巧詐は拙誠にしかず」という言葉が、「韓非子」にあります。表面を取り繕ってその場だけうまくやるよりも、長い時間をかけて、心を込めてやるほうが、結果的にはよいのだと。そうであればいいな。心を尽くして、拙くても、自分のやれることを誠実にやっていけば、きっと伝わらない心も、いつかは伝わるだろう。
今年、同じ場所にいくと、前よりずっと大きく、美しくなったハマダイコンが、たくさん咲いていました。ああ、よかったねえ。うれしくなりました。あのみすぼらしいハマダイコンは、独りぼっちの岸辺で、風や潮に耐えながら、神様が教えてくれたことをまじめにやりとおして、ちゃんと種を残していったのです。そして、私のファイルの中の、小さな詩として、こうして今も、咲いてくれているのです。
(2005年6月、花詩集25号)
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