No,55
ジョヴァンニ・アントニオ・ボルトラッフィオ、「聖セバスティアヌス」、15-16世紀イタリア、盛期ルネサンス。
今回はちょっと悪い例をあげてみようか。
ボルトラッフィオは、見てわかるとおり、レオナルド・ダ・ヴィンチの弟子である。このほほ笑みの描き方は、レオナルドのまねだ。
だが残念なことに、技術は真似できるものの、ものになってはいない。これでもかと美しく描いているがね、美しい顔の裏にある心が丸見えだ。
これにだまされる人間は人間の心を見ることができないものである。事実、多くの人は、狸が化けている聖者を見るような、気色悪さをどことなく感じるはずだ。
レオナルド・ダ・ヴィンチの真似は、人間には難しい。技術だけでは描けないものを描いているからだ。
だからレオナルドの形だけをまねして描いたこの絵は、非常に、まずい例である。レオナルド的な崇高さを感じる形の、中に入れる心がまずすぎる。
美しく描けるだけの下手な画家はたくさんいるがね。これは相当にきつい。聖者の中に小猿がいるからだ。
ジョヴァンニ・アントニオ・ボルトラッフィオ、「聖セバスティアヌス」、15-16世紀イタリア、盛期ルネサンス。
今回はちょっと悪い例をあげてみようか。
ボルトラッフィオは、見てわかるとおり、レオナルド・ダ・ヴィンチの弟子である。このほほ笑みの描き方は、レオナルドのまねだ。
だが残念なことに、技術は真似できるものの、ものになってはいない。これでもかと美しく描いているがね、美しい顔の裏にある心が丸見えだ。
これにだまされる人間は人間の心を見ることができないものである。事実、多くの人は、狸が化けている聖者を見るような、気色悪さをどことなく感じるはずだ。
レオナルド・ダ・ヴィンチの真似は、人間には難しい。技術だけでは描けないものを描いているからだ。
だからレオナルドの形だけをまねして描いたこの絵は、非常に、まずい例である。レオナルド的な崇高さを感じる形の、中に入れる心がまずすぎる。
美しく描けるだけの下手な画家はたくさんいるがね。これは相当にきつい。聖者の中に小猿がいるからだ。
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