五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

祖父に倣う

2017年06月03日 | 第2章 五感と体感


祖父に倣う 2017年6月3日

戦後70年を超えたころから、何か違う方向にいっているような世間です。
過去の記憶が薄れたころに、自由でなかった時代に祖父が行っていた行為が、何か勇気を与えるような気がして、私の意識に浮上しているのです。

戦前に、北海道の根室~函館を拠点に商社をしていた祖先の財のおかげで、祖父は絵描きをしていました。絵が描きたくて家族を率いて大森に移り住んだのです。もともと東京に出て川端画学校に通い画力を養っていた祖父は、多くの絵を大森に置いていたようです。戦争中は、伊東の別荘に疎開し、大森は東京大空襲で丸焼け。絵も丸焼け。
そのようなわけで伊東が生活の拠点となり、昭和33年まで伊東に住んでいました。父が大学を卒業するころに東京に移り、自宅の敷地にアトリエを建てました。

家族の中でよく言われている「祖父は身体が弱かった、」というのは、ある意味では何かの口実なんだろうな。。。とも思っています。
戦時中伊東には、俳優や芸術家が疎開し、その中には歌舞伎役者も居り、
歌舞伎が大好きだった祖父は、特に前進座の中村勘右衛門のパトロンもしつつ、自己主張を貫き通していたようです。伊東の山の家で風景画を描く姿は、上半身裸だったそうで、戦闘機が飛び交う下で、きっと何かに挑む心持ちだったのだと私は解釈しています。
伊東の家の近所には三井の大番頭益田翁の子孫も住んでおり、近所の好(よしみ)で、子供たちに絵を教えたりして、台糖の砂糖を頂いたりして凌いでいたと聞いています。後に、益田さんと関わることとなり、祖父の話をすると、「弟が絵を習っていたよ」と、よくよく覚えてくださっていました。

戦争という現実が、多くのものを失わせ、財閥解体、銀行封鎖となり、すべての人が、ほんとうにマイナスからの出直しになっていた時期に、世間から「国賊」と陰口を叩かれていた祖父は、また淡々と絵を描き進めるのです。

高度成長期時代にスケール大きく働いてきた父とは、対照的な祖父の意思と暮らしぶりは、今、このご時世に生きている私に、肯定的な尊敬を持たせるようになりました。
食べていくためには働かなくてはなりませんが、こういう意思を貫き通しても生活できる人の存在も大事だったのだ、とも思うのです。
私自身にも祖父の血が入っているわけで、自分の選択肢の中に、そんな方向も備わっていると思うと、ちょっぴり面白い、と、つらつら思い巡らしています。

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